それでも僕らのめぐる日々・秘〜大きなガジュマルの樹の下で〜
紫雲正宗



 約三年後、この地球に巨大彗星が衝突するかもしれないという報道がなされた。
 その巨大彗星の名前は、NEAT・織田・ヒューイック彗星。一般的にはニート彗星という名で呼ばれている。直径四十キロの氷の塊。人類文明が始まって以 来の大災厄を引き起こしかねない、運命のトリガー。あるいは、宇宙のかなたから放たれた弾丸。
 いま、世界中でこの巨大な氷の塊に対処すべく、大規模なプロジェクトが進行していた。米大統領はこの計画のことをプロジェクト・マザーアース(母なる地 球計画)と呼称しているそうだが、はたしてこの計画がうまくいくのかどうか。
 未曾有の大災害を回避できるのかどうか、人々は固唾を呑んで見守り、あるいは悲観して自らの命を絶つものもいる。このさき、人類がどのような道を歩んで いくのか、その問いに答えられるものは、いまは誰ひとりとしていなかった。
 もっとも、多くの人々は、自分たちの身につけた文明という力は今回の危機も無事に乗り切れるものと楽観的に信じている。あるいは、三年という猶予が幾ば くかのゆとりを人々に齎しているのかもしれないが。
 場所は、ニライカナイのすぐ近く。海の彼方に、神々が住まう死後の世界があると語り継がれる日本の南端に浮かぶ島、仁良伊島。
 自分たちの開けた未来を必然のものと信じ、あるいは残り三年の月日を実りあるものにしようと日々を過ごす人々の息遣いが、この島にも溢れていた。



 一、シマ唄を奏でる少女と赤い髪を持つ少年

「……このように、最小公倍数とは整数Aと整数Bのどちらででも割り切ることのできる最小の数、ということになります」
 広々とした教室には教師の声が響いていた。時刻は朝の九時半を少し回ったところ。南の島の夏にあっても、まだこの時間帯は過ごしやすい。これなら勉強も 捗る、と言いたいところではあるが、なにぶんほどよい陽気というのはどうしたって眠気を誘う。年頃の中学生ともなると夜は遅くまで起きているし、そうなる と朝方の目覚めきらない身体にのしかかる倦怠感に抗するのは容易なことではない。
 だいたい、一限目から数学というのがいけない。頭の回転が追いついてこないこの時間帯に計算問題を解かせようなんて、態の良いイジメでしかなんじゃない だろうか。欠伸をかみ殺し、なんとか黒板の字を追いながら、神前真姫(かみさき まさき)は心の中でひとり不平を漏らすのだった。
 ツインテールに結い上げた長い髪。ごくごく平均的な体躯。若干発育の遅れが見受けられる胸元の膨らみは、彼女自身も気にするところではある。それに呼応 するように、顔かたちにも幾分幼さが見受けられる。
 学校のラップトップの画面に素早く黒板に書かれた内容を入力し、真姫は頬杖を着いた。そのまま、ぐるりと教室内を見渡した。
 風を入れるために開け放たれた窓。先日、ワックス掛けをしたばかりの光沢のある床。天井の蛍光灯は半分消されたまま。並べられた机は縦が五列に横は三列 しかなく、しかも最後尾の一列は二席しかない。教科書片手に、黒板に書き出した文字を指し示しながら授業を進める教師がひとりと、その黒板にむかう十四人 の生徒。
 それが、石徳中学校の二年の教室の全景だった。
 少子化という言葉が聞かれるようになって久しいが、それでもここまで閑散とした授業風景というのはやはり本土から離れた離島ならではのことだろう。
 たまに、ネット回線を使って兵庫の中学校と交流授業をするのだが、初めて本土の中学の生徒数を見たとき、真姫は驚いたものだ。一学年だけで石徳中学校の 全校生徒よりも多いのだから、彼女の受けたカルチャーショックも生半ならないものがあった。
 ただ、それをうらやましいと思ったことは一度もない。
 あれだけの数の個人が集まれば、衝突や諍いは炭酸飲料の泡のごとくにいくつも沸きあがってくるに違いない。たった十四人ですらときには仲良しこよしでい られなくなるときがあるのだ。それが、数十人も一所に集まったら大変なことだ。いじめだの非行だのが横行するのもなんだか頷ける。
 一段高い教壇の上では、教師の新嶋が黒板に向かい、先に書いた42という数字を赤いチョークで丸く括る。その上に書かれた6と14にも同じように丸を し、その三つの数字を線で繋ぎ合わせた。赤チョークを置き、生徒の顔を見渡して、
「つまり、42という数字は6と14を関連付けるいちばん小さな数字ということ。6と14の最小公約数は42ということになります」
 気を緩めるではなく、怠慢に教鞭をとるでもなく、新嶋教諭はこれ以上のシフトアップを知らないといった感じの、じつにゆったりとした調子で授業を進め る。簡潔丁寧と言えばいいのか、それでも、生徒からすると若干退屈なのは否めない。
 真姫は再び沸きあがってきた欠伸を堪えながら、『数字と数字を関連付ける最小数=最小公約数』と打ち込んだ。
 数字と数字を関連付ける。まさか、こんな文学的な表現を数学の授業で聞くなんて、と真姫は思った。数字と数字を関連付ける、心の中でもういちど反芻して みる。なんだか数学の真理にすこしだけ触れられたような気がした。
 数学の真理、といったん打ち込むもののすぐにデリート。こんなの友人に見つかったら恥ずかしいに決まっている。
 それにしても、この最小公約数というやつはいったい、この先の人生においてどのような役に立つのだろう。ふいに、真姫はそんなことを考えた。百貨店のレ ジ打ちにも、料理の際の調味料の匙加減にも、散らかり気味な自分の部屋の掃除にも、あまり役に立ちそうにはなかった。
 もっとも、学校教育というもの自体、いったいなんの役に立っているのか。「おまえたちの将来のためだ」という具体性に欠ける答えしか用意できない大人が 大多数だろう。それもそのはず、もとより問題とされているのは役に立つか否かではなく、教育を付ける義務と責任、それらを受けることによって得られる体 裁、あるいは子供たちをいかに画一化するか、ということなのだから。
 それは、『教』という字が小さな『子』を押さえつける形をしていることにも、『勉強』という熟語が「学問に『勉める』ことを『強いる』」として成り立っ ていることにも見られる。学校教育においては生徒たちは常に押さえつけられ、強いられる立場にある。子供たちの自由意志はどこまでも尊重されることはな い。
 もっとも、彼らの希薄でありながらも突発的な、ベクトルの定まらない若い衝動を抑える機構というのはどうしても必要なのだが。
 無論、真姫がここまでのことに考えが及んでいるわけではない。彼女も若い衝動を発散させる生徒のひとりに変わりはないし、学校や授業といったものにそれ ほどの不平はなかった。
 新嶋教諭は次に、黒板に12と48と72の数字を書き出した。
「じゃあ、整数が三つになった場合、どうやって最小公約数を出せばいいのか。分かる人はいるかな?」振り向きながら生徒たちに問う。
 真姫を含め、八人の手が挙がり、となりに座っていた間藤輝南(まとう てるな)が指された。栗色に色褪せたショートヘアに程よく焼けた肌。いつでも明るく表情を弾ませる彼女はクラスのまとめ役であり、真姫にとってはいちばん 気心の知れた親友でもあった。
 輝南は得意げにウィンクひとつを真姫に向けながら立ち上がり、黒板へと向かう。新嶋からチョークを受け取って、黒板に対峙し三つの整数と格闘し始めた。
 本当にわかってて手を挙げたのかな? 黒板と向かい合うクラスメイトの背中を冷やかすように目を細め、
「?」
 真姫はふと、自分に向けられた視線を感じて窓の外に目を向けていた。
 風を取り込むために開け放たれた窓の向こう側。学び舎の二階から見下ろす校庭の全景。校庭を取り巻くブロック塀の向こう側には国道が走っていて、いまは 閉じられている校門の先に車の往来を見ることができた。正門の両脇を固めるように大きなソテツの木が立ち、槍のような深緑の葉を四方に伸ばしていた。
 そのソテツのもとに真姫の視線は吸い寄せらていた。ソテツの葉が落とす落ち葉掻きのような影の中に、燃えるような赤毛の健康的に日の焼けた肌をした少年 が立っているのを目にして、
「ムナ?」
 彼女は思わず声をあげていた。朝っぱらから幽霊にでも出くわしたかのように驚き、半ば腰を浮かせて食い入るように窓の外に目を瞠る。授業中だったことも 忘れていて、席から立ち上がってからようやくそのことを思い出し、
「神前、いきなり立ち上がってどうした? なにか外にいるのか?」
「……あ、いえ、なんでもないです」
 教師の呼びかけに真姫は慌てて席に座りなおした。すいません、ちょっと寝ぼけてしまって、と適当なことを答える。新嶋教諭は怪訝な表情を浮かべながらも 「あんまり夜更かしとかするんじゃないぞ」とありていなことを口にして、すぐに授業へと戻った。級友たちからはくすくすと小さい笑い声がもれ、真姫は恥ず かしさに頬を赤らめて、大袈裟に姿勢を正して黒板に向き直る。
 しばらくして、教壇から戻ってきた輝南が、なに寝てるのよ、と視線だけで真姫にちょっかいを出してきた。それに対して、真姫は軽く舌を出して応戦する。
「えー、いま間藤に解いてもらったように、整数の数が三つになっても最小公倍数の求める順序は同じなわけで、たとえ四つでも五つでもこれは変わらないわけ だな。じゃあ、先生が黒板にいくつか例題を書いていくから、今度はみんなに解いてもらうことにしよう」
 新嶋教諭は再び黒板へと向かい、チョークを走らせ始めた。タップダンスでも踊るような軽快な音が教室に響く。
 その音を聞きながら、どうしても気になって、真姫はもういちど、今度は誰にも見られないようにそっと窓の外に目をやった。
 正門脇のソテツの下に、しかしそのときにはもう何者の姿も見ることはできなかった。


 いつもより少し早めの夕食を終えた後、真姫は自前の三線を手に家の近くに生えている大きなガジュマルの木の下に来ていた。いつもより少し早め、といって もそれは真姫の家では、の話であり一般的な家庭の夕食から比べるとむしろ遅い時間と言っていい。
 真姫の両親はここ、嘉瀬間海岸の砂浜に面したところでペンションを経営している。ペンション『しるさりしゅかぜ』。それが、彼女の両親が営む小さな宿の 名前であり、真姫の実家でもあった。
 宿主の朗らかな人柄のためか、『しるさりしゅかぜ』の客入りはそこそこのものがある。建物自体が小さく、両親が二人だけで仕事を回しているためいっぺん に多くの客を受け入れることはできないが、それでも夏季の忙しい時期には客の出入りも頻繁になり、真姫や兄の琢磨(たくま)が手伝わなければならないこと もしばしばあった。
 夕食も、宿泊客がいるときには必然、給仕やら後片付けを手伝ったあとようやく自分たちの夕食になる。それは大概、九時近くになってからだった。もっと も、顔見知りの常連客ともなると別で、彼らとおしゃべりしながら一緒に食事を済ませてしまう、なんてことも間々ある。
 今日の場合は後者で、夕食もとうに済ませ、ペンションの中では今ごろ父親の哲平太(てっぺいた)が黒糖焼酎を客に振る舞い、母の流里(るり)が女性客相 手に自慢のハーブや日焼け止めのコツなんかを伝授していることだろう。あるいは、兄の琢磨はもう父親や顔見知りの客に酔い潰されているかもしれない。
 いつもなら、真姫もその輪の中にいるはずだった。習い始めた三線で拙いながらも一曲披露、というのが真姫にとっての伝統になりつつある。真姫ちゃん、こ のまえ聴いたときよりもウマくなったじゃない。たとえお世辞であっても、真姫にとってはその一言は大いなる励みになったし、好きなことで褒められて悪い気 がするはずもない。その甲斐もあってか、いまではちゃんと聴けるようになってきたし、人前で唄うことにもだいぶ慣れてきた。
 だから、「ちょっと出かけて来ます」そのひと言を残して家を出るとき、すこし広めのダイニングキッチンといった様式の食堂から溢れ出てきた笑い声に後ろ 髪ひかれる思いを振り切るのに、若干の躊躇もあった。
 それでも、今日はどうしても確かめなければならないことがあるのだ。
 暗がりのなか、携帯電話で時間を確認すると、もうすぐ八時半になるところ。このあたりには街灯もなく、日が落ちて半時もしないうちにあたりは漆黒の闇に 包まれる。それでも、暗闇に目が慣れてくると、仄かに照らす月明かりに、天上を覆う数え切れないほどの星々に、洋上に揺蕩う漁船の漁火に気づくようにな る。まるで、忘却の彼方に沈んでいた記憶を徐々に思い出すように。
 人間がより視覚に頼って生きる生物だからだろうか、瞳が暗闇のなかに浮かぶものを捉えられる様になると、今度は聴覚が身の回りの音をしっかりと拾うよう になってくる。
 打ち寄せる小波の吐息。夜風に揺れる木立の囁き。小さな虫たちの強かな息吹。
 自宅からここまで、引かれる後ろ髪を振り切るために全力で駆けてきたため、すこし息が上がっていた。淡いピンク地にデイゴの花がプリントされたお気に入 りのキャミソールにチャコールカラーのタイトジーンズ、虫除けの為に羽織った薄手のカーディガン、肩に掛けて持った三線ケース。身に纏ったすべてのものが 汗でベタついた。
 額の汗を拭いながら、真姫は小高い丘の上に佇む大きなガジュマルの木の下にゆっくり腰を下ろした。
 三線のケースを両足で挟むように抱え、木の幹に密着させるようにすっかり身体を預けた。
 潮風が肌を撫でる。潮の香りが鼻腔をくすぐる。満天の星空は瞼に焼きつくようだった。木立のざわめく様な囁きと同調するように揺れる前髪を気にしなが ら、真姫は今朝、学校の授業中に窓から見た光景をふと思い出した。
 校門脇に立つソテツの木の下で、こちらをじっと窺っていた赤毛の少年。誰かを待っているでもなく、なにかを探すでもなく、その眼差しはまっすぐ自分のほ うに向けられていた、気がする。いや、あの少年は間違いなく私のことを見ていた。顔かたちまでしっかりと見えていたわけではないけれど、真姫にはその確信 があった。
 おそらく、間違いないだろう。あの少年は――、
「マサキ、また来たか」
 いきなり声をかけられたことに驚き、真姫は飛び上がるように後ろを振り向いた。後ろ、といってもそこにはガジュマルの太い木の幹があるだけで、正確には 頭上と言ってもいいくらいの位置。太い幹が箒のようにいっぺんに四方に枝分かれしている箇所だ。
 イソギンチャクの細い触手のように幾本も伸びる細い樹幹。暗がりのなか、そのひとつに寄りかかりながらこちらを見下ろす人影がいた。
 少し日本人離れした風貌は東南アジア系だった。欧米人のハーフやクォーターが多いこの島にあっては珍しい。半袖のシャツをボタンを留めないまま羽織り、 膝丈でぶっちぎったジーンズを履いている。胸元の水晶球をあしらった首飾りをいじる癖があるようだ。彼の近くにいると時折、魚の生臭さがツンと鼻を突くこ とがある。もしかしたら、近くの漁村に住んでいる子なのかもしれない。彼の赤い髪と覗く白い歯は暗闇のなかに浮き上がっているようだった。
 いつもだ、と真姫は思う。
 この少年が自分の背後に忍び寄ってくる気配をいつも感じることができない。まわりには、特に真姫が背にしている樹の反対側には背の高い草も茂っている し、この木によじ登るのだってそこそこ大変なはずだ。なのに彼はいつだって、瞬間移動でもしてきたかのように物音ひとつさせず、涼しい顔ひとつでいつのま にかそこにいるのだ。
 自分の頭上を飛び越え、宙返りをしながらきれいに着地してみせる赤毛の少年を目の前にして、まさかね、という想いを真姫は新たにする。
 キジムン、という単語が真姫の脳裏をよぎっていた。



 それは、小さいころに近所のおばばが話してくれた妖怪の名前だった。その妖怪は赤い毛を持ちガジュマルの樹をねぐらにする、いたずら好きで悪さもする が、普段はおとなしい性格の妖怪だという。こちらが手を出さなければなんら害もなく、気に入られれば幸福をもたらすと言われ、信じられないことだが、中に は人間と結婚するものまでいたそうだ。ただ、それももう昔のことで、
「むかしはぁ、あっちゃこっちゃで見かけたでぇども、最近じゃあ、とんと姿も見ねぇだなあ」そう話しながらおばばが見せた寂しそうな微笑が真姫には印象的 だった。どこか懐かしむようでもあるその表情に、「おばばも会ったことあるの?」と真姫は不思議とそんな予感を口にしたが、おばばは皺しわの笑みを返すば かりだった。
 もう、思い出の中だけの存在なのだろう、と真姫は小さいながらに思ったものだ。おばばが子供の頃に魅せられた夢の欠片。世の中に解かれぬ謎や摩訶不思議 がまだたくさん残されていた時代の残滓。ほんとうに実在したかどうかではなく、それを信じられたかどうかが重要だった。
 おばばが話していたとおり、今は昔のことなのだろう。科学文明は堆積していた神秘を切り崩し、掘り返し、地均しして見通しのよい平坦な土地を切り拓い た。視界を阻む怪異の山脈も、行く手を阻む奇天烈の峡谷も、もうない。否、たとえ残されていても人々はそれを信じる力をもはや失ってしまった。
「マサキ、今日はなんだ? また、唄の練習か?」
 あるいは、目の前の少年は、この世に残る最後の不思議なのかもしれないが、それを信じられるほど子供ではない。そんなお子様じゃない、という強がりにも 似た自負を年頃の少年少女は鞄に入れたペンケースのように持ち歩いている。当然のように、真姫もそのペンケースを持っていた。
 いま、真姫の目の前で、子犬のように屈んでいる少年の名前はムナという。一年ほどまえに同じ場所で同じように三線の練習をしていたところ、先ほどと同じ ようにいきなり声を掛けられ吃驚して振り向いた先にいたのが彼だった。
 ムナというのは彼自身が名乗ったものだが、果たして漢字でどう書くのか、いまだに判然としない。外見は自分よりも年上に見えなくもないが言動からは自分 よりも年下のような印象が強く、実際のところはどちらなのか分からない。それどころか、ムナがどのへんに住んでいて、家族構成はどのようになっていて、ど この学校に通っていて、といった根本的なことを真姫はなにひとつ知らなかった。もっとも、それはお互い様なのである。真姫も自分の名前と、すぐそこのペン ションが自分の家だということくらいしかムナには話していなかった。
「唄の練習もそうだけど、そのまえにムナにひとつ質問」まるで先生が生徒にするように、真姫はムナを指さした。
「? なんだ?」不思議少年は不思議そうに首を傾げる。
「あんた、今日、わたしの学校までなにしに来てたわけ?」
「んぁ? なんのこと?」
「とぼけないで。今朝、授業中にあんたのこと見たんだからね」
 それはそれは、眠くてだるくて仕方のない、一限目の数学の授業でのこと。ふと目を向けた校庭の、校門の脇に見つけた赤毛の少年の姿。それは、いま目の前 にいるムナに間違いはない。というか、彼以外には考えられなかった。少なくとも真姫は、こんなに目立つ容姿をした少年を、彼の他には見たことがなかった。
 あそこに立っていたのはムナだった、という前提で話を切り出したのだが。しかたなく、真姫は今朝の出来事を掻い摘んで説明した。
 しかし、
「でも、オレはマサキの学校、どこだか知らないぞ?」まるで日本語を覚えたての外国人のような(実際、そのとおりなのかも知れないが)、独特の喋り方でム ナは呟いた。
 言われて見れば、確かにそのとおりだった。真姫自身、学校での出来事を話すことはあったかもしれないが学校名にまで言及した覚えはなかった。ムナも相変 わらずの困惑顔。嘘をついているようにも、誤魔化しているようにも見えなかった。
 だとするなら、あの少年はいったい誰だったのだろう。あるいは、本当に寝ぼけていて、なにか別のものと見間違えたのだろうか。別のもの? なにか見間違 えるようなものがあっただろうか。
 汗の伝う顎に手を当てながら回想してみるものの、真姫には思い当たるようなものはひとつもなかった。
「そんなことより、マサキ。まえにも言ったけど、あんま夜に外で唄うのはいくないぞ。変な物の怪が寄ってくる」ムナの気遣うような声が、真姫の思考を遮断 した。腕を広げ、まるで世界の終わりを危惧するような大げさな仕種だ。これももう毎度のことなのだが、彼のその大げさな仕種は何度見てもおもわず笑みがこ ぼれる。
 夜中に口笛を吹くとオバケが寄ってくる、なんていう訓戒を大人たちはよく口にする。
 ムナが心配そうな、不安げな表情で口にした「夜に歌を唄うと物の怪が寄ってくる」というのも、彼が親から言われた戒めなのだろう。
 もちろん、それはありもしない寓話だ。そんなのただの子供だましだ。火遊びをするとおねしょする、とか、食事の後すぐに横になると牛になる、なんていう のと同じこと。ペンケースの自尊心を持ち歩く真姫にも、それくらいのことは分かっている。
 そんなのに引っかかるほど、もう子供じゃない。
 しかし、目の前の少年は違うらしい。どうやら、親から話して聞かされたその言いつけを完全に真に受けているようなのだった。真姫が、彼のことを年下だと 感じる理由がここにある。ムナと一緒にいるとどうにもお姉さん風情で接してしまうことにもそれは表れていた。
 ふいに、真姫にちょっと意地悪な心が芽生える。いつもなら、ムナの無邪気な忠告は軽く受け流してしまうのだが、
「うーん、そうね。おっかないオバケとか出てくるのも嫌だから、今日は練習するの止めておこうかなぁ」ムナにあわせ、三線のケースを横に置きながら真姫は 実に残念そうに答えた。今日はなんだか本当に出そうだし、とかそんな言い訳も添えてみる。
 すると、みるみるうちにムナは眉をハの字に寄せて、元気なく萎んでしまった。まるでお預けを喰らって耳を折りたたむ子犬のようだ。それこそペットではな いが、直に愛くるしい。少年のいじらしい様子に真姫は目を細めた。
「……えー、そんなー、今日は唄はなしか?」ムナは張りのない声で呟く。もう、呟きを漏らすだけで精一杯といった様子だ。
「オレ、マサキの唄、とっても好きなんだぞ」
「うーん、でもわたしも恐いのは嫌だし」言いながらも、真姫は笑いを堪えるのに苦心するのだった。
 いいかげん、からかうのは止めにして、そろそろ練習を始めようか。三線のケースを手に、うそうそ、オバケなんて出てくるわけないじゃない、その一言を口 にしようとして、
 ムナの誓言が真姫の声を遮った。
「わかった。だったら、オレがマサキ、護る。どんな恐いヤツきても、オレがやっつけてやる!」
 正確には、真姫が声を詰まらせたのは、ムナにいきなり両手を掴まれたためだった。ふいをつかれ、真姫は身動きできなくなってしまう。
「だから、マサキ、安心して練習していいぞ」真姫の両の手をしっかりと握り締めたまま、ムナは高らかに宣言するのだった。
 自信に満ちた眼差し。犬歯の目立つ白い歯。力強い笑顔。それらすべてがまっすぐに真姫に向けられている。
 もう子供ではないという自負はあっても、自分が多感な年頃だという自覚はあまりない。真姫はひとつ大きく脈打った鼓動に自分でも説明が付けられず、
「わ、わかったから、ほら、こっち、隣に座って。このままじゃ練習できないでしょ」
 あわてて真姫はムナの手を振りほどき、隣に座るように促がす。頬のにわかな火照りは夏の夜の暑さのためばかりではないだろう。わけのわからない動揺を隠 そうと、真姫はなるべく平静を保とうと努め、慎重に慎重を重ね、能楽でも舞っているかのような滑らかな動きを装って、三線と演奏用の撥をケースの中からと りだした。
 三線用の撥は猫の爪をそのまま大きくしたような形状をしていて、それを、やはり猫爪のように人差し指に填めて演奏する。暗がりのなか、いつもなら撥をは めるくらいなんでもない事なのに、どういうわけか少し手間取ってしまった。
 それでも、なんとか動揺を隠し切ることには成功したようで、
「マサキ、今日はなに唄うんだ?」
 ムナは先ほどと変わらぬ様子で、真姫のとなりに腰を下ろした。瞳を輝かせ、耳はすでにダンボのようだ。
 深呼吸ひとつ。乱れた心を落ち着かせ、落ち着いた心を空色に染め直す。
 真姫は三線を構え、手始めに第一弦(ウージル)を軽く弾いた。澄んだC♯が心地好く響く。目に見える音符の形にしたら、きっとハイビスカスの花弁で形作 られているんだ。自ら爪弾いた涼しい音色を耳にして、真姫はいつもそんなイメージを思い浮かべている。
 この星空の下にいくつもの花を咲かせて、南の島の花園を作ろう。一曲終えたころにはできているはず。第二弦(ナカジル)も第三弦(ミージル)も大丈夫。 調弦は家のなかでだいたい済ませてあったので、ほとんど必要なかった。
「なにかリクエストはある?」
 まるで一人前の唄者気取りである。実のところは、一度も引っかからずに弾ける曲なんて数えるほどしかない。それでも、真姫は胸を張って「なんでも弾け る」という表情を崩すことはない。
 わかっているのだ。となりにいる少年がいちばん好きな曲を、そして、その曲が自分のもっとも得意としている曲だということを。
 はたして、
「オレ、いつものがいい。いつも練習してるの、聴かしてくれ」まるで、お菓子をねだる子供のような食いつき様だった。不思議な宝箱を目の前にした少年のよ うな期待の眼差しを受け、慣れている曲とはいえ、ひとに唄って聴かせる緊張感を伴いながら、真姫は満足そうに微笑みを浮かべた。
 指の動きを確かめるように手を開閉させ、手首を回す。静かに目を瞑り、もう一度だけ深く深呼吸。弾き始めの弦に撥を掛け、左手は棹を柔らかく包み、真姫 は星空を賛美する唄を静かに歌い始めた。
 日本の南の端にある亜熱帯の島の、浜辺近くに静かに佇むガジュマルの大樹の下、ひとりの少女が奏で始めたシマ唄とともに、夏は緩やかに時を刻んでいた。



 二、神前真姫はとても思春期メランコリー

 夏休みという言葉の響きから連想されるものには人それぞれ違いがある。
 意地悪としか思えない大量の宿題。面倒くさいことこの上ない自由研究。うだるような暑さとすぐ溶けるアイスクリーム。海水浴に肝試し、夏祭りには花火。
 いったい、これだけのイベントが詰め込まれた期間を、果たして休みと称するべきなのか否か。真姫には甚だ疑問におもえて仕方がない。
 さらに言うなら、石徳中学の二年次には夏休みに入ってすぐに修学旅行という一大イベントがあった。よりによって、このいちばん暑い時期に旅行に行こうな どという発想は、いったいどんな歪んだ精神の持ち主が捻り出したものなのか。真姫にはすこぶる疑問におもえて仕方がなかった。
 とはいえ、近い将来、自分はおそらくこの家を、延いてはこの島を出て本土で暮らすことになるだろうという想いが真姫にはあった。遠く南海の離島に産まれ 育った年頃の少年少女が、それが一種のステータスであるかのように大都会に憧れを抱くのと同様に、彼女にも秘めた想いがあるのだった。それは、夢や希望と いうよりは予感にちかい。
 世に言う都会というものがいかほどのものなのか。後学のためにもしっかりと見ておく必要はあるだろう。真姫にとっての『修学』はつまりそんな思惑を孕ん でいた。
 しかし、そのあては見事に外れてしまう。
 真姫のクラスが修学旅行で赴いた先は、八百万の神々が集う伊勢神宮と世界遺産登録から二十周年を迎えた熊野三山、そして、場違いなまでに西欧の香りが漂 う志摩スペイン村だった。
 訪れた神社境内、世界的な史跡に、偽装された西洋文化。まるで、口当たりのいい和菓子にとび辛スパイスを効かせたような旅程は、それでもそれぞれに趣や 感動を得ることができたし、充分に楽しむことができた。けれど、真姫が思い描いたほどの大都市に赴く機会はついに訪れなかった。
 クラスメイトと談笑しながらも、真姫の心はひとり、話しの輪から外れ自らの目的を果たせないでいることに苛立ちを覚え、なんの考えもなくただ楽しむこと ばかりに終始する級友たちに軽蔑と怨嗟の眼差しを向けているのだった。
 結局、真姫がこの修学旅行で得たものは、名古屋空港から伊勢に至るまでの電車の窓から見た都会の外観と、ここには海がないという絶望にも似た嫌悪感だけ だった。
 旅先で見た海はどこもどす黒く、海岸沿いで聞いた波の音は細切れのホワイトノイズにしか聞こえなかった。藍白から瑠璃紺にいたる青のコントラストも、濁 音の混じらない潮騒もない。真姫の知る海はそこにはなかった。
 いきなり出鼻を挫かれた夏休みは、例年にない暑さと相まって真姫のなかにもやもやとした苛立ちのようなものを籠もらせて始まった。修学旅行を終えてから の数日、真姫はなにごとにも乗り気になれず、つねにムスッとした表情を浮かべているのだった。
 それでも、日々の生活は待ってはくれない。やるべきこともやりたいことも山積みだ。特に、真姫の家では経営するペンションの手伝いがある。大概は、午前 十時のチェックアウトを終えてしまえばお客もいなくなり、比較的ゆっくりとはできるのだが、夏季の忙しい時期だと次に来る宿泊客の準備をすぐにする必要が ある。
 客の送り迎えや食料品などの買出しは一括して父親の哲平太が担っているが、それ以外の、客室や食堂の掃除、寝具の入れ替え、洗濯などは母の流里と兄の琢 磨、そして真姫の三人で分担して行っている。その他にも、窓拭きや海辺のテラスの整備、ペンションの壁磨きなどをだいたい週一単位でやらなければならな い。
 今日も若いカップルと四人家族の二組を送り出し、ひと通りの後片付けを終えてからの昼食となった。が、悲しいことに今日の献立は母親のスペシャルメ ニューだった。
「新しい料理に挑戦してみたんだけど、またふたりに試食してもらおうと思って」母は破壊的とも言えるほどの満面の笑みを浮かべながら、どうにも形容のしが たい無国籍料理を二人の子供に振る舞うのだった。
 神前家の兄妹にとって母のスペシャルメニューほど残念なものはない。見た目に反して、そこそこの確率で当たりを飛ばすのだが、たまに出てくるハズレの日 には神前兄妹がそろって劇画タッチのムンクの叫びを催すのだ。
 果たして、勇猛果敢に母の料理をひとさじ口に運び、やはりムンクの叫びを体現する兄の姿を目の当たりにして、今日は最悪な日だ、と真姫は内心泣きたい気 持ちでいっぱいになるのだった。
「母上殿、此度の新作は、失敗にござる。……っていうか、水ください」苦悶の表情で訴える息子に、母は「そんなはずないでしょう?」と憤懣やるかたないと いった険しい表情をつくった。しかし、息子の皿に盛られた自分の料理をひとくち食べるとなにやら納得がいったらしく、
「うん。食塩の分量間違えたかも」と呟きながら、ふたりの皿を回収しキッチンへと戻っていく。
「あのさ、いつも言ってる気がすんだけど、味見はしないのかよ、味見は?」堪りかねたのか琢磨は席を立ち、母の後を追ってキッチンへと入っていった。ああ でもないこうでもないと指南する琢磨に対し、「ろくに料理もできないのに」と母が反論する声が続く。しばらくの間、まるで兄妹のようにじゃれあう母子の話 しを聞きながら、真姫はひとり、つい一時間ほど前の出来事を振り返っていた。
 今日は最悪な日だ、という想いとともに。



 それは客室を廻ってゴミ集めをしていた時のこと。その部屋は若いカップルが泊まった部屋だった。ベッドのわきに置かれた屑かごのなか、ペットボトルやス ナック菓子の袋と一緒にそれは出てきた。
 いまにして思えば、不用意に手にしたのが間違えだった。他のゴミと同様に分別しながら手際よく片付けようとして手にしたチリ紙の塊。それに触れた瞬間、 手に纏わり着くような湿り気を感じて、ふと見ると、端から夜の営みに使われるゴム製品の一部が覗いていた。
 短く漏れた悲鳴。
 手にした汚物を勢いよくゴミ袋に投げ捨て、部屋の片付けもそのままに、真姫は得体の知れぬ化け物から逃げるように洗面所に駆け込み、何度も何度も執拗に 手を洗った。
 そんな必要もないのに、頭は勝手に昨晩泊まっていった若い男性客の顔を、その表情を繰り返し思い出す。若いカップルの片割れ、二十歳過ぎの不自然なほど 日に焼けた、頭の弱そうな男の表情。どこまでも軽薄で退廃的で、その視線は真姫に向けられる時、必ず淫猥な色をその瞳に宿していて、
 男の視線から真姫が感じ取ったものは恐怖だった。
 洗面所で手を濯ぎながら、いつのまにか真姫は泣いていた。いまさらのように沸いてきた恐怖に、冷房の届かない蒸し暑い洗面所の中、真姫はひとりむせび泣 いた。
 幸か不幸か、泣いている姿を家族の誰にも見られることはなく、いまはもう真姫は平静を保っている。もう子供じゃないんだ。これくらいのこと、自分で対処 しなくちゃ。なけなしの自尊心を総動員して、真姫はなにもなかったかのような態度で日々の生活に戻った。それでも、忌々しい記憶が拭われることはない。
 テラスに面した大きな窓。その先に広がる白い砂浜。差し込む日差しを頼り、いまは室内の灯りを落としている。天井のシーリングファンだけが静かに回って いた。キッチンでは母が鼻歌混じりに食器の片づけをしている。ダイニング形式の食堂とキッチンとを隔てる仕切りの壁際にはテレビが置かれ、いまは甲子園の 熱闘を流していた。向かい合って座る兄の琢磨は、片肘を付きながら昼食後に出された黒糖のアンダギーを頬張りつつ、高校球児たちの熱戦に見入っている。
 普段となにも変わらない日常。普段となにも変わらない光景。そのなかにあって、自分ひとりだけこの日常には馴染まずにいた。鮮やかな色合いで描かれた風 景画のなかにひとつだけ穿たれたどす黒い黒点。それが、いまのわたしだ、と真姫は思う。
 夏休みに入ってからというもの、思えばろくなことが起きていない。運命の歯車というものがあるとしたら、自分の歯車はきっと良くない方向に回り始めてい るに違いない。いったいなにが発端となってこの苦難は続いているのだろう。歯車の回転をもどす鍵はどこにあるのか? いや、そもそも初めからそんなものは なくて、このさき自分の人生は崖から足を滑らせたように転落していくばかりなんじゃ?
 凶兆と自壊。暗転する未来予想図。
 繰り返される悪しき記憶のルフラン。
 テーブルの下、固く握り締めた右手。その手のなかにあるものは、怨恨と屈辱。
 白色の汚物に触れたときに感じたぬめりにも似た感触は、どれだけ洗っても落ちることなく、いまだに手に残り続けていた。いっそのこと、この手首ごと切り 落としてしまいたいとすら思う。
 いったい、どうして自分だけこんな辛い想いをしなければならないのか。自分は、いったいどれほどの罪を犯したのだろう。全能の神が司る唯一絶対の不文律 が存在し、降りかかる災難がなにがしかの天罰によるものだとするなら、いったい自分はどんな大罪を犯したというのか。
 考えれば考えるほど気持ちは沈んでいく。表向きは平静を保っているが、心の中はひどく乱れていた。
 そんな真姫の変調に気付いたのか、
「おまえさぁ、今日はなんか、機嫌悪くね?」
 気付くと、兄の琢磨が訝しげに真姫の顔を覗き込んでいた。べつに、妹を気遣っているというわけではない。興味本位にひとの機嫌を窺っているだけだ。兄の 態度にはそれがありありと表れていた。もっとも、彼がなにごとにもいまひとつ煮え切らない態度で臨むのはいつものことで、真姫もそのことはよく知ってい る。だから、普段ならそんな兄の言動に気を悪くするようなこともないのだが、今日ばかりは違った。
 こいつはなにも知らないんだ。わたしの苦悶も、苦悩も、苦痛も、なにも。それがなんだか腹立たしかった。きっと、いまこうして実の妹から不快な眼差しで 睨まれていても、なにも感じてはいないだろう。いつだってそうだ。感情を昂らせるのは自分ばかり、こいつは軽く受け流して逃げるばかり、まともに噛み合っ た事なんて一度もない。それがよけいに真姫の感情を逆なでする。
 食って掛かってもこちらが損をするばかり。それが、十数年に及ぶ神前家での生活で真姫が得たもっとも実用的な経験則だった。
 だから、機嫌悪いのか? という琢磨の問い掛けに、激情を内に籠もらせながらも真姫は努めて冷静に、おまえなんかにわたしの気持ちが分かってたまるか、 という言葉の代わりに、
「別に」とそっけなく答えてそっぽを向くのだった。
 胸の辺りでとぐろを巻く、得体の知れない怪物を宿しながら、真姫はしばらく家の前に広がるオーシャンビューを見渡していた。白い砂浜に青い海。修学旅行 先で見た偽物とは違う、本物の海が展開している。
 窓枠の左端。突端だけが見える潮御岬からパンして視線は砂浜をなぞる。点在する岩場にアダンの群生、係留された孤独な小舟。家の正面までくると砂浜の白 一色で、兄の背中を通り過ぎて右端の先までずっと続いている。湾曲した海岸線の向こう側には嘉瀬莉集落の小さな漁港がわずかに見えた。
 そのとき、視界の端になにか違和感を感じた。いつもならなにもないはずの場所になにかを見たような、それをいま見逃したまま過ぎてしまっていたような。
 幽かな胸騒ぎとともに、真姫は右端まで行き着いた視線を一気に家の正面まで戻す。ちょうど対面の琢磨の肩越しに見える、日差しを受けて輝く空色の海。遠 浅で透明な海水を湛えるこのへんの海辺は、波打ち際からしばらくは砂の白が続き、内礁から水の色が混じり始める。その白と水色との境目あたり、一畳ほどの 小さな岩場の上に、少年の姿があった。
 刹那、真姫はデジャヴに襲われる。
 いつかどこかで目にした風景。たしかその時も、わたしは椅子に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めていて。だけど、ここじゃない。この光景を目にしたのは 自分の家ではなかったはず。あれは、そう、あれは。
 思い出した。それは、いつかの授業風景。眠気を堪えて黒板に向かっていた、一限目の数学の授業の時のことだ。
 燃えるような赤毛と焼けた健康的な小麦色の肌の少年は、じっと立ったまま静かに真姫を見据えていた。まったく、あの時と同じだった。
 ――ムナ?
「あのさ」
 その声は真姫の意識に唐突に割り込んできた。遠く窓の外に意識が集中していた真姫にとって、その声は思いのほか近くから聞かれたため、真姫はすこし慌て ながら声の主を追った。が、なんのことはない、相手は目の前に座る兄の琢磨だった。
 目を向けると、彼は頭を掻きながらなにやら申し訳なさそうな顔をしている。まるで不祥事を起こして平謝りを繰り返すどこぞの不良会社の社長のようだ。こ れから謝罪会見でもしようというのか。
 遠くに向けられていた意識を遮断され、さきほどから燻らせていたやり場のない怒りと相まって真姫は不機嫌至極な態度で、なに? と声もなく目だけで兄の 言葉を促がした。
 それに次いで行われた琢磨の謝罪会見はわずか十秒で終わってしまう。
 実にしまりのない半笑いを浮かべながら、
「ごめん、美味くてつい、おまえの分まで食っちまった」兄は小さく頭を垂れ、テーブルの上の皿を持ち上げて見せるのだった。
 昼食後のおやつとしてふたりで食べるようにと出されていた皿。その中にはもう、黒糖アンダギーはひとつも残っていなかった。
 真姫の中でなにかが切れた。
 普段なら、おやつごときで頭に血を上らせるような真姫ではない。これでまだ小学生の頃なら、泣き喚きながら兄に掴みかかったり親に助けを求めたりもした だろうが、さすがにもうそこまで子供ではない。
 あるいは、もう、お兄ちゃん最低! くらいのことは叫んで、上辺だけの怒りと些細な幸せを奪われたことへの抗議を申し立てたかもしれない。それでもし、 兄や母からなにか代わりになるものが引き出せるなら儲けものだ。災い転じて福となす、ではないが災い逆手に利を得るくらいのしたたかさを真姫だって持って いる。
 しかし、何事にも限度があった。時に人は理性のキャパシティーが及ばぬほどの激烈な感情を噴き上がらせることがある。例えるならそれは、グラスに注がれ 続けた汚れた水だ。
いまやグラスの中の水はいっぱいになり表面張力で膨れ上がっている。そこに落とされた最後の一滴。たったそれだけで、グラスの水は溢れ出しテーブルを濡ら す。
 あるいは、最後に注がれたのは熱せられて融解した金属の液体かもしれない。急激に熱せられた水は行き場を求めて暴れ、水蒸気爆発を起こしグラスもろとも 吹き飛ばす。
 おやつの取り合いなど些細なことだ。そんなことは真姫だって承知している。しかし、いまの彼女にとってその最後の一滴はグラスを粉々に吹き飛ばすに充分 なものだった。
 片手を上げ、すまなさそうに侘びを入れる兄をキッと睨みつけ、真姫は勢いよく立ち上がる。蹴倒した椅子を直しもせず、そのまま踵を返し、
「ちょっと出かけて来ます」有無を言わせぬ態度でそれだけ告げて食堂を後にする。引き止めようとする兄の声は無視。食堂から顔だけ出して「どうしたの?」 と事情の分かっていない母が首を傾げながら問いかけるも、「海で泳いでくる」と振り返りもせずに答え裏口へ回る。
 履いていた靴下をその場に脱ぎ捨て、下駄箱からビーチサンダルを取り出して突っ掛け、外へ出た。
 頭上から降り注ぐ太陽。身体を包み込むような暑さ。
 海と山と空のパノラマを見渡しながら、こんなのが人生のすべてなのか、というやり切れない思いを胸に真姫は歩き出した。



 日差しの眩しさと暑さを除けば、風もなく穏やかな日だった。海も静かに凪いでいて白波も立っていない。海鳥が海面に漂い、斑紋様の蝶がグンバイヒルガオ の花で羽根を休めている。
 砂浜の遠くの方で数人の子供が水を掛け合って遊んでいるのが見えるが、おそらくは地元の子たちだろう。海水浴シーズンになってもこの島には海水浴客の姿 はあまりない。それは、ここを訪れる海水浴客が少ないのではなく、本土の有様が異常なのだ。
 海の家が軒を連ね、飲み物や食べ物を求めて人々が行列を為し、砂浜が見えなくなるほど人が押し寄せ、迷子が泣き叫び盗撮魔が検挙される。テレビで目にす る海水浴の映像をみても、あれのいったいどこが海水浴なのか、真姫には甚だ疑問に思えるのだった。
 それにしても今日は暑い。外に出てからまだ少ししか経っていないというのに、額にも鼻頭にも汗が噴き出ている。仰ぎ見る太陽の光は強烈そのもの。こんな 炎天下の中に晒されていたら肌が焼けて仕方ないだろう。普段の真姫ならまず間違いなく家にとって帰し、日焼け止めを求めるところだ。しかし、いまはそんな 気分ではない。
 焼けるなら焼けてしまえ。そのまま、ローストポークにでもなればいい。どうせ、今日は最悪の日なのだ。これ以上ないところまで堕ちてしまえばいい。
 すでに排熱処理の追いつかなくなっている真姫の思考回路は、夏の暑さに晒されてさらに熱を帯びていく。すでにオーバーヒート寸前だった。
 わき目も振らず、どこへ向かうのかも分からず、真姫は波打ち際を肩を怒らせて歩いていく。すると、
「マサキ、どこ行くんだ?」突然、背後から呼び止められた。
 吃驚した。
 今日ばかりはそれこそ腰を抜かしそうになった。胸に手を当て、破裂しかけた鼓動を抑えながら振り向くと、やはりそこにいたのはムナだった。いつもなが ら、なんの物音もさせぬまま真姫の背後に立ち、無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
「マサキ、なに驚いてる?」驚きの表情そのままの真姫に、ムナは不思議そうに小首を傾げる。それに対し、いまだ鼓動の鎮まらない真姫は、
「なに驚いてる、じゃないわよ、あんた。驚くに決まってるじゃない。まったく、いつもいつもいきなり私の背後に現われて」と不満たらたらに口を尖らせるの だった。
「っていうか、わざとでしょ? ぜったい、ひとのこと驚かそうとしてるよね」ムナを指さし問い詰める真姫。それに対しムナは、
「えー、オレ、そんなことしてない」しれっとした顔ひとつで答える。
「だったら、もっと普通に声掛けてくれない? 毎度毎度、ほんと心臓に悪いんだけど」
「オレ、いつも普通にしてるつもりだぞ?」
 どこが普通なのよ、と言い掛けて真姫は止める。どうもこのまま話しを続けても水掛け論になるばかりな気がした。
「それより、あんたこそなにしてるわけ?」
 よく見ると、いつもは四方に跳ね上がっているムナの赤毛は水に濡れ、べったりと潰れていた。上半身裸で、身体の至るところに水玉が浮き、それらはどうや ら汗ではなさそうだった。しかし、下に履いているのは水着ではなく、いつものぶっちぎりのハーフジーンズである。果たして、ジーパンなど履いて泳いだりす るだろうか。
 トレードマークのように身につけている彼の水晶球の首飾りに目を向けながら、男の子ならこの格好でも泳ぐか、と思いなおし、
「もしかして、泳いでた?」真姫は海の方を軽く指さしながら尋ねた。しかし、ムナは大きくかぶりを振りながら、自信満々に答える。
「ううん、昼メシ獲ってた」
「は?」
 昼メシ獲ってた? ムナはさも当たり前のように口にしたが、真姫にはなんのことだかさっぱりだった。しかし、真姫の困惑などお構いなしで、ムナは満面の 笑みを浮かべながら、
「今日は大物獲った。マサキ、一緒に食うか?」ムナは片手に掴んでいたものを持ち上げて見せた。彼が手にしていたのは体長三十センチほどの赤膚の魚だっ た。
「え? まさか、いま獲ってきたの?」目の前に差し出された魚を指さしながら真姫は驚きの表情を隠せない。しかし、ムナはいたって平然と、「そう」と短く 答えるだけ。
「そう、って。いったいどうやって獲ったのよ。まさか素手で掴まえたわけじゃないよね」
「あー、えーと。……テイチアミ、っていうんだっけ? 海の中に網を張って、そこに魚を追い込んで行くんだ。猟師のおっちゃんがやってるの見て真似してみ た」
 それは、定置網漁じゃなくて追い込み漁でしょう? とは敢えて指摘しなかった。追い込み漁なら真姫も学校の体験学習として一度だけやった事がある。それ だけに、正直信じられないという思いのほうが先に立った。
 通常、追い込み漁は数人で組んで行うものだ。実体験としても、あれをひとりでやり切るのは難しいと真姫は思う。中にはひとりでやってしまうベテランもい ると聞いた覚えはあるけれど、自分と大して歳の変わらない少年ができることだろうか。たとえ、彼が漁村の産まれだとしても、それは考えづらいことだった。
 服着てくるからちょっと待ってろ、と近くの低木の枝に引っ掛けてあったシャツを取りに走るムナの背中を見ながら、この少年はいったい何者なのか? とい まさらながらの疑念を真姫は胸に秘めるのだった。
 服を着て戻ってきたムナは、魚を片手に、もう一方の腕に枯れ落ちた枝葉を抱えて戻ってきた。そんなものどうするのかと聞けば、この場で焼いて食べるとい うのだから信じられない。いったいどうするというのか。
 この少年はいったい何者なのか? さきほどふいに湧いた疑念と供に興味をそそられ、真姫もムナの後について行くことにした。
 いつもここで焼いて食べてる、とムナに案内された場所は浜辺の切れ目のさらに奥、海にせり出した岩場を乗り越えた先にある岸壁と海とに囲まれた本当に小 さな砂浜だった。
「こんなとこがあるなんて、わたし知らなかった」
「だろ? ここ、オレの秘密の場所。オレ以外、人間入れたのはマサキが初めてだ」
 三方のごつごつした岸壁を見上げながら真姫が嘆息を漏らすと、ムナは本当に自慢げに鼻を鳴らした。
 ひとしきり秘密の場所の案内を終え、ムナはいよいよ魚を焼く準備に入った。
 シャツの胸ポケットから折りたたみのナイフをとりだし綺麗にうろこを剥がしていく。細長い木の枝を魚の口からぶっ刺して準備完了。あとは魚を焼く為の火 を起こすだけ。
「マサキ、ちょっとこれ持ってて」
 ムナは串に刺した魚を真姫に手渡すと、残りの枝葉を一箇所に掻き集め、水晶の首飾りを外した。彼が手にした水晶球は直径三センチくらいの小ぶりなもの だったが、それでも器用に太陽の光を集め、いとも簡単に火を起こしてしまう。
「あとは焼くだけだ」真姫に預けていた魚串を受け取り、ムナは実に楽しそうに笑うのだった。
「っていうか、腸とか取らないのね」素直に感心するのもなんだか癪な気がして、真姫はそんなどうでもいいことを指摘してやった。「魚を捌くならわたしのほ うが上手いな」なんて負け惜しみのようなことを呟く。
 それにしても、ほんとうにこの子は何者なんだろう。焼き始めてからまだ五分足らず、どうみても生焼けの魚に豪快に頭から齧り付くムナを焚き火ごしに眺め ながら、へんなヤツ、と真姫はその認識を新たにするのだった。
 結局、一緒に食べるか? と誘っておきながらムナはまるまる一匹を骨ごと平らげてしまった。もっとも、あんな生焼けの状態では真姫としてもご遠慮願いた いところではあったのでそれは別にいいのだけれど。
 腹が膨れれば次には眠気が襲ってくる、というのは万人に共通の生理現象のようだ。彼のいうところの昼メシを終えると、ムナはいまだ燻り続けていた焚き火 の始末をし、崖の下の日陰まで移動してその場に寝転がった。秘密の場所だけあって、茣蓙敷きの寝床がちゃんと用意されていた。
「マサキも一緒に寝るか」いまだに突っ立ったままでいる真姫に気を使ってか、ムナは身体をずらし茣蓙敷きの寝床にスペースを空けた。が、無論のことシング ルベットでふたりきりなんていう往年のバラードソングのような状況を真姫が受け入れるはずもなく、
「い、いいわよ。あんたひとりで寝れば」頬を紅潮させ、手をぶんぶん振って真姫はムナの申し出を断った。その慌てようが可笑しかったのか、
「マサキ、どうした? 顔赤い」と真姫を指さしながらけたけたと笑うのだった。
「知らないわよ。バカ」彼の指摘に憤慨しながらも、真姫はムナの隣に腰を下ろす。なにかの石碑のようにひとつだけ突き出た岩が背凭れにちょうど良さそう で、そのまま身体を傾けた。
 崖の下の日陰は思いのほかひんやりと涼しく、居心地が良かった。海からのそよ風も柔らかな小波の音も清涼感を誘う。背にした岩は逆にまだ熱が籠もってい て人肌程度に温かく気持ちいい。遠くから聞こえる船の警笛も、海鳥たちの鳴き声もいまは子守唄に聞こえた。
 しばらくのあいだ、ふたりの間に会話はなく、どれだけの時間が過ぎているのか、感覚もおぼろげなまま真姫は夢現の中を漂っていた。



 遠浅の海の中、ムナが立っていてじっとこちらを見ていた。真姫は手を振って彼のことを呼ぶのだけれど、むこうは一向に応じようとしない。しかたなく、真 姫はムナのもとまで歩き始める。しかし、数歩進んだところで急に足が動かなくなってしまった。
 足元を見ると、足首から先がすっかり砂の中に埋まってしまっていた。しかも、まるで蟻地獄にでも嵌まったかのようにどんどんと砂の中に沈んでいく。
 埋まった足を引き抜こうともう片方の足で踏ん張る。しかし、今度は踏ん張った方の足がより深くにめり込んでしまう。その間にも身体は徐々に引き込まれ、 膝まで埋まり腰まで埋まり、なにか掴もうと辺りを見渡してもなにも見当たらず、じたばたと?いてもよけい深みに嵌まるばかり。
 そしてとうとう胸元まで砂に埋まってしまい、あまりの恐怖に声を上げることもままならず、
「マサキ、ダイジョウブ?」
 ふと見上げてみると、すぐそばに赤毛の少年が立っていた。静かな微笑みを湛え、こちらに腕を伸ばしている。
 ムナだ、ムナが助けに来てくれた! もうすでに肩までが埋まり、半狂乱の真姫は助かりたい一心で必死に腕を伸ばす。もう少しで手が届く、その刹那、真姫 は少年の顔を垣間見た。
 ひどく落ち窪んだ眼窩。耳まで裂けた口。茶褐色の肌は立ち枯れた老木のように皺がよっていて、腹だけが異様に膨れ上がっていた。
 目の前の少年はムナではなかった。それどころか、明らかに人間ですらない。
 恐慌と戦慄が真姫の身体を駆け巡り、自失と絶望が真姫から言動のいっさいを奪い去る。
 心に大きな穴を穿たれ、感情のひとつももうそこには残されてはおらず、頬を伝った涙もすぐに砂に溶けた。
「マサキ、ダイジョウブ?」
 目の前の異形の者は一段とほくそ笑みを深め、伸ばしていた腕は真姫の手をすり抜けて、彼女の頭を押さえつけ、
「バイバイ、マサキ」
 真姫の頭を一気に押し込み、彼女の身体は完全に地中に没した。



 暗闇。
 真空。
 無我。
 マサキ!
 わたしを呼ぶ声。
 誰? どこ?
 伸ばす腕、無い。
 振り返る、振り返る?
 アツい、ツメたい、カンジない。
 混沌。
 森羅。
 なにもない。
 マサキ!
 誰?
 マサキ?
 マサキとは誰?
 わたしは、
 一閃の光。
 覚醒。



「マサキ、しっかりしろ!」
 その声と共に暗闇から抜け出すと、そこには雲ひとつない青空と小さな砂浜と青い海が広がっていた。
 真姫は身体を起こしあたりを見渡した。自分の手足、自分の身体がちゃんとそこにはあった。おそるおそる、砂地に軽く手を着く。もう沈み込むことはなかっ た。そして、ようやく気付く。いつのまにか、寝てしまったようだった。
 悪い夢を見ていた。身体が砂地に飲み込まれて、ついには完全に埋まってしまうというとても恐い夢。思い出しただけでも身震いしそうだ。
 ほんとうに、今日は最悪な日だ。忘れかけていた想いがふたたび真姫の胸に去来する。いったいこの仕打ちはなんのためにあるのか、と。この苦しみが終わる 日は果たして本当にやってくるのか、と。
 あるいは、自分はなにか不運の種を飲み込んでしまったのではないのか。人に不運をもたらす魔性の木が、いままさにわたしの腹の中で芽吹き、深く根を張っ てわたしの精神を蝕んでいく。いつか、わたしの身体を食い破るその日まで、わたしの不幸は終わらない。
 そんな禍々しいものの存在を、真姫は己が胸の内にはっきりと感じ取れるような気がした。男性客が残した陰湿な眼差しが、右手に残る気持ち悪い感触が、兄 の軽々しい態度が、たかがおやつごときで頭に血を上らせた自らの幼稚さが、夏の昼下がりに見せられた悪夢が、それらすべてが真姫の体に纏いつき、染み込 み、彼女の苦痛を形作る。
 もはや、憤りすら枯れ果てた。血の巡りは弱まり、熱は冷め、いまはもう気分が悪い。まるで脳が締め付けられるような偏頭痛に吐き気すら覚えた。
 目が覚め、身体を起こしてそのまま、真姫は汗の噴き出る額に手を当て、身体を縮込ませるように蹲った。そんな真姫の様子を目の当たりにして、
「マサキ、大丈夫か?」ムナは真姫の目の前にしゃがみ込み、心配そうに声を掛けた。
 大丈夫、平気だから、と消え入りそうな囁きを返す真姫だが、なんとか笑顔を作るだけで精一杯だった。きっと、ずいぶんと引き攣った顔をしてるだろうと自 分でも思う。
 ムナの手を借りて立ち上がり、真姫はふらふらと歩き始める。
 崖の下から波打ち際へと足を運ぶ。仰ぎ見れば、西の空がすでに朱に染まり始めていた。そろそろ帰ろう、ということでふたりはムナの秘密の場所を抜け出 て、神前家のペンションが面する砂浜まで戻ってきた。
 足取りのおぼつかない真姫を気遣うように、ムナは彼女の手を取り先を歩く。いつものお姉さん気取りも今日は形無しだった。影を引きずる真姫に対し、つと めて明るく振る舞うムナ。その心遣いが嬉しくて、同時にそんなムナに応えることのできない自分が情けなかった。
 それにしても、このムナと名乗る少年は何者なのだろうか? いつもふいにわたしの背後に現われてわたしのことを驚かす少年。いつも屈託のない笑みを浮か べ、実に子供っぽい言動を繰り返す、日本人離れした風貌の少年。名前以外のいっさいが謎に包まれた不思議な少年。
 いつもわたしのことを気遣ってくれて、やさしく話しかけてくる少年。
 自分の手を引き、先を歩くムナの背中を見ながら、もしかしたら、彼はわたしなんかよりずっと大人なんじゃないかという気がしてきた。実年齢の問題ではな い。人に対して気遣いと心配りができる、その点において彼は間違いなくわたしよりも大人だ。
 そう考えると、いつもは自分と大差ない背丈の少年が急に大きく見え始める。握っている手が頼もしく映った。
「そういえば、マサキ、今日は最初からいつもとなんか違ってたけど、どした?」
 声を掛けられ真姫が顔を上げると、手を引いて先を行くムナが肩越しに様子を窺うように視線を向けていた。
「え、わたしなんか変だった?」いつもと違っていた、と言われ真姫はとっさに誤魔化そうとしてしまう。なぜ誤魔化さなければならないのか、真姫自身にもよ くわからない。
 人間いつでも笑顔でニコニコしていられるわけでもない。時にはひどく落ち込み、時には端から見てそれと分かるほど気が立っていることもあるだろう。それ は人として当然の感情の揺らぎだ。
 ムナの「いつもと違っていた」という問い掛けは、真姫がいつになく不機嫌そうに浜辺を歩いていたことを指しての言葉だろう。そのことについて、真姫が誤 魔化したり隠したりする必要はなにひとつないはずなのに、なぜだか後ろめたさのようなものがしこりとして胸の奥につかえていた。
「べつに、いつもと変わんないけど」と口にはしてみるものの、しかし作る笑顔はぎこちなく、お姉さん気取りで扮装する芯の強そうな少女の面影はいまはどこ にもない。これでは秘匿も隠し事もあったものではなく、
「そうか? マサキ、なんだか落ち込んでるような、怒っているような感じした」と逆に返されてしまう。しばらく声を掛けづらかった、とまで言われ、真姫は あきらめて今日一日のできごとを、ついでに夏休みに入ってからここまで自分がどれだけの不運に見舞われたかをムナに語って聞かせた。
 話しているあいだ、ムナは「うん」とか「そう」とか相槌を打つものの、話しの腰を折るようなことはしなかった。もっとも、話しの内容がすべて理解できて いるようではなく、特に真姫が口にした修学旅行先の地名や諸所の名前には難しい顔を露わにしていた。
 それでも、だいたいの話しの流れは掴めたようだった。
「そっか、マサキ、大変だったんだな」すべてを聞き終えて、ムナは感嘆の声を上げる。
「まあね」すべてを話し終えて、真姫は少しだけ気が楽になった。
 それでも、自宅の青い屋根が近づくにつれて、真姫の心は再び沈んでいく。
 思えば、椅子を蹴倒して家を飛び出しそれっきりだ。兄にはずいぶんな八つ当たりをしてしまった気もするし、母には心配を掛けているかもしれない。なによ り、午後の手伝いをまるまるすっぽかしてしまったことに後ろめたさを感じる。
 はたして、どんな顔をして家へ戻ればいいだろう。母や兄になんて謝ったらいいだろうか。こんなとき、もう少し上手に、ずる賢く立ち回れたらと正直思う。 家族やまわりの人間に変に気を使いすぎているとは分かっているのだけれど、分かっていながらもこの性は自分でもどうにも直しようがない。自分の性質が怨め しい。
 いい子を演じているつもりなどさらさらない。それでも、「真姫はいい子だから」と言われる。もちろん、いい子だと言われて悪い気はしない。しかし、考え てみるといい子というのはずいぶんと損な役回りではないだろうか。
 良品に欠陥は許されない。宝石は輝けば輝くほどたった一つの小さな傷がより目立つ。いい子がエスカレートすると完全無欠のスーパーロボットが完成しそう だ。人間性の欠片もない、失敗する権利もありはしない。大人になる事と大人しくなる事とは別物なのだ。
 大人だって失敗は数え切れないほどするし、大人だって完全無欠のスーパーロボットにはなり得ない。有能な大人像ほど下劣な幻影はない。それは、まわりの 大人たちが自らの醜い姿や生活に疲れ切った心を漆喰で塗り固めて隠し、これこそが大人の真の姿だと精一杯に誇張して子供たちに見せた幻影だ。
 ある子は大人の幻影を見破り、早々にその道から外れて反発を起こすようになり、ある子は大人の幻影を信じきって、あくまでその道を歩もうと努め、やがて 挫折を味わう。
 思春期の全景がそこにある。
 真姫はまさに後者の道を歩んでいた。
「マサキ、またなんか思い悩んでる」俯き加減な真姫の様子を敏感に感じ取って、ムナは指摘した。「マサキ、やっぱり今日はヘン」なにがそんなに面白くない んだと不服そうにムナは口を尖らせるのだった。
「うん、そうだね。今日はちょっとヘンかも」溜息混じりに真姫。浮かべる笑顔もなんだか弱々しい。
「なんで?」
「うーん、そうだな。なんて言ったらいいんだろ」
 ムナの問い掛けに、真姫は言葉に窮する。なんで? と聞かれてはたしてなんと答えればいいのか。そもそも、いま自分で抱え込んでいる不満や憤りがどこか ら来ているのか。
 日々の煩わしさや葛藤に対して不満を抱いているわけではない。誰もがみな、時に悪意に満ちていると感ぜられる日常生活のなかで、降りかかる火の粉を上手 に払いながら生きている。自らの意に沿わない日常の成り立ちに時折煩わされることになるのはみな同じなのだ。それらの諸事にいちいち頭を悩ませていても仕 方がない。
 わたしは不運の星のもとに産まれたの、なんて悲劇のヒロインを演じてもなにも始まりはしない。
 それくらいのことは、真姫だって承知している。
 気に入らないものがあるとするなら、それは降りかかる火の粉ではなく、その振り払い方のヘタクソな自分自身だ。否、振り払い方を制限してしまっている自 らのスタンス、と言ったほうがいいかもしれない。
 今日のことにしてもそうだ。客室の清掃中に手にした不快感を、追憶とともに湧き出てきた恐怖を、その苦悩を家族に話し聞かせることが出来ていたなら、あ るいは真姫の心持ちも幾分か楽になっていたのではないだろうか。
 しかし、それは真姫のスタンスに反することだ。彼女の自尊心が、焦燥感が、それを許さない。
 もう子供じゃないという自尊心。
 はやく一人前の大人になりたいという焦燥感。
 ならば、この程度の瑣事で泣き喚いたり誰かに助けを求めたりはできない。自分はもう子供ではないのだ、これくらいのことはひとりで処理しなければならな い。
 それは、この日常の中に自ら望んで設けた立ち位置だ。しかし、それがいま彼女を苦しめている。もとより完璧な大人像という幻影に根ざす立ち位置などコル クボードに刺さった丸ピンほどの意義もない。
 真姫の内にあるのは、年頃の子供が当たり前のように大人に抱く憧憬。それがいまの真姫を動かす原動力になっている。しかし、その姿は彼女の意図するとこ ろとは無関係に、「いい子」と評される。
「……たぶん、いい子でいるのが疲れちゃったのかな」答えを求めて彷徨っていた真姫の思考が見つけ出した言葉は、彼女が意識しないうちに零れるようにその 口唇から発せられていた。それに対してムナはしばらく考えをめぐらせた後に、
「……だったら、悪い子になればいい。そうすれば、マサキ疲れなくてすむ」と言って名案だと言わんばかりに手を叩いた。
「あのねー、そんな簡単にできるわけないでしょ」
「えー、どうして?」
「どうしてって、言われてもねえ」大きく溜息を吐きながら答える真姫。しかし、どうしてと聞かれて答えられないのもなんだか不思議な気がした。そして、い ま自分で口にした言葉を思い返してハッとなる。
 いい子でいるのが疲れた、と確かに自分で言ったのではなかったか。それに対するムナの、悪い子になればいい、という答え。発想としては突飛な気もするけ れど、単純に考えるなら彼の言うとおりだ。良いがダメなら悪い。とても単純な、わかりやすい答えではないだろうか。
 しかし、悪い子といってもなにをすればいいのだろう。
 悪い子から連想し、真姫の頭に思い浮かんだ悪戯の数々はどうにも子供染みていてやる気になれない。かといって飲酒喫煙というのも気が進まない。窃盗、殺 人などもってのほか。テレビで報道される青少年の事件を片っ端から思い浮かべてみたがもはやいい子・悪い子の範疇を越えてしまっていた。一足飛びに犯罪者 では話しにならない。
 非行、反発、家庭内暴力。どれも自分には難しそうだ。それをもってして悪い子と定義できるものかも怪しい。むしろ、可哀想な子ではないだろうか。
 あれやこれやと考え、どれもこれも見当違いで、どうにも考えること自体が馬鹿らしくなってきた。そもそも、悪い子になろうという発想自体どうかしてい る。いい子にも悪い子にも、なろうと思って積極的になるようなものではないだろうに。
 やっぱり、わたしには無理ね。ひと通り考察し終え、その結果をムナに伝えようと口を開きかけ、ふと、ひとつの答えにたどり着いていた。
 なにも悪い子になる必要なんてない。いい子でも悪い子でもない、普通の子になればいい。そのためには、いい子で居ざるを得ないこの日常から抜け出す必要 がある。この日常からわたしが消えてなくなればいいんだ。
 まるで周囲に濃く立ち込めていた霧が一気に晴れていくようだった。答えはとても簡単なこと。わたしがこの日常という舞台から降りてしまえばいい。舞台か ら降りさえすれば、どんな役も演じる必要もなくなる。
 そうすれば、この不運続きの憂鬱な日々からも開放される。まさに一石二鳥だ。
 よし、と真姫は心の中でひとり声を上げた。
 真姫は、家出を決心した。



 三、遠く僻地の史跡で家出少女を待つものは……

 早朝。ようやく東の空が白み始めたころ。まだ誰もが夢の中にいる時間帯。
 真姫はすでに目を覚まし身支度を整え終えていた。ベットの脇に置かれたでかでかと膨らんだリュック。何度も確認したが、入れ忘れているものはないか心配 になりもういちどだけ中身を改めることにする。替えの下着が数枚と替えのシャツを数枚。ハンカチ・ティッシュの組を三つ。サイフに雨具、方位磁石に仁良伊 島の地図。小型の懐中電灯に、風邪薬や腹痛の薬を少々。万が一の為の学生手帖も内ポケットにしっかりと収まっていた。そして、リュックと寄り添うように置 かれた三線のケース。持ち物はこれで全部、忘れているものはない。
 すると、今度はクローゼットの鏡の前に立ち、自分の格好をチェックし始める。デニムのロングスカートに七分丈のTシャツ、いつも結い上げている髪を下ろ し頭には花柄の刺繍された白いチューリップハット。すべてクローゼットの肥やしになっていたものを引っ張り出して合わせてみたのだが、なんだか鏡の中の自 分がいったい誰なのか自分でもよくわからない。なにしろ、制服以外でスカートを履くなんて滅多になかったし、チューリップハットに至ってはいままでの人生 の中で被った記憶がないほどだった。
 これはできるだけ普段の自分とはちがう格好をしたいという自らの希望に沿ったものだが、はたしていかがなものか。
 とりあえず、服装のチェックも終わり、準備は万全。
 あと必要なものといえば、意気込みと勇気。最初の一歩を踏み出せば、二歩目、三歩目は自ずと前に出るはず。
 勉強机の上の、『しばらく留守にします。心配しないでください』の置手紙に決意を乗せて、真姫はリュックを背負った。三線ケースの取っ手を掴む手に必要 以上に力が籠もる。
 なにげなく、いまだに眠りの中にある景色を窓から眺めた。草木も砂浜も藍色に染まり、空にはいまだに輝く星がいくつか見受けられた。ふと、誰かの視線を 感じ、真姫は注意深く外に目を凝らす。案の定、あいつがいた。低木の群生の外れに伸びるのっぽの木の根元に赤毛の少年が立っているのが見えた。
 昨日の別れ際に、真姫は自分の計画をムナに話していた。家出の計画だ。彼女の話を聞いて、ふーん、なんかおもしろそうだな、とムナは興味を示したようで はあったが、一緒についていくとは言い出さなかった。ムナならもしかしたら、一緒に行く、と言い出すかもしれない。内心そんな目論みもあって彼に計画を打 ち明けたのだけれど、昨日の時点ではついにその一言を聞く事はなかった。
 もっとも、ムナを誘おうと思い立ったのは単純に、彼と一緒なら退屈しないだろうと思っただけのことで、たとえひとりきりであっても家出は決行するつもり でいたのだけれど。
 窓の外に彼の姿を見つけ、真姫は心の高揚を抑えきれないくらいだった。
 日常からの脱却、溢れかえる冒険心、自ら切り開く新世界への扉、胸の高鳴り。
 それでも、第一歩は慎重に踏み出さなければならない。なるべく音を立てないように部屋を抜け、細心の注意を払って階段を降り、床の上を滑るような足運び で裏口へとまわる。
 下駄箱の奥に寝かせてあったスニーカーを引っ張り出して履き、ドアの鍵を静かに開けて外へ出た。
 時刻は朝の六時。この生活から飛び出すこと、それだけを目的としたあてのない旅路。ここがその始点なんだ。
 自宅の表側に回り、国道へと続く細い道に出る。右手に早朝の海、左手に暗く翳る防砂林。後ろを振り返れば、日々の雑多を詰め込んだ自宅、ペンション『し るさりしゅかぜ』が薄暗がりの中にその姿を浮き立たせていた。目の前に延びる道は、果たしてどこに続いているのだろう。
 自宅前から伸びる道は途中、小さな丘を取り巻くようにして左側に大きく曲がり、海岸沿いから内陸の方へと入っていく。
 半円を描く曲がり道の内側、小さな丘をまるまる包み込むように根を張った大きなガジュマルの大樹。その脇を通り過ぎようとしたとき、
「マサキ、なんかいつもと格好が違うな」
 いつも通りに、なんの気配もさせることなく、大きな樹の上から唐突に声を掛けられた。見上げれば、そこにいたのはやはり赤毛の少年。ぶっちぎりのハーフ ジーンズに肌蹴っぱなしの半袖のYシャツに水晶の首飾り。満面の笑みを浮かべてこちらの様子を窺っている少年に、真姫は挑戦的な意志の強い眼差しを向け、
「ムナ、一緒に来る?」挑みかかるように告げるのだった。そして、それに対する答えは、
「もちろん」ムナは歯を剥き出しにして力強く答えた。
 こうして、真姫の家出という名目で始まったふたりの小旅行が幕を上げた。
 そして、この先の数日間に起きたさまざまの出来事を、真姫は一生忘れることはないだろう。



 家出、といってもなんの目的もなくさまよい歩くというのもなんだか侘しい。
 そこで、真姫は思い切って、仁良伊島をまるまる一周、徒歩で踏破してみようと思い立った。期間は夏休みいっぱい。地図で事前に確かめたコースは全工程で およそ百五十キロメートル。残りの夏休みが二週間ちょっとだから計算すると一日十キロ程度を歩けばいい事になる。数字だけで考えるとだいぶ簡単そうに思え た。
 しかし、その考えがとても甘いものだったことを真姫は初めの数日で思い知らされる。
 仁良伊島は東西五十キロにもなり、島の北東部と南西部とでその地形は大きく様変わりする。真姫が暮らす龍ヶ宮、笠木名地域は比較的平坦な土地が続くが、 南部の剱崎、久瀬内地域は一変して山がちになる。それゆえ、大きな街が拓けている場所も少なく、特に真姫が選んだ北回りのルートは小さな集落がぽつぽつと 続くばかりの道だった。
 初日はまだよかった。島随一の都市、仁良伊市街に入ったのが十一時ごろ。島の人口の約七割の五万人がこの仁良伊市に集中している。周辺の離島自治体の中 で最大の規模を誇るというだけあり、集合住宅や商業ビルが立ち並び、朝から人の活気に溢れていた。
 すこし早めの昼食で立ち寄ったのがミスドというあたり、真姫の計画のなさを物語っているようでもあった。
 仁良伊市街を横断し大輪村に入ると道は一気に厳しいものになる。思いのほか道の勾配はキツく、体力にはそこそこ自信のあった真姫も二日目にはすでに全身 の痛みと闘わなければならないほどだった。
 そして、なによりも困ったのが、食料品を売っているような店舗が道中にほとんど見当たらないということだった。仁良伊市内で保存の利きそうなものを買い だめて置いたのだが、それも一気になくなり、これもやはり三日目あたりには底を着いていた。
 三日目はムナが獲ってきた魚を真姫が捌き、焼いて食べることでなんとか難を逃れたが、魚とりに要する時間と引き換えに工程の踏破距離は縮まり、満たされ ぬ空腹感と相まって焦りと不安でいっぱいになってしまう。
 ここに至って、自分の計画がいかに無謀なものだったのかを思い知る。
 それでも、真姫が挫けずに小旅行を続けることができたのは、ひとえにその土地に暮らす、見ず知らずの人たちがくれた優しさと温かさのおかげだった。
 きっかけは、三日目の夕刻。
「おまえさんたち、こんなとこ座り込んでどうしたん?」
 ムナとふたり、途方にくれて道端にうずくまっていると、トラクターをとことこと運転して通りかかったおじいさんに声を掛けられた。聞けば、この近くの集 落に住む農夫だということで、いまも畑仕事からの帰りだということだった。
 家出の見である手前、あまり人との接触には乗り気に離れなかった。「なんだか知んねぇけど、こん子は家出したんだそうでよ」なんて警察を呼ばれたりしか ねない。できれば、それだけは避けたかった、のだがさすがにそうも言っていられない。
 真姫はしかたなく、嘉市と名乗ったその老人に事の顛末を話すことにした。ただし、家出という部分は隠し、夏休みを使って島一周の小旅行に挑戦している最 中だ、というのを強調しながら。
 すると、
「はー、最近の若いもんのわりにゃ、あんた偉いでなぁ。にしても、泊まるとこもなきゃ大仰するだろがぇ? どーだ、じっちゃの家でよきゃ泊めてやっど」
「え? ……でも、突然お邪魔したんじゃ迷惑なんじゃ?」
「なーに、なんも遠慮はいらんで」
 結局、嘉市老人の申し出を断りきれず、真姫とムナはその夜、老人宅にお邪魔させてもらうことになった。
 嘉市老人はふたつ年上の妻と二人暮らしで、老婦人のキヨは突然現れた小さな来客を大いに歓迎してくれた。真姫としては一晩泊めてもらえるだけでも充分に ありがたいと思っていたのだが、夕食はおろか風呂にまで入れてもらい大いに恐縮した。一方のムナは、遠慮知らずというか考えなしというか、嘉市宅にあげて もらってからもあるいみどこまでもマイペースを貫き、真姫はますます胆を冷やすのだった。
 そこで、せめてものお礼にと真姫は三線を取り出して、一曲披露することにした。自分が練習をしたくて家から持ち出した三線が、よもやこんな形で役に立つ など夢にも思わなかった。
 しかし、まだまだ拙い自分の唄で果たして大丈夫だろうか、非常に不安ではあったのだけれど、老夫婦は真姫のシマ唄を高く評価しくれた。老夫婦の深みのあ る笑みを目の当たりにして、これでよかったんだ、と真姫は安堵の表情を浮かべた。
 あくる朝、真姫とムナは老夫婦に見送られながら嘉市宅を後にした。気ぃつけてなー、という嘉市老人の声がしばらくは耳から離れなかった。
 そして、これだけでなく、行く先々で土地の人たちに助けられることが何度もあった。と同時に、真姫も旅の要領のようなものを徐々につかんでいった。
 四日目以降はそれまでとは比べものにならないほど足取りが軽くなり、一気に距離を稼いで行った。
 そして、六日目。真姫たちは島の最西端、早津崎にたどり着いた。予定より一日送れでの到着だった。



 到着した時にはすでに日も暮れ、あたりは真っ暗になっていた。まわりに民家はなく、いちばん近くの集落まで歩くにも結構な距離があった。
 しかたなく、ふたりは早津崎の突端からしばらく戻ったところに遺されていた、旧日本軍の観測所跡とやらで一晩を過ごすことにした。深く切り立った崖の上 にある、朽ちかけた戦争の史跡。いまから七十年近く前に勃発した大戦時に、ここは敵国の軍艦の動きを見張るために造られたものらしい。
 壕の中は円形で、懐中電灯で照らすと壁のところどころに当時の観測記録と思われる数字が走り書きされていた。外の様子は、いまは真っ暗でなにも見えない が、荒い波の音が地面の下の方から轟きと共に聞こえてくる。
「それにしても、ほんとよくここまでたどり着けたと思うわ。正直、もう帰ろうって何度思ったか分からないくらい」
「オレも、さすがにちょっと疲れた。でも、オレ、こんな遠くまで来たの初めて」
 真姫は懐中電灯を上向きに床に置き、照明代わりにした。真姫とムナ、頼りない灯りを頼るように身を寄せながら、ここまでの小旅行の思い出を語り合う。
 学校の水道や途中の小川などで頭を洗うなんて経験、この先の人生でも早々あるものじゃない。村役場の人に掛け合って一晩役場で寝泊りさせてもらうなんて こともした。見かけない顔の中学生二人組みがとぼとぼと辺鄙な集落の中を歩いていく、もうそれだけのことがとても珍しいらしく、いく先々で声を掛けられ た。
 ほんの一週間ちょっとの旅なのに、気分は世界一周旅行に赴いているようだった。
「あー、でもさすがに道すがらに蛇に出くわしたのはびっくりしたかな」
「ふふん、オレはべつに、あんなのなんともなかったぞ」
「えー、ウソだー。ムナだってビビッてたじゃない」
 真姫とムナの会話も途切れることがない。
 しかし、さすがに身体はだいぶ疲れていた。やがて二人とも言葉数よりも欠伸の数のほうが多くなり、
「……あれ、ムナ、寝ちゃったの」
 さっきからひと言もしゃべらなくなったと思って振り向くと、真姫の隣でムナはすでに気持ち良さそうに寝息を立てているのだった。
 わたしも寝ようかな、と真姫は手を伸ばし懐中電灯を消そうとして、ふと、脇においてあった三線のケースに目が止まる。
 旅程三日目の、進退窮まった絶望的な状況のもとに現われた好好爺、嘉市老人。
 彼の家に泊めてもらい、そのお礼代わりに披露した真姫のシマ唄に、家主の老夫妻は心からの賛辞を送ってくれていた。少なくとも、真姫にはそう感じられ た。
 あのふたりの笑顔が、忘れられない。
 もし、自分が三線を奏でることで多くの人に喜びを与えられるのなら、どんなにいいか。まだ拙いながらも、それが出来ているのなら、それは誇れることだし 素晴らしいことだ、と真姫は思う。
 当初の家出の目的とはだいぶ変ってきてしまっているけれど、この小旅行でのいちばんの成果はきっとそのことに気付けたことだろう。でも、気付いただけ じゃだめだ。もっと練習をしなくちゃ。
 そんなことを回想していると、どうにも練習をしたくてうずうずとしてしまう。
 とはいえ、隣のムナはもう夢の中。ヘタに起こすようなことをしては可哀想だ。
 思い立ち、真姫は懐中電灯と三線を手に壕から外に出た。
 見上げる満天の星空に白い浮雲がはっきりと見える。今日は満月も出ていて思いのほか外は明るかった。
 真姫は旧観測所をぐるりとまわり、海側へと出た。壕の壁に背を預けて腰を下ろし、さっそく三線を奏で始める。
 弾き始めたのは、道すがら教えてもらった、いままで弾いたことのない曲目。真姫の知っているどの唄とも違い、テンポの速い難しい曲調だった。
 満月に照らされた闇の中、三線の滑らかな音があたりに響く。
 聞こえてくる波のざわめき、夜風に揺れる草花の吐息。まるで、まわりに広がる夜の風景と合奏するようにして、真姫の指も軽快に弦を弾く。
 そうして、どれくらいの間、練習に打ち込んでいただろう。そろそろ、眠気に抗っているのも難しくなってきて、今日はこのへんで終わりにしようかと指を止 めたとき、誰かが草を踏み分けながらこちらにやってくるのに気付いた。
 すこし離れたところに、星空をバックに人影を見ることができた。四方に跳ね上がった髪型と身体の輪郭、どうやらムナが起きてしまったらしい。
「マサキ」
「ごめんね、起こしちゃった?」と言いながら真姫は手元の懐中電灯を点し、ムナの顔を照らし出した。
 しかし、
「オレ、マサキノコト、ズット見テタ」
 そこに照らし出されたムナは、眼窩が落ち窪み口は耳元まで裂け、まるで立ち枯れた古木のような肌をしていた。否、そこに立っていたのは真姫の知る赤毛の 少年ではなく、
「ヤット二人キリ、ナレタ」
 悪夢がそこにいた。



 砂地に埋もれていく身体。助けをもとめて虚空を彷徨う腕。ふと気付くとすぐそばに少年が立っていて。差し出された少年の手。無我夢中でその手を掴もうと して。垣間見た少年の不気味な顔立ち。悲鳴を上げることすらかなわず。少年の手は自分の頭を押さえ込み、そのままいっきに砂の中へと押し込まれていた。
 いまでも、鮮明に思い出すことができる。十日程前に秘密の砂浜で見た悪夢。
 その悪夢の化け物が、いま目の前にいた。
「オレ、マサキ、ズット好キダッタ」
 化け物はずるずると足を引きずるように真姫に迫る。三日月のように大きく開いた口から覗く乱杭歯。漏れ聞こえる呻くような吐息はいまにも獲物に食いつか んとする獣のようだ。こちらに差し向けられた手には、猛禽を思わせる鉤爪が並ぶ。
 化け物は狂ったような歓喜の雄叫びを上げた。耳を劈くような化け物の咆哮に、真姫は手にしていた懐中電灯を取り落とし、それでも、悪夢の赤く鋭い眼光は まっすぐに真姫を見据えている。
「オレ、マサキノ唄、トテモ好キダ」
 夢だ、また悪い夢を見ているんだ、と祈るように心は繰り返す。しかし、真姫の身体はそれを強く否定していた。早まる鼓動が、流れる汗が、震える膝が、動 かぬ手足が、これは夢などではないと告げている。
 声も涙もではしなかった。身体は震え、逃げ出すこともままならない。
 ついに、化け物は真姫の眼前に迫り、細く歪んだ手を真姫へと伸ばす。
 悪夢の化け物が頬に触れた手はとても冷たかった。冷たいという感覚が、いまは確かにあった。
 これは、夢じゃ、ない。
 全身から血の気が引いた。
「大好キナ、マサキ。ヤット、捕マエタ」
 頬に触れていた化け物の手は、肌の上を滑り降り、真姫の頸部を掴む。抵抗する間もなく、化け物の手に力がこもり、真姫の身体は軽々と持ち上げられてい た。
 苦しい。声が出ない。息が、できない。
 化け物の手を振りほどこうと抵抗するも、真姫の首を締め上げている手はまるでビクともしない。
 身体に力が入らない。血の巡りが遮断され、意識が遠のく。寒さも、悲しみも、絶望も、なにもない。
 化け物の腕を必死に掴んでいた真姫の手から力が抜け、だらんと垂れ下がり、意識が完全に失せようとしていた。
 そのとき、
「マサキを放せ!」
 その雄叫びと共に化け物の身体は真横に吹き飛ばされていた。
 真姫の身体はふいに化け物の手から開放され、そのまま地面に落ちる。
 したたかに背中を打ちつけ真姫は短く呻き声を漏らす。遮断されていた空気を求めて喉が掠れた音を上げ、激しく咳き込む。しばらく首もとを押さえ、呼吸を 整えて、痛む背中を擦りながら真姫は半身を起こした。
 顔を顰めながら、見上げるとそこには化け物から真姫を庇うようにして立つ赤毛の少年の背中があった。
「マサキ、大丈夫か?」
 背中をこちらに向けたまま、じっと化け物を睨みつける少年の声は、真姫が知るムナの声だった。それでも、そうだとわかっていても、確認せずにはいられな い。
「ムナ? ほんとうに、ムナなの?」真姫の何時になく弱々しい、すがるような声が漏れる。それに応えて、目の前に立つ赤毛の少年が真姫のほうへ振り向い た。
 暗闇の中でもはっきりと見ることができた。まちがいない。そこにあったのは、いつも絶えることのない無邪気な力強い笑顔。
「もう大丈夫だ、マサキ」白い歯をむき出しにして笑うムナの笑顔に、真姫はようやく安堵の溜息をひとつ小さく漏らした。
 一方、しばらく離れたところでムナに突き飛ばされて臥していた化け物が起き上がる姿が見えた。満天の星空をバックに、それらしい人影が浮かび上がる。そ れでも、黒いシルエットの中、血のように赤い眼光が執拗に真姫を追い続けているのがわかった。
 ムナの影に隠れるように潜み、その背中越しに化け物の姿を除き見て、
「な、なんなの、アイツ」と真姫。彼女の中のいやに冷静な意識は、そんなこと聞いたところでムナにだってわかるはずがない、と告げていたがそれでも言葉は 意識よりも先にふいに口から漏れていた。
 しかし、それに対してムナは、
「あれは、アカガミだ」と明瞭に答えていた。
「アカガミ?」
「そう。アイツは、人の魂を喰らおうとする悪いヤツだ。たぶん、マサキの唄に惹きつけられて出てきたんだと思う」
「わたしの唄に?」
「うん。だから、前にも言ったでしょ? 夜に外で唄を歌ってると変な物の怪が寄ってくるって」
「……そんな、だって、あれは」
 あれは子供だましの寓話ではなかったのか。小さな子供を躾けるための単なるお伽噺ではなかったのか。
 アカガミと呼ばれた悪夢の化け物はいま、鴉と蛙の鳴き声をあわせたような世にも不気味な笑い声を漏らしながらゆっくりとこちらに近づいて来ている。その 禍々しい眼差しは、やはりムナの背中に隠れる真姫をまっすぐに捉えたままだ。
 近づいてくるアカガミをしっかりと見据えたまま、「そうか、わかった」とムナが続ける。
「マサキ、前に学校でオレのこと見たって言ってたけど、それたぶん、アイツだ」
「え?」
「アイツ、ずっと、マサキのこと付け狙ってたんだ。マサキのこと、ずっと見張って、それでこんなとこまで付いて来たんだよ」
「うそ、そんな。あんなのが、わたしのことずっと狙ってたって?」
「うん。……マサキ、なにか心当たりない?」
「…………ぁ」
 声が出なかった。
 心当たりなら、あった。いつも視界の隈に、窓の外で、すこし離れたところにじっと立って、こちらをまっすぐに見つめていた赤毛の少年の姿。当初はそれを ムナだと思い込んでいたが、しかし、その時でもすでに違和感はあった。
 窓の外からじっとこちらに視線を送る赤毛の少年の姿は、いつも接しているムナとはすこし印象が違っていたのは確かだ。けれど、彼ほどに目立つ容姿を持っ た人物が他にもいるとは考えにくかった。違和感を抱え込んだまま、必然的に窓辺から見た少年の姿はムナだと思い込んでいたのだ。
 頭の中にあった目に見えないパズル。完成しているはずなのに、どうにも釈然としないパズルを釈然としないまま頭の隅に放置してしまっていた。しかし、よ くよく見てみると、よく似ている同じ形のピースが入れ違いに強引にはめ込まれていることに気付く。パズルピースを入れ直し、これでほんとうに完成したとそ の出来栄えを確かめてみると、そこには隠された驚愕の事実が描き出されていた。
 あれは、窓の外に佇んでいたあの少年は、自分が良く知る赤毛の少年などではなく、アカガミと呼ばれる不気味な化け物だった。そして、化け物は常日頃から 自分のことを監視し、まるで歪んだ愛憎を宿したストーカーのごとくに自分のことを付け狙っていた。
 正確に組み上げられたパズルから結論し、自ら導き出した事実に、なぜそんなものに付け狙われなければならないのかという怒りと同時に、真姫の身体に鉛の ような重苦しい恐怖が覆いかぶさってきた。
 両の肩を抱き、ギリギリと音が聞こえそうなほどに歯噛みし、怒りとも悲しみとも憎しみとも言いようのない激情に身体を震わせ、力なく頭を垂れる。
 眉間に皺を刻み顔を歪ませて瞼を強く閉ざし、真姫の内は真の暗闇に閉ざされた。
 もう、自分がどこにいて、なにをしているのかすらわからない。
 もう、なにも見たくない、なにも聞きたくない、なにも触れたくない、なにも感じたくはない。なにも、知りたくはなかった。
 それでも、どんなに暗闇の中に沈んでいても、いつでも必ず聞こえてくる声があって、
「マサキ、安心して」
 導かれるように頭を挙げ、見上げた先には心配そうにこちらの様子を窺うムナの穏やかな、それでも力強い笑顔があった。
 犬歯の目立つ白い歯をむき出しにして、
「約束したろ? オレが、マサキ護るって。どんなに恐いヤツが来てもオレがやっつけてやるって」
 ムナは会心の笑みで高らかに告げるのだった。



 それは異様な光景だった。
 仁良伊島の西の端。早津崎の中ほどに打ち捨てられたようにある過去の遺構。大戦時に見張り台として使用されていた半地下の壕。地元の人間も観光客も滅多 に寄り付かない朽ち果てた史跡。
 そのまえに開けた雑草ばかりが茂る平地で、赤毛の少年と赤毛の化け物が対峙していた。
 いまだ文明の穢れの及ばぬ澄んだ星空のもと、それまで吹きつけていた海風は止み、かわりに逆巻くような烈風があたりを包み込んでいる。草花の囁きはいま や騒乱と化し、へたに手を出したら見えない風の刃に手を切られてしまいそうだ。
 なにより異様なのは、対峙する二人が纏う蒼白い光。鋭い鉤爪を持った化け物だけではない、赤毛の少年までもが自らの息遣いに呼応して明滅を繰り返す蒼炎 を纏い、吹き上がる竜巻のような烈風の中で対峙していた。ひとり離れた場所でその様子を見守る少女にいったいなにが出来ようか。
 息が詰まりそうな睨み合いの末、最初に動いたのは化け物の方だった。
 咆哮。疾駆。振り下ろす鉤爪。
 駆け抜ける突風のように繰り出された化け物の攻撃を、しかし赤毛の少年は頭上高く跳躍しこれをなんなく躱した。化け物の背後に着地し、振り返る化け物の 胸元に掌底を叩き込む。鉄球を地面に叩きつけたような重い音とともに化け物の身体が軽々と吹っ飛んだ。
 しかし、化け物は空中で態勢を立て直し、何事もなかったかのように壕の上に着地。自らを突き飛ばした少年を見下ろしながら、挑発するように不気味な笑い 声を上げた。
 少年は応じない。両の拳を握りながら静かに直立し、化け物の双眸をキッと見据えている。
 再び、化け物の咆哮。高々と中空に飛び上がり、真上から少年に襲い掛かる。振り下ろされる左右の鉤爪。少年は後ろへの軽い跳躍でこれも難なく躱す。
 もう一歩、後方へ退き距離を取る少年。後退する少年に追いすがる化け物。
 思いのほか化け物の踏み込みは深く、ついで繰り出された攻撃を少年は避けきることが出来ない。左腕、腹部、胸元と化け物の鋭い爪がえぐり、少年の服は引 き裂かれ、彼が常に身につけていた水晶の首飾りが弾けて闇の中に消えた。
 続いて放たれた化け物の渾身の一撃。この攻撃をすんでのところで躱し、態勢を崩しながらも少年は回し蹴りを放つ。
 空振り。化け物も態勢を崩し。いち早く態を立て直した少年が今度は化け物を追う。
 顔面を狙った鋭いとび蹴り。躱される。
 続けざま、身体を反転させながらの後回し蹴りはガードされるものの、衝撃を受け流しきれなかった化け物の身体は真横にぐらつく。
 追って、少年は身体の回転を利用し体重を乗せた右ストレートを放つ。それに合わせる様に化け物の右が伸びてくる。
 交錯。互いの攻撃はすんでの所で躱され空を切る。
 後退。両者とも、間隔を取るためにバックステップ。蹴散らされた草花が風に舞い、巻き上がる土煙がふたりの纏う蒼炎に照らされ、闇の中に短く尾を引く。
 ここまでの攻防に一分と掛かったかどうか。ふたりの動きはどう考えても人間の為し得るものではなかった。
 対峙。睨みあう。構え。
 叫び声。刹那。激突。
 弾け飛ぶふたりの身体。着地。
 同時の跳躍。高く中空へ。
 絡まりあうふたりの影。化け物の身体は勢いよく地面に叩きつけられ。少年の追撃。轟音。舞い上がる土煙。
 音の炸裂が続き。煙の中から躍り出る少年と化け物。
 掌打と斬撃の撃ち合い。うち一発が化け物の腹部に深く突き刺さる。蹲る化け物の顎を狙い膝頭を入れ。わずかに避けられる。逃れる化け物。追う少年。
 前かがみのまま後方に逃れる化け物の顔面を狙って、少年は下足底を叩き込む。しかし、突き出した脚の下に潜り込まれ、下からの斬り上げをくらう。右下腹 部から四本の赤い筋が走り、少年はバランスを崩す。そこに化け物の右腕が振り下ろされる。
 左手甲で受け止める。食い込む化け物の黒い爪。意に介すことなく、少年は無理やり身体を立て直して頭突きを見舞う。鼻筋を打ち抜き。化け物は大きく後 退。
 ひとり見守り続ける少女には、なにが起きているのか、目で追うだけで精一杯だった。それでも、徐々に少年が圧しつつあることは見て取れた。緊迫と驚嘆の 狭間で少女の拳も強く握り締められていた。と、同時に少年の優位にかたく凍り付いていた彼女の表情にも幾ばくかの安堵感が窺えるようになっていた。
 再び距離を取って対峙するふたり。周囲を取り巻く烈風は鋭さを増し、纏う蒼炎は呼応するように明滅している。
 呼吸を整え、腰を落として構える少年。相変わらずの不気味な笑みを浮かべ、狂犬のような荒い息を漏らす化け物。
 先に少年が動く。風を纏い、弾丸のように化け物に躍り懸かる。しかし、まっすぐ突っ込んでいくと見せかけ、その手前で直角に真横にダイブ。化け物の眼に はまるで少年が掻き消えたように見えただろう。瞬間の逡巡。隙。
 真横から、化け物のこめかみを狙い、少年の飛び膝。一瞬間、化け物が少年の気配に感づくのが早く、致命打にはならず。
 低空を舞う少年の、さらにその下を潜り。化け物は少年の背後へ。
 少年の背中の真ん中、心臓の真裏を狙った化け物の突き。少年は化け物の姿を見ぬまま身体をひねり、その突撃を躱す。
 交錯。揺るがぬ闘志と不気味な冷笑が、互いの眼差しが絡み合う。
 ふたりの間隔は開き。間髪入れず、ともに跳躍。草花を撒き散らしながら。激突。
 化け物の超速の六連撃。少年はそれを全て躱しきり、最後の一発にカウンターを合わせた。
 空を切る、黒い鉤爪。
 的確に顎を捉えた、少年の拳。
 化け物の身体は後方に数メートルも飛ばされ、茂る草原の中に落ちる。
 しばらく、動きはない。地面に臥したまま、化け物は身を起こさない。それでも、少年は化け物から目を放そうとはしない。いまも、その鋭い視線を、身を横 たえる化け物へと向けている。
 やがて、苦痛のためか屈辱のためか、低い呻き声を漏らしながら化け物がゆっくりと立ち上がる。相手を蔑視するような挑発するような先ほどまでの薄笑いは 消え、怒りに顔を醜く歪めていた。
 これ以上、彼女に関わるな。ふたりの戦いを見守り続ける少女を指しながら、少年が化け物に告げる。
 対する、化け物の応えは。
 叫喚。怒声。罵倒。
 おおよそ意味をなさない叫び声を上げ。聞くものの身体を引き裂くほどの絶叫。
 しかし、天に向かって咆哮していたのも束の間、ふいに静かになり、再び少年と正対する。
 その顔には、今までにないほどに歪みきった禍々しい薄ら笑いを浮かべていて、
 化け物が動く。右の鉤爪を振りかざし、しかし、向かった先はひとり闇のなかに佇んでいた少女のもと。
 瞬きをする間もなかった。気づいたときには、すでに化け物は少女の眼前に迫っていて。
 少女を見据える落ち窪んだ眼窩は、その不気味な眼差しは、自らの勝利を確信していた。
 化け物の姿をようやく認識した少女の眼には、恐怖も悲哀も絶望もない。いかなる感情の発芽も許されず。
 化け物の凶手が振り下ろされる。
 刹那。
 少女の視界は闇に閉ざされる。否、それはなにものかが少女と化け物との間に割って入ったがためのことだった。
 少女の意識が、数瞬のちに知覚したものは。赤毛の少年の背中と、その背中を突き抜けた化け物の右手。
 意識の白濁。思考の限界夥多。
 いったいなにが起きているのか、少女の本能が理解を拒む。それでも、彼女の人間として持って産まれた理性が、目の前の現実を現実として受け止めた時、
 静寂。無音。
 まるで時が止まったように、星々のきらめきが、草花の騒乱が、逆巻く烈風が、少年の動きが、少女の息遣いが、すべてが静寂を保ったまま。
 このまま永遠に続くかのように思われた静態を破ったのは、化け物の高らかな笑い声。闇をかき乱し、星空をかき乱し、静寂をかき乱す、化け物の歪曲した笑 い声が夜空に木霊する。
 少女の意識は、すでにこの場には残されてはいない。
 眼を見開き、まっすぐに前を見つめているものの、その瞳にはなにものも映されてはいなかった。
 化け物は、放心する少女の魂を喰らうべく、動く。
 少年の身体を貫いた自らの腕を抜くため、少年の肩をもう片方の手で掴み、力を込め、
 どれだけ力んでも、化け物の腕が抜けることはなかった。なぜなら、
 もう、逃がさないよ。化け物の耳元で少年が囁く。見ると、少年は化け物の腰に腕を回し、抱きかかえるようにして化け物の身体を引き寄せていた。
 腕を引き抜こうと暴れる化け物。少年の顎を力任せに押し退け、その首元に噛み付く。
 それでも、少年は離さない。
 やがて、少年の身体を包んでいた蒼い光が徐々にその強さを増していく。
 蒼から白へ。身体全体を大きく包む光はやがて、化け物の身体さえも包み込んでいき、
 化け物の抵抗を受けながらも、少年は一度だけ背後に佇む少女を振り返り、
 少年の口は、確かに、告げた。
 バイバイ、マサキ。
 その一言を引き金に、少年を包んでいた白い光は猛烈な勢いで膨張し、光の爆発を起こす。
 定まらない意識のもと、それでも少女は確かにその瞬間を眼にしていた。
 爆発した光とともに、少年の身体も化け物の身体も無数の蛍火となって霧散し、夜の闇のなかに溶けて消えていく様を、確かにその眼にしていた。



 四、それでも僕らのめぐる日々

 夏休みも終わりが近づいてくると、これのどこがいったい夏休みかと愚痴のひとつもこぼしたくなると言うのが世の常だろう。
 いや、あるいはそれは、ある部分において要領のわるい生徒に限られる話かもしれない。
 つまりは、休みも終盤に入っていまだほとんど手を付けていない宿題の山を目の前にし、にっちもさっちもいかなくなって来た状況の中で、半分は開き直りつ つ、半分は学校の教師たちに怨念にも似た思いを抱きながら、夏休みとはこれいかに? と問わずにはいられなくなってくるのだ。
 もっともそれは、もとを正せば計画的に課題を進めていなかった自分たちが悪いのだという話しに終始してしまうわけだが。
 自業自得という言葉があることは知っている。それでも、真姫は残り日数の少ない夏休みを卓上カレンダーで確認しながら、
「こんなの、イジメだ、ぜったい」と勉強机の上に積みあがった課題の山に崩れ落ちるのであった。
 時刻は夕方の七時近く。自宅が経営しているペンションの宿泊客は、今日は老夫婦が一組だけということもあり、手伝いは朝からほとんどしていない。
 それどころか、宿題をほとんど終わらせていないことが母親に知れてしまい、「むしろ真姫は手伝わなくていいから、宿題を片付けなさい」と部屋につき返さ れてしまう有様だった。結果、今日はいちにち缶詰状態である。
 とはいえ、缶詰になったところで終わらないものは終わらないのであって、丸一日のあいだ勉強机に向かっていても宿題の総量の半分もまだ仕上がっていな い。
 もう一度だけ、真姫はおそるおそる机の上のカレンダーに目をやる。日付は、八月の二十九日。しかもあと五時間もしないで三十日に突入する。さらにいうな ら、あと二十九時間後には世界の終焉がやってくる。いまの真姫にとって夏休みが終わることは世界が滅びることに等しかった。
 正直、まずいと思う。頭の中でどのようにペース配分をしてみても終わる気がまったくしない。額にかく汗は冷や汗か脂汗か。目の前でカチカチと時を刻むデ ジタル時計を窓から放り投げてやりたい気分だった。
「あー、マズイ。ほんと、マズイ」ぼそぼそと呟きながら、再び机の上に突っ伏す真姫。顔を横に向け、机の上に並ぶ辞書やら小さなヌイグルミやらを一瞥す る。木目の壁に、真姫が憧れる島唄の歌姫のポスター。レースのカーテン。窓の外には仁良伊の長閑な風景と、そらにはすでに一番星が輝いている。
 そのまま、視線はしばらく窓辺に留まっていた。
 そして、一週間前の出来事を回想していた。
 仁良伊島の西の端で繰り広げられた壮絶な死闘。それを、まるで夢の中で見た光景のように思い出していた。
 果たして、あれはなんだったのだろう。
 自分を襲ってきた赤毛の化け物と一緒に、光となって霧散してしまった赤毛の少年。あのあと、ムナの姿をさんざん探し回ったものの彼の姿はどこにもなかっ た。結局、ふたりで辿りついたあのうち捨てられた史跡に真姫は丸一日留まり、ムナの姿を探したが見つけることはできなかった。
 あるいは、家に戻れば、また夜になってあのガジュマルの樹の下に行けば会うことも出来るのでは、という願いも叶わなかった。
 あの日以来、ムナは一度たりとも真姫の前には現れなかった。
 おもむろに、真姫は勉強机に向かい、学校指定のノートパソコンを開く。今日日、夏休みの宿題もパソコン処理が当たり前になってきている。それは、この日 本の南の僻地の学校に通う真姫にも当てはまることだった。
 真姫にとってのいちばんの難関、数学のファイルを開き、ふいについ今しがた自分で打ち込んだワードに目が言ってしまう。
 それは夏休み前の授業で書き記していた、『数字と数字を関連付ける最小数=最小公約数』という文のすぐ下に書き加えられていた。
 そこにはこう表記されている。
 『わたしとムナを関連付ける最少公約数? ∞』
「……なにやってんだかね」真姫は自分で書き残した一文に苦笑しながら、やっぱり誰かに見られるのが恥ずかしくて、
 カタッ
 デリート。
 『∞』の一文字だけを残して削除した。
 果たして、ムナと過ごした日々はなんだったのだろう? 結局、彼がなにものだったのか、真姫が知ることはついにはなかった。
 それでも、確かなものがある。決して、あの日々が夢などではないということを証明する確かなものが、真姫にはあった。
「真姫ー、ちょっと降りてきてくれないかー」
 ふいに、階下から父親の呼ぶ声が聞こえた。この時間帯、このタイミングで真姫が呼ばれる理由はひとつしかない。真姫もそのへんは充分に心得ていた。
 丸一日の缶詰状態から抜け出せる嬉しさと、一時でも宿題のことを忘れられるという開放感を身に纏い、真姫はベッドのしたに置いてある三線のケースを持ち 出し、いそいそと自分の部屋を後にした。
 その胸元には、常に赤毛の少年がつけていた水晶の首飾り。
 あの日、丸一日かけて少年を探し回り、その合間に見つけたのがその首飾りだった。そして、それこそが彼と過ごした日々が夢でも幻でもないことを証明して いた。
 不思議な少年と過ごした不思議な日々を胸に、真姫は軽快に階段を下りていった。



-END-



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