逃げて、いますぐ。振り返ってはダメ。
 ただまっすぐに前を見て、逃げ続けなければいけない。
 ひたひたと足音をさせて迫ってくるあいつに捕まったら最後、自分がなにものなのか、どこにいるのかもわからなくなってしまう。
 逃げて、いますぐ。どこかに隠れようとしてもダメ。
 相手はあちらこちらに潜んでいるの。隠れたってきっと見つかってしまう。だから、逃げ続けるしかないのよ。
 さあ、逃げて。いますぐに。
 ほら、遠くから聞こえてくるサイレンの音。また、誰かが捕まってしまったのね。
 あいつに捕まったらおしまいなの。もう、自分でもどうすることもできはしないから。
 逃げて、気を確かに持って。
 まわりの世界が白に染まっていく。とても不気味な、穢れひとつ残さない無慈悲な白に染まっていく。
 人々は全て同じ表情で、おなじ歩調で、干満のないバイオリズムで暮らしている。
 それでも、生きていると主張しなければならない。鼓動も吐息も、意識さえもが不自由で、それでも足の動きを止めることは許されない。
 いちど立ち止まってしまったなら、ほら、すぐにあいつがやってくる。
 つかまったらおしまい。つかまったらおしまい。心をめちゃくちゃに引き裂かれて、あなたがあなたでいられなくなってしまうから。
 だから、逃げ続けなければ。
 マスメディアが取り扱うのは、あいつに捕まってしまった人たちのことばかり。
 かわいそうに、あの彼も逃げ切れなかったのね。あいつの魔の手から。
 路上に咲き乱れた赤い花。その光景を目にしてあなたはなにを思った?
 人々から聞かれたのは哀悼の挽歌(ラメント)。悲愴の哀歌(エレジー)。
 けれど――、なかには彼を讃える賛美歌も含まれていて、
 それはそれは恐ろしいことよ。
 彼らも、賛美歌を口にした人たちも、もしかしたらもうあいつに捕まってしまったのかもしれない。
 でも、あなたはまだ大丈夫よね? あなたはまだ、捉えられてはいないはず。
 だから、きっと、逃げ続けて。
 なにも走る必要はないの。必要なのはただ、心を静かに落ち着かせて、どんなに暗い闇の中にあっても投げ出すことなく、必ずある一筋の光明を探し出して、 あなたがいま立っているその位置をしっかりと見極めて、あせることなくゆっくりと歩を進めて。
 そうすれば、あいつはきっと追ってこられないから。
 あいつの魔の手が届くこともないから。
 だから、さあ、しっかりと前を向いて。あなたはあなたの路を見失わないでね。



















 あいつは――狂気はいつだって、あなたのことを付け狙っているのだから。


































 その世界は、いつの頃からか目には見えない白い霧に包まれるようになり、昼と夜との境はなくなり、空と大地は永久にその袂を分かたれて、色彩は薄れ、輪 郭はぼんやりと霞み、夢現の判別もつかなくなってしまい、幻想と現実が入り乱れ、人々は喧騒と静寂、正常と狂気の狭間で、悠久と須臾の時間を、白濁の心魂 を伴って生きるようになっていました。



























ホワイトノイズ・フラグメント
紫雲 正宗


 一、粛正

 朝起きる。
 布団から出て制服に着替える。
 一階に降りてリビングを覗く。
 そこにはすでに朝食が準備されていて、料理の端には小さなメモが置かれていた。
 本日帰宅、父・八時頃(残業の可能性アリ)。母・七時頃。
 メモ書きにひと通り目を通し、用意されていた朝食を無造作にゴミ箱に捨てた。
 鞄を肩に掛け家を出る。仰ぐ空はいつもどおり白かった。
 いつもどおりの日常が始まった。





 最寄のバス停まで徒歩五分。
 途中、近所の見知った人と何人かすれ違うが、お互いに挨拶もない。他人と干渉しあうことのない、穏やかで健全な街づくり。とても高尚なスローガンだと僕 は思う。
 バス停でしばらくバスが来るのを待つ。寸分の狂いもなく、定刻どおりにバスはやってきた。
 音もなくバスは停車し、音もなく扉が開いた。
 念のため鞄から定期を出して見せるけれど、運転手はこちらを見ようともしない。不正を働くような乗客がいるかもしれないなんて疑いを微塵も抱いていない のだろう。とても健全な勤務態度だと僕は思う。
 朝のラッシュの時間帯なのでバスの車内はすでに乗客でいっぱいだった。
 座席は全部埋まっている。仕方なく、通路のいちばん前の方のつり革につかまる事にした。
 バスの乗客はみな、携帯電話をいじるでもなく読書にふけるでもなく、ましてやウォークマンで音楽を聴くようなこともなく、座席に座っている人も通路に 立っている人もまっすぐに前を向いている。どこからも会話などひとつも聞こえてこない。
 みな、それぞれの職場や学校での今日一日のスケジュールを念頭で確認し、静かに心構えをしているのだろう。僕もみなに倣うことにする。
 バスはやがて、学校前のバス停までやってきた。
 同じバスに乗り合わせた数人の生徒と共に僕もバスを降りる。
 校門の前では先生が数名立っていて、生徒たちの服装の乱れをチェックしていた。ほとんどの生徒は問題ないのだけれど、ときおり校則に反する格好で登校し て来るヤツがいて、そういった生徒はその場でただちに粛正されることになっている。
 校門を抜けしばらく行ったところで、背中の方からふいに銃声が響いた。おそらく、誰かが粛正を受けたのだろう。
 間抜けなヤツだ、と僕は内心思った。
 朝の全体朝礼を終えたあと、みなそれぞれの教室に戻り今日の授業が始まる。
 黒板には一時間目から五時間目まで自習と書かれていた。
 勉学はみなさんの自由意志に任せます。頑張ってください。
 そんな文言が追記されていた。今日における教員不足は深刻なんだろう。
 ピカピカに磨き上げられた床。真っ白の天井。窓から流れてくる涼やかな風が頬に気持ちいい。街の喧騒など、授業中の私語などひとつも聞かれない。勉学に 励むにこれ以上適した場所はないだろう。
 今日も勉強が捗りそうだと僕は思った。
 午前中の自習時間が過ぎ、昼休みも終え、最後の六時間目は瞑想の時間に当てられた。
 席に付き、静かに目を閉じて精神の精練を行う。自らのうちに潜む邪念を見つけ出し、これを排除し、心清らかでよう努める。
 授業中に二度三度と銃声が響いた。瞑想の時間だというのに居眠りをしたか、心の平穏を乱して何人かが粛正されたのだろう。
 これくらいのことで心を乱すなんて、低俗なヤツらだ。僕は思った。
 やがて六時間目も終わり帰りのホームルームも終わって、生徒達は三々五々、部活に赴いたり帰りの途へとつく。
 僕は鞄を肩にかけ美術室へと足を運んだ。
 この学校の美術部は――いや、この学校に限ったことではないのだろうけれど、けばけばしい色彩の根絶されたまっさらなこの世界にあって、部員数は伸び悩 み、部活という体裁をとるのに最低限の人数しかいなかった。それも、ほとんどが幽霊部員で部活の時間にここに立ち寄ってもほとんど誰もいないことが常だっ た。
 乾いた絵の具でも踏みつけているのか、美術室のドアは砂を咬むような音を立てながら開く。中に入り、後ろ手にドアを閉めながら室内を見回す。
 驚いたことに、今日は先客がいた。
 教室のいちばん前の窓際、キャンバスに向かって一心になにかを描いているようだった。
 ここからでは背中しか見えないが、女子生徒であることは間違いない。それが誰なのかはよくわからない。
 ペインティングナイフを持っているところを見ると、どうやら油彩画に取り掛かっているようだとわかる。
 それにしても、描くといってこの色彩の薄れた世界でなにを描いているというのだろう。すこし興味が湧き、それでも相手の邪魔をしては悪いと思い、僕は絵 に没頭している少女のもとに静かに歩み寄った。
 ペインティングナイフがキャンバスをなぞる乾いた音を聞きながら、彼女の背中越しに僕はその絵を覗き込んだ。
 衝撃が走る。
 画布には白が載せられていた。
 白一色しか載せられていなかった。
 しかし、キャンバスの上に隆起した白絵具は窓からの陽を受け布地に陰影を刻み、長く短くひかれた影は線状に繋がりを見せ、そこにモノクロームの風景画を 浮かび上がらせていたのだった。
 なんということだろう。
 驚くべきことに、彼女は画布に絵具を盛り上がらせることで影を作り出し、影の長短を微調整することで、山の稜線や棚引く雲、野を駆ける馬や草花をみごと に表現していた。
 まるでそこに描き出されたものの息吹がこちらにまで伝わってくるような、無いはずの色彩すらも錯覚でもって目に焼き付けられるような白い絵画。
 あまりの衝撃に、彼女の邪魔をするまいと思っていたのに、僕は思わず声を漏らしていた。
 僕の声に気づき、少女がこちらに振り返る。
 目があった。唇が動く。けれど、声は聞き取れない。「――君、いたの。ぜんぜん気付かなかったわ」。そんなようなことを言った気もするけれど、よくはわ からなかった。
 そして、さらなる衝撃が、僕を襲う。
 キャンバスの前に座り、こちらを振り仰ぎながら、彼女は微笑んでいた。
 彼女は、笑ったのだった。
 その表情は、あきらかに喜びの感情を表わすものだった。
 清らかな小川の流れのような、ほのかな笑顔。すべてのものを和らげ、すべてのものを溶かし込むような穏やかな微笑。それは、僕の心を激しく揺さぶり、
 危険だ。とても危険だ。
 感情の揮発は精神の安寧を損なう。心の平常が失われることは、すなわち人々の生活の平穏を損なうことになる。
 感情の揺らぎが人間の悲しみや憎しみ、怒りを生み、結果として人と人との争いを巻き起こす。戦争も犯罪も、すべては怒りや憎しみといった感情が引き起こ すものだ。
 感情は抑制しなければならない。理性による心情の束縛。それこそが、人間のあるべき姿であり理想でもある。
 しかし、目の前の少女はどうだ。
 なんの畏れも疚しさもなく微笑みを浮かべる少女の姿。それは、とても危険な存在だ。
 ならば、粛正しなければならない。
 だから、僕は、気付いたときには学生服の内ポケットに忍ばせていた銃を彼女に向け、

 パィン

 引き金を引いていた。
 額から後頭部を貫通した弾丸。
 ゆっくりと、仰向けに崩れていく彼女の身体。
 流れ出る血は、見る間に床に広がっていき、この世界と同調して白く変色していく。やがて、彼女の身体も、身につけた服も徐々に色彩を失っていき、後には なにも残らなかった。
 これで危険は去った。またひとつ、平穏な日常が約束された。
 しかし、なぜだろう。心の動揺が納まらない。目の前の危険は去ったというのに、なにを案じる必要ももうないというのに、僕の心は跳ね馬のように乱れてい た。
 いけない。落ち着かなければ。感情を抑えることが人間としての義務なのだ。
 それとも、目の前に突然表わされた危険にいまだに動揺しているためだろうか。ならば、しばらく時間を置けばこの感情の揺らぎも納まるのだろうか。
 しかし、理性で抑えようとしても時間の経過を待っても、心の揺らぎは納まることはなかった。かえって大きくなっていると言ってもいい。
 それに、この視界の揺らぎはなんだろう? まるで空間の歪んだ世界を目の当たりにしているような、裸眼のまま水中を覗き込んだような視界の揺らぎ。それ が、あるところまで来ると決壊して頬を伝うようになり、
 ゆっくりと手の甲で頬を拭うと、頬は静かに濡れていた。
 これは、涙? 僕は、泣いている?
 いつのまにか、僕は悲しみという感情を自ら体現していた。
 しかし、なぜ?
 この涙はなんのために流れている?
 僕はいま、自分の手で、感情の体現者という危険を屠り去ったあとだ。そのことについて、喜ぶならわかるけれど悲しむ必要のなにがあろうか。
 それとも、粛正という行為そのものに悲しみを感じているのか。
 ちがう。そんなはずはない。粛正はされるべくして行われるものだ。感情の体現者であった彼女は粛正されるべき存在だったはずだ。そこに疑問の余地はな い。
 ならば、なぜだ?
 それがわからない。
 僕は自分を見失い、動転してでたらめに視線を泳がせた。
 窓からの日差し。整然と並べられた椅子。壁際に並べられた人物画の数々。真っ白な天井。磨き上げられた床。
 さきほどまで、彼女が作業していたところだけひと通り机も椅子も端にどけられていて、空けられたスペースの真ん中にイーゼルが立てられている。そこに乗 せられたキャンバスは真っ白な風景画。イーゼルの足下には彼女が手にしていたパレットやペインティングナイフが転がり、近くには彼女の鞄が置かれていた。
 鞄の外ポケットから顔を覗かせる携帯電話。結いつけられたいくつかのストラップ。
 それらは、彼女のお気に入りのキャラクターで、僕にはそれらのストラップに見覚えがあって、

 ああ、そうか。
 なぜ、僕が涙を流しているのか、わかった。

 それは、この世界が無類泣き白に染まるより以前に、僕が彼女に対して抱いていた特別な感情に由来しているものだった。その特別な感情の名前を、いまよう やく思い出した。
 そして、気付く。危険だったのは彼女なんかじゃなかった。
 危険なのは、むしろ僕のほう。
 粛正しなければ。こんな危険なものが存在してはいけない。
 いますぐに、消し去らなければいけない。
 だから、僕は、

 パィン

 僕は自らのこめかみに銃口をあてがい、静かに引き金を引いた。





























 朝起きる。
 布団から出て制服に着替える。
 一階に降りてリビングを覗く。
 そこにはすでに朝食が準備されていて、料理の端には小さなメモが置かれていた。
 アナタノミテイルユメノツヅキハ、ドコヘトツナガッテイルノ?
 メモ書きにひと通り目を通し、用意されていた朝食を無造作にゴミ箱に捨てた。
 鞄を肩に掛け家を出る。仰ぐ空はいつもどおり白かった。
 いつもどおりの日常が、また始まった。












 二、百花繚乱

 咲いて、咲かせて、咲き誇れ、咲き乱れ。
 風に散り、風に舞い踊れ、季節めぐり、めぐりて咲き誇れ花々よ。

 デンファレは美人だけれど、とても我侭。だから、アンスリウムは常に煩わしい想いをさせられていた、炎のような輝きも今は昔。
 カルミアは大志を抱きて広大な台地へと一歩を踏み出した。その手に握られた小さな希望はスノードロップ。
 アリストロメリアはエイキゾチックな艶かしい微笑を浮かべながら、コケティッシュに視線を泳がすヘメロケリアと星空のダンスに興じているの。
 春よ、来たれと狂い咲く。

 咲いて、咲かせて、咲き誇れ、咲き乱れ。
 風に散り、風に舞い踊れ、季節めぐり、めぐりて咲き誇れ花々よ。

 小さな顔をしたチェリーに想いを告げるカンパニュラ。けれど彼女は気紛れで、あっという間に去ってしまった。
 快活で才能に恵まれたナデシコ。彼女と自らとを比べて、アリウムは無限の悲しみに沈んでしまった。
 旅から戻ったクレマチスは、ネリネと共に幸福な思い出を語らいあう。二人の笑顔がとても素敵ね。
 夏はもう、すぐそこまで来ていた。

 咲いて、咲かせて、咲き誇れ、咲き乱れ。
 風に散り、風に舞い踊れ、季節めぐり、めぐりて咲き誇れ花々よ。

 草原の真ん中にポツリと立つネムノキの下、創造力をいや増してヒマワリが光輝あるその姿を誇っている。
 ゲッカビジンは繊細だけれど、トリトマの胸の痛みには気付かない。
 ごきげんよう、シオン。コスモスの真心も追憶の彼方。
 季節はめぐり秋の装い。

 咲いて、咲かせて、咲き誇れ、咲き乱れ。
 風に散り、風に舞い踊れ、季節めぐり、めぐりて咲き誇れ花々よ。

 心も枯れる憂いのシーズン。それでも、コリウスはカトレアの魔力を頼ってその望みを叶えたわ。
 愛嬌たっぷりのサンダーソニア。けれど祈りは届かなくて、ブリオニアは夢を断念せざるを得なかった。
 けれど、夢想家のブバルディアは諦め切れない。天才・プラタナスに知恵を借りてプルヌス(困難)を見事に乗り越えて見せた。
 凍てつく季節。冬の到来。

 咲いて、咲かせて、咲き誇れ、咲き乱れ。
 風に散り、風に舞い踊れ、季節めぐり、めぐりて咲き誇れ花々よ。
 
 そうして世界は花に包まれる。これまでの世界も、まだ見ぬ世界もすべてが色鮮やかな花々で埋まっていき、
 世界の中心の小さな丘の上、寄り添って咲くフリージアとストックの綺麗な花。
 その花言葉は『慈愛』。そして、『名もない平和』。












 三、キゲン

「なぁに、この牛乳? もうとっくに期限切れてるじゃない? ちゃんと捨てなさいよねこういうの。まったく、これだから男のひとり暮らしは」
「ちょ、勝手にひとんチの冷蔵庫のぞくんじゃねぇよ! いいから、ビール持ってさっさと向こう行けって」
「はいはーい。あ、そういえば、ほかのメンツは? 今日は来ないの?」
「あー、なんでもヒロシは一昨日あたりから体調崩したからって休んでたし、タケルはもともと今日は来れないって言ってたろ? あと、マアコは臨時でバイト の交代が入ったからって学校で聞いて、スミはなんだか機嫌が悪いからパス、だって」
「は? なにその、機嫌が悪いからパスって?」
「さぁ。また教授に嫌味な事でも言われたんじゃねえ? 『行ってもいいけど、マサヒコの部屋が明日まで無事であるとは思わないでね』ってものっそい笑顔で 言われたから忌避してきた」
「……忌まわしきを避ける、と書いてキヒ?」
「そう。それそれ」
「うわぁ、回避の先をいったか。そりゃ、そうとうなオーラを発してたっぽいわね。……え、でもそうなると、今日ってあんたとあたしの二人っきりってこと?  いわゆるサシってやつですか?」
「……んだよ。そんな嫌そうな顔しなくたっていいだろうが」
「いや、べつにマサヒコが嫌ってわけじゃなくて、二人だけで討論会っていうのはどうなの? 意見の偏りとか出てくるから、あんま意味なくない?」
「んまあ、確かに。でも……、どうするよ? 他になにかすることあるか?」
「この部屋、なんか面白いビデオとかゲームとかないの?」
「……スケベDVDとエロゲーしかない」
「……最ッ低ー」
「うっせ! 男のひとり暮らしの標準装備なんだよ! 『ひのきのぼう』と『ぬののふく』なんだよ!」
「ドラクエに例える時点で終わってるわー。まさにこの本のタイトルどおりね」
「……あー、なるほどねー。たしかにオレって人間失格だわーってオイッ! だ・れ・が、人間失格じゃっ」
「はははっ、ナイス、ボケツッコミ! やっぱマサヒコ弄るとおもしろいわぁ」
「うっせ! 帰れよおまえ」
「えー、でももうビール開けちゃったしー、それになんか雨降ってきたしー」
「……ったく。で? 結局なにするわけ?」
「うーん、べつにこのままくだらない与太話しててもいいけど。……あ、それだったら、これやってみない?」
「だから、討論会はふたりでやったんじゃ意味ないっておまえがさっき――」
「――ちがうちがう。ほら、この本の中に出てきたじゃない? シノニムがどうとかアントニムがどうしたとか」
「ああ、同義語と反義語の言い合いか。……そうだな、ちょっと面白そうだし、やってみるか」
「よーし、そうと決まればあたしから。じゃあ、まず簡単なところで、『自由』のシノニムは?」
「簡単か、それ? えーと、……『束縛』」
「? 同義語だよ? 『自由』の同義語が『束縛』になるの?」
「そう。なんでもいいから自由にやってみなさい、って言われるとかえってなにも出来なくなるってない?」
「……まぁ、一理あるけど」
「じゃあ、逆に聞くけど『自由』のシノニムはなに?」
「『無知』」
「……そのこころは?」
「常識や世間体というものを知っているとそれだけである程度、人の行動は制限されてしまう。だから、まるっきりの自由であるためには無知である必要があ る。こんなかんじでどう?」
「それって同義語か? なんか自由である為の条件を提示しただけって気がするけど」
「いいのいいの。もともと、この遊びって明確な答えが用意されてるわけじゃないんだし。はい、次はそっちの番」
「ん、じゃあ。……『猫』のシノニムは?」
「ねこ? にゃーご?」
「それ以外になにがあると?」
「……えーっと、じゃあ『犬』?」
「それは、どっちかって言うとアントニムじゃないかな?」
「でも、進化生物学だと犬と猫の祖先は辿っていくと『ミアキス』っていう単一の生物に行き着くって」
「あくまで生物学上の話な」
「じゃあ、答えは?」
「『羊』」
「……そのこころは?」
「どちらも被るもの」
「は?」
「他人に自分を良く見せようとする人は『猫』を被る。相当の実力があるにも関わらず、あたかも自分は弱者であるかのように装う人間は『羊』の皮を被る」
「……でも、それじゃあ良く見せようとする『猫』と悪く見せようとする『羊』とで反義語になってこない?」
「どちらも人を欺くという意味では同じだろ」
「じゃあ『鷹』は?」
「あれは爪を隠す。被り物じゃないから除外。……っていうか、あいかわらず負けず嫌いな。ほれ、さっさと次にいくぞ。こんどはそっちの番」
「うーん、……じゃあ、『交通事故』のアントニムは?」
「は? 交通事故の反義語?」
「そう」
「えー、なんだ? ……『放送事故』とか?」
「そのこころはっ!?」
「『交通事故』は外傷を伴い『放送事故』は内的精神的な傷を伴う、とか。だめだ、ぜんぜんわかんね。それで正解は?」
「『安全運転』」
「まんまかよっ!? 捻って考えたオレがバカみてぇじゃねえか!」
「やーい、バーカバーカ」
「くっ、このやろ! 次、オレのターン! 『起源』のアントニムは?」
「キゲン? 種の起源、のキゲン?」
「そうだ、それ」
「えぇと、始まりだから、その反義語ってなると『終焉』とか?」
「ふふーん、それは同じ時間軸上に存在する計測点でしかないから、オレの中ではシノニムだ」
「え、じゃあ『悠久』とか? でなければ『無限』?」
「いやいや、『悠久』であれ『無限』であれ始点となる『起源』を持たなければ存在し得ないから、それらもアントニムにはなり得ないよ」
「わかった! 答えは『虚無』!」
「……そのこころは!?」
「『起源』が存在全ての始点を表わし、その時間軸上に現れる観測点すべてがシノニムとして包括されるなら、『起源』のアントニムは観測されうる時間軸上に はない特異点に認めることができる。つまり、時間や空間が存在し始めるよりも前の状態、『虚無』がその答え」
「正解ー。見事な模範解答でしたー」
「なんか、正解の声が投げやりなんですけどお」
「いや、答えられるとね、なんか悔しいというか」
「小学生か、あんたは」
「うっせ! 次々!」
「あ、ああ、今度はわたしか。じゃあ――」
「…………」
「…………」
「? どうした、急に? なんか顔色悪く――」
「『現実』のアントニムはなに?」
「……『現実』のアントニム、か。普通に考えれば『夢』とが『空想』とかだろうけど、まさかそれじゃ捻りがないだろうし――」
「『狂気』のシノニムは?」
「ちょっと待てって。まだ、『現実』のアントニムの答えが、――って、ちょ、なんだよ! いきなり押し倒すなっ、こっちだって心の準備ってもんが――」
「『幻想病』のシノニムは!?」
「……おまえ、なに言って」
「いいから、答えて!」
「……『幻想病』のシノニムは、……『混沌』」
「その、こころは?」
「……『幻想病』はこの世界にホワイトノイズが漂うようになってから現われた奇病。その病に冒されると空想と現実との境目を失い、人体にさまざまな変調を きたすようになる。ある場合には長年患ってきた持病がいきなり完治する事もあれば、ある場合にはまったく別の病を併発することもある。事故などで失ってし まった手足が戻る場合もあれば、逆にある日突然、手足が砂のように崩れたり身体全てが崩壊する場合もあるし、そうでなければ、第三の脚や腕が突然生えてき たりもする。なにが起こるかわからない、『混沌』を内包した謎の病魔」
「どうして『死』という言葉を選ばなかったの? 最近の学説だと途中の経過はどうあれ最終的には身体の崩壊が起きて、最終的にはみんな死んでしまうって」
「それは、あくまで学説だろ。……なあ、ほんとにどうしたんだ? おまえ、なんか――」
「このまえね、わたし、自分の部屋で料理作ってるときに包丁で指を切ったのよ。……私が流した血は青かった」
「それって」
「そう。病院での診察は『幻想病』だった」












 四、幻想病

 初めに、どうしても拭いきれない倦怠感がある。
 どんなに身体を休めようとも、とる事の出来ない気だるさ。疲労感。
 自分は、すこし疲れているのだろうか?
 初めのうちは、誰もがそれくらいにしか思わない。
 けれど、日を追うごとにいよいよ身体は重くなっていき、なにかおかしいと気付き始める。それでも、その時点で医者に行って診察してもらっても、「ただの 疲れ」と診断されることがほとんどだ。
 無理もない。
 幻想病に関する病理――感染源やその経過について、現代医学ではなにひとつ解明されていないのだから。それどころか、幻想病が果たして「病」といえるも のなのかどうかすらも怪しい。
 多くの人の場合、これだとはっきり分かるような身体の異変が出ないかぎり、自分が幻想病に掛かっていると気づくことはない。そのきっかけとなる身体の異 変は人によって実にさまざまだ。
 いちばん多いのは、自分の血が赤くないことに気付くというケースだ。包丁にしろカッターにしろ、誤って傷をこさえてしまった際に、流れて出てきた血が青 かったり緑色をしていたりして驚く。そこまできて、ようやく幻想病の診断がおりる。
 といって、幻想病だとわかってもなにか治療を行うような手立てがあるわけではない。
 なにしろ、身体に現われる症状も、その症状の度合いも人によってさまざまだった。
 ただ、一様にいえることは、人間の身体が著しく変化するということ。
 否。激動、改変、あるいは崩壊と言った方がいいかもしれない。
 この病気はその名が示している通り、いままでの現実的常識的な文明医学では到底理解できない、幻想を目の当たりにしているとしか言いようのない病魔なの だった。
 四肢の突然の増殖や異常発達に始まり、皮膚の硬質化やゲル化、骨格の異常な歪曲、第三の眼球や口唇の出現、背中に羽根のような神経塊が突き出たりといっ た事例が報告されている。
 この病に侵されるとどうなってしまうのか、誰にも分からない。
 分かっていることはそれだけだった。
 そしてもうひとつ、最近になって分かってきたことがある。それは、幻想病に掛かった患者は最終的には、身体が風に吹かれる砂のように霧散してしまうとい うこと。
 ある日突然、病室から患者の姿がなくなる。かわりに、ベッドの上には大量の砂が積まれている。
 また、これは真偽のほどは定かではないが、患者の身体が突然爆発して街全体を白い煙が覆いつくしたとか、患者の身体が霧散したあと、その周辺に洋の東西 を問わずさまざまな花々が一面に咲き乱れたなどという話しも実しやかに囁かれていた。
 はたして、この病はなんのために引き起こされたのか、いったいどうすれば治療することができるのか。すべては謎に包まれていた。



 でもね、わたし幻想病の秘密を知っちゃった。
 この病気はね、要は付き合い方しだいでなんとでもできるのよ。
 あのね、この病気はね、人の心と常に連動しているの。どういうことかっていうと、たとえば幻想病のいちばん最初の症状って、身体がやけに重かったり血が 青かったりするじゃない?
 あれもね、結局はその人の心が身体の変調を起こさせていたのよ。つまり、だるいだるいって思ったせいで余計に身体がだるくなっちゃったし、なんか私の身 体っておかしいのかな? っておもったから本当に身体がおかしい事になっちゃったのよ。
 青い血が出たのもそのせい。
 自分の身体はおかしい、普通じゃないって感じたから、ほんとに普通じゃ起こりえない変調が起きちゃったってわけ。青い血は、それを端的に、いちばん簡単 に『普通じゃない身体』を自分の身体が表現した結果ってことになるわね。
 つまり、この病気ってね、自分が心の中で感じたことや思ったことをそのまま身体が表現しちゃうってわけ。ほら、人の身体が崩れちゃったって話し聞いたこ とあるでしょ? たぶん、あれは死んじゃいたい、この世から消えてなくなりたいって思ったからなんじゃないかなって思うわけよ。だって、こんな妙ちくりん な病気になったら死んじゃいたいって思っても不思議じゃないじゃない?
 それに、ほらあれ。S市で起きた、幻想病患者の身体が爆発して白い煙に包まれたとかっていうの? あれもきっと、心に起因するなにかがその彼――それと も彼女かな? にあったからだと思うのよ。もっとも、彼だか彼女だかがなにを思ってあんなことになったんだかは分からないけどね。
 で、話を元に戻すと、この病気ってね、そうやって考えると自分の心しだいでどうにもコントロールできるんじゃないかって気付いたわけよ。それで試してみ たの!
 そしたらほら、こんなふうに背中に羽根を付けることも、指先から炎を立ち上らせることも出来るようになっちゃった! ねぇ、これすごいでしょ!?
 ああ、もっとも、ここまで操れるようになるのに、ずいぶん苦労したけど。
 なにせ無意識の内に思ったことや感じたことも形になっちゃうから、コントロールできるっていっても結構たいへんなのよねー。心に思い描いたことがそのま まストレートに形になるってわけでもないし――。
 ……それに、やっぱ、こんなのおかしいよね? ぜったい、普通じゃないよ。うん。
 …………。
 でさ、わたし思ったの。
 きっと、幻想病の秘密に気付いているのって私だけだと思うんだけど、もし他にもわたしみたいに気づくような人が出てきて、その人がなんかすごく悪いこと を考えるような人だったら、ちょっとイヤかなって。そんなことになったら、大変なことが起きるんじゃないかって思うの。
 だから、出来るかどうかはわからないけど、もし本当にわたしの身体とわたしの心が、この世界の在り様すら変えられる力があるんだとすれば、変えちゃおう かなって。
 こんなふうに、へんな病気が流行らないような世界に書き換えちゃえって。
 その結果がどんな風になるかはわからない。でも、もしかしたら、変わったあとの世界には、わたしはいないんじゃないかって、そんな気がする。
 だから、もしそうなっちゃったとしても、誰かひとりだけにはわたしのことを覚えていてほしいって思って、
 それが、あなたを呼び出した理由。
 でも、もしすべてが変えられた世界ででも、もう一度あなたと出会えたなら、わたしたちは笑っていられるかな? この狂った世界よりも幸せと思える世界で 出会えるかな?
 ……なぁんてね!
 でも、たとえどんな風に変わってしまっても、わたしのこと忘れないでね。
 約束、したよ。


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