あの壁の向こうへ
楡崎瞬
僕はユイが好きだった。
ユイがいないということだけで、こんなにも毎日に張り合いが無くなるとは思っていなかった。こんなにも心に空間が出来るとは、思っていなかった。
ユイと僕とは幼なじみで、物心ついたときからいつも一緒にいた。
「トシくん、知ってた?」
「何?」
「幼なじみって、結婚出来ないって言われてるのよ」
心が少し痛んだ。
そんなジンクスなんて関係ない。幼なじみでも結婚した人くらいいるだろう。でも、今の僕にはまだ苦笑することしか、思いつかなかった。出来なかった。
スタート位置に着いて大きく息を吸い込む。
夏場特有のジリジリした熱せられた大気が肺を満たして、僕の全身に酸素を供給する。
神経をとぎすまし、百メートル先にあるゴールを上目遣いに見つめると、少しずつ体重を前に傾けていく。
―――走ってるトシくん、いけてるよ
大きく息を吸い込んで、酸素を体中に浸透させる。
ユイが目の前でほほえんでいるように思えた。
―――スタートラインのトシくんって、いつも真剣な目をするんだね
号砲がなると同時にスタートを切った。
一秒の間に最初の三歩目まで踏み込むためには、スターターの呼吸を読んで飛び出す必要がある。僕は最初の一回目は感覚で踏み出すことにしていて、たいていフライングする。
でも、今日は上手くいった。
百メートル十一秒の壁。
未だに練習でも越えたことはない。
でも、この壁を越えなければ、たぶんユイに会うことはできない。
―――ユイ、俺だって…。
無風だった大気が僕の頬を切り裂いて流れていく。
体中のアドレナリンを爆発させる。
爆発したアドレナリンは、一歩一歩進むごとに赤筋に対して急速に乳酸を溜め込んでいき、着実に僕の足を重くしていく。
それでも僕は無呼吸でこの百メートルを走り抜けることに集中しなければならない。
―――ユイ
細い瞳で、ただ一点を見つめて。
走る。走る。
―――ユイ
光の壁が徐々に迫っていた。あの光の壁の向こう側に、きっとユイがいる。
あの壁を越えれば、そこには…きっと…。
―――ユイ
体中の節々が悲鳴を上げている。
不思議だ、自分の細胞の一つ一つが、最大限の機能を発揮しているように思えた。
まるでスローモーションのように景色が流れていく。
何も聞こえない無音の世界で。
目前に迫っている光の壁へ、着実に近づいているのがわかった。
―――ユイ
無意識に、ただ無意識に僕は手を伸ばしていた。
ゴールがどこなのかなんて、全く気にしていなかった。
ただ、ただ。あの壁の向こう側に躰ごと飛び込むんだ。
―――ユイ!
そう、僕はどうしても、ユイに逢いたかったんだ。
「ユイ…」
真っ白な壁が目の前に飛び込んできた。
窓の向こう側から歓声が聞こえた。
薄光していたその場所は、どこかの室内だということにそんなに時間はかからなかった。
そしてそれと同時に、僕の右足は白い硬い物で固定されていて。
自分の足のはずなのに、その奥にはあると思えないくらい。
感覚が、まるでなかった。
背後で音がした。振り向くと、そこには学級担任が微妙な作り笑いをしていた。
いつもは綺麗な先生が、まるで泣いた後のような形相をしていた。
「…センセイ、僕は…」
先生は静かに僕に右足のアキレス腱断裂を通告して、目を伏せた。
記録は十秒九四。
初めて十一秒を切ることができた。
平均して秒速九メートルで走ることができた。初めて、走ることができた。
―――ユイ、約束…守ったけれど、守れなかった
不思議だった。
とてもとても、不思議だった。
壁の向こう側に在ったのは、僕にとって虚無だった。
決してユイではなかったのだから。
でも、確実に壁を越えることができたことは事実で。
そしてそれは、僕にとって耐え難いくらいの、残酷だった。
「…先生、僕はまだ、走れますか…?」
「走れるようになるよ、きっと…」
「そうですか…あの…どのくらい…」
涙が止まらなくなった。
判っていた、僕はもう人並みにしか走れないってことを。
「どれだけ努力をすれば、壁の向こう側へ行くことができるんですか!」
「…」
「…教えてください…センセイ…僕…は…」
わかっている。先生はきっと、答えられないってことを。
「…セン…セイ……」
溢れてきた。止めどなく。
叫びたかった。でも、叫べなかった。
だから僕は、瞳を閉じて。
自分の深い深いところで、静かに静かに悲鳴を上げた。
―――ユイ、逢いたいよ
あと、どれだけの時間を積み重ねれば。
僕はまた、ユイに逢うことができるのだろう。