それはささやかだけれど確かに
Taku
ぼくには笑うという感情がない。怒るという感情もない。泣くも愛するも悲しむもない。ぼくには喜怒哀楽がない。つまり、感情そのものがないのだ。それはぼくの幼少期に起こった出来事が原因である。
そう、あれはぼくが六歳のとき。あのときは夏休みで、家族で田舎に住んでいる親戚の家に泊まりに行ったときのことだ。その場所は都会と違って自然があり、緑があり、水が美味しかった。ただの水道水でも山川のように澄んでいて一切の不純物がないように感じられた。そして家から出るとうるさいくらいに蝉の鳴き声が聞こえてきた。太陽の光がさんさんと降り注ぎ、大きな木の影が道路にできていた。空気も澄んでいた。ぼくはそのとき、はじめて自然というものにふれた気がした。だからかもしれないが、その日、ぼくはずっと外で遊んでいた。近くの家の子供たちとすぐに友達になり、彼らと一緒に森のなかに入って昆虫採集をしていたのだ。ぼくは服を汚しながらもなんとか蝉を捕まえて、それを家に持ち帰った。両親は汚れたぼくの服を見て顔をしかめていたが、親戚のおじいちゃんおばあちゃんは元気な孫の姿を眼を細めて微笑んで見ていた。
そして夜。ぼくはその家の居間で、右側に父親、左側に母親がいて、つまり両親にはさまれるかたちで眠っていた。ふとんがふかふかだった。そして畳の匂いが鼻をついた。都心にあるぼくの家はフローリングなので畳そのものがめずらしかった。そのせいもあってか、ぼくは両親が眠ったあともなかなか寝付けなかった。そのことはよく覚えている。そのあとに起こった出来事も。
なかなか寝付けずに、ずっと暗い天井を見ていてぼくは、そのとき、ふとした感じを覚えた。それはなにか不思議な違和感だった。横になったままで首だけを動かして辺りを見回す。そしてそれを見つけた。部屋のなかが暗いせいで最初にそれを見つけたときは鼠かなにかだと思った。だが違っていた。それは人のかたちをしていて、二本の足で立っていた、いや、それは、身体が小さいことをのぞけば人間そのものだったのだ。ぼくは驚いて、それは純粋にそんな存在がいることへの驚きだが、その小人(そう呼称するしかないだろう)をまじまじと見つめていた。
まずその小人を見て驚かされるのは、その小ささだった。彼は小さい、ぼくの顔と同じくらいの大きさしかない。そしてその衣装だ。彼の服装はとても変わっていた。それは彼の存在そのものが変わっていることに関係しているのか、とりあえず彼の衣装はへんだった。赤い半ズボンに、赤と白のストライプのハイソックス。赤色のブーツ。上半身は、右半分が白で、左半分が赤のシャツ。首に赤色のマフラーを巻いて、赤色のハット帽子をかぶっている。赤と白だけが彼の衣装の色だった。そんな彼はまるで童話にでもでてきそうな小人のようだった。
ぼくは彼をずっと見つめていた。すると彼はそんなぼくの視線に気付いたのか、首だけを動かして顔をこちらに向けてきた。丸顔でベテランボクサーのように両方のまぶたが厚く腫れていて、それでやけに鼻が高かった。どこか醜悪な顔の彼はぼくの顔を見て、すこしの驚きのあと、にやりと笑った。それは悪意に満ち溢れた醜悪な笑顔だった。
「よう、ぼうず」と彼が言った。その声は濁った汚い声だった。「オレ様の姿が見えるのかい?」
「う、うん」とぼくはうなずいた。それからふとんのなかに入ったまま身体を仰向けからうつぶせにして聞いた。「きみはだれなの?」
「あん、オレか? オレ様はちょっといかした小悪魔さ」そう答えてちょっといかした小悪魔はその場でくるりと一回転をした。それはフィギュアスケートの選手のような華麗な回転だった。「どうだ」と彼が腰に両手をあてて言った。「いかしてるだろう?」
「うん」とぼくはうなずいた。「その格好、すごくへんだね」
「へん? このオレ様が?」と彼は驚いたように自分の全身を見て、それからなにかを考えるように腕を組んだ。そして「まあ、そうだな」と言った。「子供には、このいかした素晴らしさがわからないかもしれないな。そうだな。まあ、仕方ないことだな」
いかした小悪魔はそう言って、うん、うん、とひとりでうなずきはじめた。彼は身体が小さいが、そのリアクションはいちいちおおげさで大きなものだった。いや、もしかしたら身体の小ささをリアクションのおおげささでカバーしようとしているのかもしれない。
「きみは」とぼくは聞いた。「悪魔なの?」
「あ、ああ、そうだ。オレ様は悪魔だ」と彼は得意げに答えた。「それもただの悪魔じゃあない。ちょっといかした小悪魔だ」そう言って彼は腰に両手をあてた。これが彼のポーズなのかもしれない。「ところで、ぼうず」と聞いてくる。「ぼうずには、オレ様の姿が見えるのかい?」
「うん」とぼくは答えた。
「はっきりと鮮明にかい?」
「うん」とぼくはまたうなずいた。
「そうかそうか」と彼はひとりで、うん、うん、とうなずきはじめた。
ぼくは「普通の人には、きみの姿が見えないの?」と聞いた。
「大人には見えない」と彼は答えた。「だけど子供には見える。まあ、たまに子供でも見えないやつはいるが、それでも子供は大抵、オレ様の姿を見つけるな」
「どうして?」とぼくは聞いた。
「子供は純真だからさ」と彼はひどく醜い笑みをうかべて言った。「純真で純粋で、感受性が豊かだ。素直である、といってもいい。子供はなんでも信じようとする。疑うということを知らない。純真なんだ。そして感情というものが子供にはある。大人になるとすたれていくその大切なものが、子供にはある。だから子供に、オレ様の姿が見えるのさ」と彼は得意げに言った。
ぼくはその言葉の意味がよくわからなかったので、「わかんないや」と素直に言って、腕まくらをしたその上に自分の頭をのせた。
「そうかそうか」と彼は言って、げらげらと声をあげて笑った。それは汚く下卑た笑い声だった。
ぼくはそろそろ眠たくなってきたので、彼に最後の質問、彼が自分のことを悪魔だといったときから頭のなかにあった質問をすることにした。
「あのさ」とぼくは声を掛けた。
「なんだ、ぼうず?」
「きみは悪魔なんだよね。だったら、なにか悪いことでもするの?」
彼はその質問に一瞬、虚を突かれたような表情になってから、にやりと笑みをうかべた。それはいままで見たなかで一番、悪意に満ちた、いや、満ち溢れている笑みだった。
「するよ」と彼は答えた。声にも悪意な笑みがふくまれていた。「当然する。なんたって悪魔ってのは、悪い魔物で、悪魔、だからな。するに決まっている。ただ、オレ様は普通の悪魔じゃなくて、ちょっといかした小悪魔だからな。そんなに悪いことはしない。すくなくとも命にかかわるようなことはしない」
「でも、悪いことはするんだよね?」
「そうだな」と彼はうなずいた。「それがオレの仕事であり、悪魔の仕事、生まれついてすぐに決められている仕事だからな。それはしなくちゃいけない。運命っていってもいいだろうな。悪魔に生まれしものに架せられた運命。悪いことをすること。というか、悪いことをしない悪魔は、ただの魔物であり、悪魔を名乗る資格はないからな。何度もいうが、悪魔ってのは、悪いことをする魔物のことなんだ」
「あの、どんな悪いことをするの?」
「たいしたことじゃない」と彼は言った。「さきにもいったが、命にかかわるようなことはしない。そのてんでぼうずは安心していい。オレ様はただ、ぼうずから感情をすこしもらうだけだ」
「感情を、もらう?」
「ああ、そうだ。感情をもらう。オレ様にとって感情っていうのは、いわば生きていくための糧なんだ。食料といってもいい。ぼうずもご飯なんかを食べるだろう?」
「うん」とぼくはうなずいた。だが彼の話は半分も聞いちゃいなかった。すごくすごく眠たくて、眼をあけているのもつらいくらいなのだ。
「それと同じことだ」と彼は言った。「ただオレにとっての食料が、ご飯じゃなくて感情だったということだな。ところで、ぼうず」と彼はぼくになにかを聞こうとしたが、ぼくはすでに眼をとじていて意識の半分が夢の世界に飛び立っていたので、彼は「眠っているのか? それならそのままでいいぜ」とぼくにかまうことなくひとりで喋りはじめた。「そのまま眠っているんだ。なに、心配しなくてもいい。痛みはないんだ。感情をもらうのはすぐにすむ。痛みもなにも感じずに終わる。ぼうずはただ眠っていればいい。明日の朝になればすべて終わっているんだ。オレ様の姿もなくなっている。ただぼうずは、いつもよりすくなくなった感情で日々を生きていけばいいんだ。なに、全部を奪おうってわけじゃない。ほんのすこしだ。ほんのすこしだけだ。心配すんな。すぐにすむんだ。それじゃあ、いただくぞ」
このときには、ぼくの意識はほとんどなくなっていた。眠っていたのだ。ただ、眠っているぼくのひたいになにか冷たいものが触れたのは覚えている。それは冷たくて、小さな円状なものだと思った。その冷たいものがぼくのひたいのなかに入ってきた。プリンにスプーンを入れるみたいな感触だった。痛みはなかった。だが不思議な感覚、感触だけがあった。円状なものがゆっくりとぼくの頭のなかを進み、脳までとどき(じっさいにとどいたかどうかはわからないが、そんな感覚があった)、そして、それが引き抜かれた。つぎの瞬間にはあのちょっといかした小悪魔の濁った汚い笑い声が聞こえ、そしてぼくの意識は完全に闇の世界へと落ちていった。
こうして、ぼくは感情を失ったのだった。
それからぼくは感情を失ったまま、小学校、中学校、高校、短大、と卒業し、いまは安いアパートで独り暮らしをしながら、工場で働いている。あのときあの小悪魔は感情をほんのすこしだけもらうといっていたが、じっさいはぼくの感情をすべて持っていってしまったらしい。あの日の朝からぼくはなににたいしてもなにも感じない無感情な人間になってしまっていたのだから。
学生時代はよく、いろいろな話題で友達と盛り上がるものだが、ぼくの場合はそうはいかなかった。感情がないためだ。最新のゲームをしても、流行りの音楽を聴いても、話題のテレビドラマを見ても、なにも感じない。おもしろいもおもしろくないもなにも感じない。そのせいでぼくは、友達たちが盛り上がっているところに入っていけず、よく仲間外れになっていた。まわりからの評判もよくなかった。小学校のときは感情の起伏が皆無だったせいで、ロボットというあだ名で呼ばれていた。中学校のときはいじめられているわけではなかったが、かぎりなくそれにちかい状態で、よくシカトされていた。高校に入ってからはそれなりに人との付き合いかたを知って、まわりに合わせるということを覚えた。短大のときにはまわりの人間に完全に感情を合わせれるようになった。つまり、まわりが笑っていたら笑って、怒っていたら怒って、悲しんでいたら悲しむ。感情を周囲の人間に合わせるのだ。それだけで人との付き合いかたはずいぶんと変わった。仲間外れにされることもなくなった。ようは感情を偽ればいいのだ。偽造した感情を顔に貼り付けて、そのつどまわりに合わせる。それだけで人間関係が円滑になる。ぼくは比較的はやい段階でそれを知ったおかげで、工場で働くことになった初日から、上司や先輩や同僚とほどよく仲の良い人間関係を築くことができた。
だからぼくはきょうも、いやこれからもずっと、偽った感情で偽造した表情をうかべて生きていくだろう。無感情な無表情を隠しながら。
その日は、ひどく暑い夜だった。九月のなかば、暑かった夏が過ぎ去り、秋が訪れようとしているとき。ぼくは自分のアパートの部屋で眠っていた。部屋のなかはせまく、六畳の部屋とキッチンしかない。六畳の部屋は畳敷きで、テレビ、本棚、タンスといったありきたりなものが置いてあり、ぼくはその部屋の真ん中にふとんを敷いて眠っていた。たぶん熟睡していたと思う。というのは、ぼくは一度眠るとまずめったなことでは眼を覚まさないからだ。それが感情がないことと関係しているのかどうか、それはわからないが。
そんなぼくが眼を覚ましたのは、誰かに起こされたわけではなく、地震がおきたわけでもなく、ただ朝になって自然と眼を覚ますように、なにひとつ不自然なところなく普通に眼を覚ましていたのだ。それは自分でも不思議な感覚だった。いままでの経験のなかではまずないことだ。ぼくは眼をひらいた。暗い室内。闇がかかっている天井と、ぼんやりとかすんで見える明かりがついていない蛍光灯がまず見えた。当然ながらぼくの部屋のなかで、天井で、蛍光灯だった。
ぼくはまどろんでいる意識のままで、ふとんのなかで横になったまま、首だけを動かして時計に眼をやった。低いタンスのうえに置いてあるデジタル時計はAM1:48と表示されていた。まだ真夜中だった。こんな時間に眼を覚ましたのははじめてのことだ。偶然か、もしくはなにか理由があるのか。ぼくは考えようとしたが、途中でやめた。考えても答えがでるとは思わなかったからだ。ぼくはそのかわりにふとんから這い出て、立ち上がり、すぐ真上にある蛍光灯からつるされている紐を右手で掴んだ。下に引っ張る。何回か点滅を繰り返してから明かりがついた。蛍光灯に照らされた部屋のなかは当然ながらいつもと同じ光景だった。ぼくはそのままふとんの上に座ってあぐらをかいた。あくびをひとつしてから、目尻にたまった涙をぬぐう。そのときになってようやく気付いた。ぼくがあぐらをかいているふとんの近く、まくらのそばにそれがいたことに。
それは、小人だった。ぼくが小さいころに会ったあの小悪魔と同じくらいのサイズである。だが外見のほうはあの小悪魔と雲泥の差があった。まずその小人の顔はきれいだった。中性的な顔立ちで切れ長の眼。瞳の色は鮮やかなサファイアで、漆黒色の髪を肩のあたりまで伸ばし、ひたいに青色のバンダナを巻いている。着ている服は、裾のところに黒色の刺繍がほどこされている青色の外套と、黒のスラックス。彼の服装もあの小悪魔と同じ二色しか使われていなかった。そしてその二色はあの小悪魔と対称な色だった。もしかしたら小人、小悪魔のたぐいは単二色系の服が好みなのかもしれない。そう思っていると、そういえば、とあることを思い出した。そういえば、あの小悪魔と出会ったのも、夏の夜だった。あのときはちょうど真夏の夜で、いまは夏が終わろうとしている時期の夜。小さい種族とは夏の夜に出会う運命にあるのかもしれない、とぼくは思った。すくなくとも人生のなかで、小人、小悪魔の両方と出会う機会なんて滅多にないのだから。
ぼくがそんなことを思いながらその小人を見ていると、その視線に気付いたのか、小人が顔をこちらに向けてきた。ハーフのような顔立ちをしていて、鼻梁がすらりとしていた。
「やあ」と彼が言った。その声は雲ひとつない青空のように澄んでいた。「きみには、わたしの姿が見えるのかい?」
「ええ」とぼくはうなずいた。
「それはめずらしいね」と彼が言った。「子供ならともかく、大人にわたしの姿が見えるとはね。これははじめてのことだ。驚いたな。でも」と彼は腕を組んだ。「きみはわたしの姿を見ても驚いていない。つまり、きみは過去にも、わたしのような小人と会ったことがあるということかな?」
「ええ、まあ」とぼくはまたうなずいた。「もっとも、あれは小悪魔でしたけど」
「小悪魔?」と彼はまゆをひそめた。「それは赤と白の服を着た、醜い顔の小悪魔のことかな?」
「ええ、そうです」
「鼻が高くて、まぶたが腫れている」
「そうです。鼻が高くて、まぶたが腫れていて、濁った汚い声の」
「そうか」と彼は言った。「あいつに会ったのか」
「知り合いですか?」とぼくは聞いた。
小人は腕を組んだまま首をひねった。それは肯定だが、その事実を認めたくないような素振りだった。
「知ってはいる」と彼は言った。「あいつは、子供に催眠術をかけて眠らせて、そのあいだに感情を奪う卑劣な小悪魔だ。あいつに感情を奪われて無感情になってしまった子供はたくさんいる」と彼は冷静に怒りだした。それから、はっとしたようにこちらの顔を見た。
だがぼくは彼の言葉を聞きながら、そうか、と思っていた。催眠術。だからあのとき、あの小悪魔と話していてすごく眠たくなってきていたのか。
「もしかしてきみは」と小人が問い掛けてきた。「あいつに感情を奪われたのか。だからわたしの姿を見ても驚かない。そうだろう?」
「ええ」とぼくはうなずいた。
小人が組んでいた腕をひらいた。「そうか。だからここにつながったのか」と言ってくる。
「なにがです?」とぼくは聞いた。
「じつはね」と小人が咳払いをしてから説明してくれる。「わたしは感情を奪われた子供、まあ、きみの場合は大人だが、から感情の芽をひらかせることを仕事としている、時空を旅する吟遊詩人なんだ」
はあ、とぼくは返事をした。それから彼の言葉を頭のなかで反芻させてみた。感情の芽をひらかせる。時空を旅する吟遊詩人……。時空を旅する?
「あの」とぼくは聞いた。「時空を旅するって?」
「時と時とをつなぐゲートを通って、違う世界、違う時間、そして違う時代に移動することさ」
「ゲート?」
「ああ」と彼はうなずいた。それから自分の右となりを指差した。「ほら、ここにあるだろう、ゲートが」
ぼくはその場所を見た。眼を凝らしてみた。だがそこにはゲートと呼ばれるもの、おそらく門かなにかだろう、は無かった。そこには眼に見えない完璧で完全な透明な空間があるだけだった、つまり、なにも無いのだ。
「なにもないですよ」とぼくは言った。
「いや、ある」と彼は反論した。「ちょうどわたしと同じくらいの大きさの長方形で、虹色のグラデーションで光っている。ほら、ここだ。ここにある」
ぼくは、見えない、という意思表示をしめすために首を左右にふった。
「そうか」と彼はすこし残念そうな声を出したが「見えないか。だが、まあいいだろう」とすぐにもとの声に戻った。「それできみのことだが」と咳払いをひとつしてから言ってくる。「わたしが歌をうたえば、その歌をきみが聞けば、きみの感情の種から芽を出させることができるかもしれない」
「感情の、種?」
「そう、感情の種だ。それは誰にでもある。そしてたいていの場合、花が咲いている。花の大きさはひとそれぞれだが、それでも咲いている。わたしはそれを感情の花と呼んでいる。そして感情の花は、感情の種からなるものだ。わかるかい?」
ぼくはうなずいた。感情の花は、感情の種からなる。
「それでだね。きみの場合、あの小悪魔に花を盗られてしまったんだ。だから感情がない。いや、感情がないというより、感受性がかぎりなく低い。つまり、感情はあるんだが、その起伏がかぎりなくゼロに等しいんだ。わかるかな?」と彼が聞いてきたので、ぼくは首をひねった。「そうか。わからないか。そうだな。それではひとつ、例えをだすことにしよう」と彼が腕を組んで右手の人差し指を立てた。「そう、例えば、感情というものを心電図だと思えばいい。心電図は心臓が活動していれば、つねに動いている。だが心臓が停止すれば、心電図の動きも止まる。それと同じことだ。なにかを感じれば、それに応じて感情も変わる。怒ったり、泣いたり、笑ったり、悲しんだり、それぞれだ。だが感じかたというのは人によって違うし、感情の起伏の変化も違う。例えばそれが10だとすれば、感情の起伏が大きい人間はそれを15と感じ、起伏が少ない人間はそれを5だと感じる。そしてきみの場合は、それをかぎりなくゼロだと感じているんだ。つまり、そういうことなんだよ。わかるかい?」と彼が難解な問題の解きかたを説明している学者のように聞いてきた。
ぼくはその長ったらしい説明でもよくわからなかったが、いや、もしかしたら長ったらしいからわからないのか、どちらでもとりあえずわからなかったが、それでも理解したようにうなずいてみせた。ここで、わからない、と素直に答えれば、さらに長く、そして難解な例えをもって彼が説明するだろうと思ったからだ。
じっさい「そうか」と彼は満足したようにうなずいていた。「それできみのことだけどね」と言ってくる。
「はい」とぼくは返事をした。
「わたしの歌を聞きたまえ」と彼は言った。「それだけできみの感情の種から芽が出てきて、いずれ花が咲くだろう。つまり、あの小悪魔から感情を奪われるまえの状態に戻れるんだ」
「はあ」とぼくは曖昧にうなずいた。
はっきりいってたいした期待もしていないが、どうやらこの小人の吟遊詩人は自分の歌をどうしても聞かせたいらしい。彼は組んだ腕をほどき、自分の喉仏に触りながら、発声練習を始めていたからだ。
「それじゃあいくよ」と彼が言った。
「どうぞ」とぼくは答えた。
彼が大きく両手を広げ、大きく口をひらき、オペラ歌手のように歌いはじめた。ゆっくりとしたテンポで低音を響かせ、なにかを抱きしめるようにひらいた両腕をとじる。まるで静かな海、波の立っていない穏やかな海面を思わせるような歌声とテンポだ。それから彼がゆっくりと両腕をひらく。曲調が激しくなった。歌声が高音に変わりテンポも速くなる。静かな海に風が吹き、嵐が来て、大きく波が打ち寄せるような曲調。やがてその嵐の海の空から激しい雨が降り始め、轟音を響かせて雷が走り、海が大きく激しく荒れはじめる。波も立つ。彼が大きく口をあけて、大きく腕を広げ、その歌声を響かせる。激しく、大きく、広大な荒れた海を連想させる歌を響かせる。やがて荒れた海に一条の光が差し込んでくるように曲調が落ち着きはじめた。テンポもゆっくりしたものにかわっていく。それは嵐が過ぎ去り、陽光が降り注ぐ、穏やかさが戻った海面と静かな海を思わせる歌声だ。そして彼がひらいた両腕をとじながら、ゆっくりと声を震わせて、静かに眼を閉じて歌い終える。
部屋のなかに静寂が戻った。
「どうだった?」と彼が眼をひらいて聞いてくる。その顔には汗がにじんでいた。
「いい歌だったよ」とぼくは嘘を付いた。じっさい、彼の歌はすばらしいのだろう。だが無感情のぼくはそれを、何気無い日常の音、例えば車の走る音や犬の鳴き声なんかと同じものとしか聞こえない。つまり、どんなにすばらしい歌も、演奏も、日常でまったく気にせずに鳴っている音と同じようにしか感じないのだ。彼は自分の歌を聞けば、ぼくに感情が戻るとかなんとか言っていたが、やはり無理なのだろう。一度奪われたものは戻ってこない。それが眼に見えない感情ならなおさらだ、とぼくは思った。
「ふむ」と彼が言った。「きみは嘘をついてるね。きみにはまだ、感情が戻っていない。感情の種からも芽が出ていない。そうだろう?」
そう問い掛けられて、思わずどきりとした。図星だったからだ。はい、とぼくは素直にうなずいた。嘘を付きとおすのは無理だと判断したからだ。
「わかった」と彼が言った。「それでは、もう一度うたうことにしよう」
「いや、もういいですよ」とぼくは止めた。正直、彼にはもうゲートだかで帰ってもらいたかった。無理なものは何度やっても無理なのだから。
だが彼は「いや駄目だ」と強い口調で言い放った。「わたしは、きみの感情の種に芽を出させなければいけない。これはわたしに与えられた仕事であり、時空を旅する吟遊詩人に生まれついたときからさだめられている宿命でもあるからだ」
「宿命?」
「そう。宿命だ。運命、といってもいいがね」
運命。そういえば、あの小悪魔も運命という言葉を使って感情を奪っていた。感情をすこしもらうだけ。それが悪魔に生まれしものに架せられた運命。そう言って。ぼくは思った。小人、小悪魔は運命というものにしたがい、それを忠実にこなそうとする。それは宗教的なものかもしれない、と。小人や小悪魔に宗教的概念があるのかどうかはわからないが、それでもそう思った。
「どうぞ」とぼくは言った。なぜだかはわからないが、彼に懸けてみようと思っていた。それは運命という言葉のせいかもしれない。
「わかった」と彼がうなずいた。「大丈夫。心配しなくていいさ。今度こそ、きっとうまくいく」
力強くそう言って、彼は両腕を広げた。それだけでぼくの部屋のなかが劇場に変わったと錯覚させるほどの緊張感が生まれていた。
彼が歌いはじめる。一曲目と同じで、最初は静かなテンポ。だが今回のはさきほどと違い、静かさのなかに暗さがあった。それは真冬の森を連想させる歌だった。雪が降り続け、動物たちは冬眠をし、植物は枯れ果て雪に埋もれている。雪に包まれた静かな森のなかには生物の息吹が感じられず、ただただ冷たい世界がどこまでも続いていく。そして冷えた森が暗んでいく。すべてのものが暗く沈んでいく。それはとても哀しい響きだった。ただ暗く、ただ冷たく、なにもかもが森のなかで息絶えていく。そんな世界が広がっていく。だがそんな世界に、森に、一条の光が差し込んできた。それは生命を生き溢れさせる太陽の光だった。
彼が大きく口をひらき曲のテンポを上げる。さんさんとした陽光が森に降り注ぎ、森から暗さが消え失せて、積もっていた雪がとけていく。植物がとけだした雪のなかからその顔をのぞかせて、眠っていた動物たちが眼を覚ましていく。森のなかに生命の息吹が戻ってくる。植物が花を咲かせ、動物たちが活動をはじめ、木々が実をみのらせる。森のなかの雪が完全にとけた。そしてうるわしい春が訪れる。動物たちが歌いはじめ、花々も踊りはじめる。森から生命の響きが、その息吹が、その声が、その歌声が響き渡る。それはとてもとても素敵な歌だった。
彼が両腕を大きく振りながら、生命に溢れた森の歌をうたい続ける。彼が両腕をふるたびに彼の顔から飛び散った汗がきらきらと光っていた。ぼくはそれを黙ってみていた。歌の世界のなかに完全に惹きこまれていたからだ。それこそ呼吸をするのも忘れるくらいに聞き惚れていた。そのときふと思った。なぜ彼はここまでしてうたうのだろうか。なんの見返りも求めずに、なにを要求するわけでもなく、ただぼくのためだけに、ぼくの感情を取り戻すためだけに精一杯うたうのだろうか。それが彼の仕事だからだろうか。それとも運命だからだろうか。運命。たとえそうだとしても、そのためだけにここまで一生懸命になれるだろうか。すくなくともぼくは無理だ。いや、ぼくだけではなく、誰でもそうだろう。他人のために、ただそれだけのためだけに一生懸命になれる。たとえそれが仕事だろうが運命だろうが、それだけのために。
そう思うと、歌がアップテンポになっていくのと同じように、ぼくの心のなかに熱いなにかが溢れてきた。最初はそれに戸惑った。それがなんなのかわからずに戸惑った。だがすぐに理解した。それは感情なのだ。小さいころに奪われ、それからずっとなかったもの。それがいま、いまこの彼の歌を聞いて、ぼくのなかに取り戻りつつある。それはささやかだが確かに、ぼくのなかに溢れてくる。感動することも、笑うことも、悲しむことも、なにもかも失くしていたものが、春になり、花々が咲き乱れるように心のなかに溢れてくる。それは確かに、感情の種から芽が出て、花を咲かせる瞬間だった。
そして、生命に溢れた森の歌が終わる。静寂が部屋に戻った。だが素晴らしい余韻は心のなかに残っている。ぼくははじめて、感情を奪われてからはじめて、素晴らしいと思えるものに称賛の意味を込めて拍手をおくった。
「いい歌だったよ」とぼくは素直な感想を口にした。
「それはどうもありがとう」と彼が微笑んだ。顔にかいている汗がきらきらと光り、その表情は輝いているように見える。「ところで」と手の甲で汗をふきながら聞いてきた。「きみの感情は戻ったかな?」
「はい」とぼくはうなずいた。
「そうか。それはよかった」
そう言って彼は、うん、うん、とひとりでうなずいて、右の方向に身体を向けた。ノブを回してドアをあけるような動作をする。そしてそのままの姿勢で顔だけをこちらに向けてきた。
「それでは、これでわたしの仕事は終わりだ」と告げてくる。
「ありがとうございました」とぼくは頭を下げた。それは本心からの言葉、行動だった。
「いや、いいよ。頭を上げてくれ」と彼は言った。「そして、ありがとうと思うのなら、笑ってくれないか。わたしは感情を取り戻したあとの、その人間の心からの笑顔が好きなんだ。それを見るだけで、わたしは満足なんだ。だから笑ってくれ」
ぼくはその要求に答えようとした。だが長年、偽りの笑顔をうかべていた顔は、なかなかうまく笑えなかった。
彼がおかしそうに微笑んだ。それは本当に本心からの笑顔だった。ぼくもいつか、こんなふうに笑うことができるのだろうか。
「まだ、取り戻した感情に戸惑っているみたいだね」と彼は言った。「だが心配しなくてもいいよ。すぐにもとに戻る。すぐに感情があったころと同じように笑うことができる」そう言って彼は右足を踏み出した。
瞬間、その右足が消えた。靴の先から膝から大腿から足の付け根まで、一瞬にして消えたのだ。ぼくは驚いて、不思議なことに驚いた表情は自然とうかべることができたのだが、その光景を眼を見開いて凝視していた。
彼がさらに歩を進める。そのたびに左手、左足、右手、身体と消えていく。あとに残ったのは彼の首から上だけだった。それはじつに不思議な光景だった。空中に小人の生首が浮いている。ぼくは驚いて声が出てこなかった。そしてあることを思い出した。それは彼が言った言葉。時と時とをつなぐゲートを通って、違う世界、違う時間、そして違う時代に移動することさ。そう、ゲートだ。ぼくには見えなかったが、彼には見えていた虹色のグラデーションに光るゲート。それはたしか彼のすぐそばにあった。そう考えればいまのこの状況に説明がつく。彼はゲートのなかに首から上だけをのこして入っているのだ。そしてそれは、彼が違う時空に行こうとしている、旅立とうとしている瞬間ということだった。
「さようなら」と彼が言った。「また会うときには、君のこころからの笑顔を見せてくれ」
「はい」とぼくはうなずいた。それからまた笑顔をつくった。それはぎこちなかったが、それでもこころからの笑顔になった。
彼が微笑み、そして微笑みを残したままその顔が消えていく。完全にゲートのなかに入ったのだ。ぼくはその場所に手を伸ばしてみた。だが当然ながらそこにはなにもなく、ぼくの手も消えなかった。彼は旅立っていったのだ。違う世界、違う時間、そして違う時代に……。
それから感情が戻ったぼくは、日々の生活のなかですぐに元通りに、つまり感情があったころと同じようにうまく笑えるようになった。それからいくばくかの時が過ぎていって、ぼくは職場で事務の仕事をしている女性と結婚し、子供ができて、パパになった。その子は感受性が豊かで、よく笑い、よく泣き、そしてよく喜んでいる。彼女はいつでも穏やかに微笑んでいる。ぼくもこころからの笑顔でわらっている。そんな幸せな人生をおくっている。
だがそんななかで、ふと思うときがある。あの小悪魔はいまなにをしているのだろうか。あの小人はいまどこにいるのか。そんなことを思うときがある。小悪魔はいまも子供たちから感情を奪い、小人はその素晴らしい歌で感情を取り戻しているのだろうか。ぼくはあれから小悪魔とも小人とも会ったことがない。夏になっても会うことがない。もしかしたらあれはすべて夢だったのかもしれないと思うときがある。だがそれでいいのかもしれない。たとえあれが夢であったとしても、あのとき小悪魔に感情を奪われたときの感覚と感触、そしてそのあとの小人の吟遊詩人による素晴らしい歌はこころのなかにのこっているのだから。
冬が過ぎ春が来て、夏になり秋が訪れて。季節がめぐるたびにさまざまなことが起きて、それらすべてに一喜一憂をして、そうやってぼくは生きている。太陽の光を浴びて、爽やかな風に吹かれて、恵みの雨に降られて、それでもぼくのこころのなかにある花は咲いている。彼がいっていた感情の種から出た芽は、大きく花をひらき、あざやかな色をつけ、こころのなかを彩っている。あの日、ささやかだけれど確かにひらいた花は、いまはもう満開に咲き乱れ、ぼくのこころを豊かに華やかに彩っている。それはとてもとても素晴らしいことだ。ぼくはこころのそこからそう思って生きている。とてもとても素晴らしい花がつねに満開であることを感じながら。
だからぼくはきょうも、こころからの笑顔でわらって生きている。