変わらない世界にただいま
Taku


 1.灰色の空


 僕には空の色が灰色に見える。
 それは空が灰色だからというわけではなく、僕の眼には色彩が映らないからだ。なぜ色彩が映らないかはわからない。もしかしたらそういう病気なのかもしれないし、先天性のものかもしれない。眼球のどこかに欠陥があるのかもしれないし、脳の色彩をつかさどる器官に異常があるのかもしれない。なぜだかはわからない。ただ僕は子供のころから、おそらく生まれたときからずっと色彩のない世界、つまりモノクロの世界で生きているのだ。


 その日はいつもどおり街の中を歩いていた。そういうと毎日のように街の中を歩いているように思われるかもしれないが、実際その通りなのだ。僕はいま探偵をしている。それは探偵の真似事や探偵の手伝いではなく、本物の探偵としてそれを職業としているのだ。実際に警察から発行されている探偵の許可証も持っている。それは一部の探偵からは警察の犬に成り下がったとして軽蔑される証なのだが、一般の人からしてみればやはり安心できるものだろう。許可証を貰ってそれを広告なんかで宣伝してもらうと、許可証を持っていないときとくらべて二倍は客が来るようになった。もともと探偵という職業はその数にくらべて成功するのはごく一部のみなのである。それならより高く成功する方法を取ったほうがいい。許可証を認めない探偵にくらべて、僕は成功している、より儲かっている探偵なのだ。
 だが僕は助手や所員を雇うということをしていなかった。もともとひとりでいるのが好きなほうだし、あまり世間とかかわりを持ちたくないのだ。それは僕の性格のせいかもしれないし、色彩が映らないせいかもしれない。良くも悪くも人と違うなにかを持っていると、他人とのかかわりを持ちたくなくなるものなのだ。そのせいで僕は依頼人からの仕事をいつもひとりでこなしていた。
 そしてその日も、とある女性を尾行していた。その女性は二十歳くらいの大学生だった。髪を長く、腰のあたりまで伸ばしている。着ている服はセーターにスカートにマフラー。それにニット帽を目深くかぶり耳を隠している。
 その女性はまず古本屋の前でヘミングウェイの文庫本を立ち読みし、それからCDショップで洋楽のアルバムを購入した。僕もカモフラージュのためにクラシックのCDを買った。ベートーベンの運命。知っている曲はそれだけしかなかった。彼女の尾行を続ける。
 CDショップから出たあと、彼女はそのままレストランに入った。ちょうどお昼どきである。僕も同じ店に入り、彼女のうしろの席に座った。彼女からは僕の姿が見えず、僕からは彼女の背中が見える場所だった。ウエイトレスにブラック・コーヒーを注文する。彼女はオムライスとウーロン茶を頼んでいた。運ばれてきたウーロン茶をストローで一口ほど飲んでから、オムライスを食べ始めた。僕も運ばれてきたブラック・コーヒーに口をつけた。香りは悪く、味はもっと悪かった。よくこんなものをメニューに載せれるなというほどひどいものだった。僕はコーヒーを飲むのをやめ、カップを受け皿に置いて、彼女を尾行することになったいきさつを思い出していた。


 あれは昨日のことである。午前十時半ほどのころ。いままでしていた仕事がちょうどひと段落着いて、事務所で休憩していたとき。ひとりの女性がやってきたのだ。
 年齢は三十歳なかばから後半ほど。長い髪を後頭部のところでひとつに纏めていて、濃いアイシャドーをしていた。着ている服はシャツに足首までの長いスカート。それにコートにマフラー。胸元にはロザリオを下げていて、右の耳に輪のピアス、左の薬指に指輪をしている。一見すればどこかの金持ちの貴婦人のような女性だった。
 女性が「いいかしら?」と問い掛けてきた。僕は「どうぞ」と答えて、応接用のソファに座るようにすすめた。女性がコートとマフラーを脱いでソファに座る。コートとマフラーは器用にまるめられてそのとなりに置かれていた。僕もテーブルをはさんで女性と向かい合うようにして一人用のソファに座る。それから「ご用件は?」と聞いた。
「ある女性の身辺調査をしてもらいたいのだけど」と女性が答える。それからシャツの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。「この女性なんだけれど」
 僕は写真を受け取りそれに眼を落とした。ちょうどどこかの学校の門らしきところから出て来るところを撮ったものだった。年齢はおそらく二十歳前後。髪を長く伸ばしていてニット帽を目深くかぶっている。着ている服はセーターにマフラー。上半身までしか写っていなかったので下になにをはいているのかはわからなかった。だが二十歳ほどの年齢と門らしき場所から私服で出ていることから、彼女は大学生だろうと推測できた。
「彼女の」と女性が言葉を続ける。「名前はわからないわ。正確な年齢も、家族構成も。ただ、K大学の生徒ということはわかっている」
「なぜそれだけ?」と僕は聞いた。
「彼女がK大学から出てくるところを見たからよ。それはそのときの写真」
 僕は写真の門のところを見た。たしかにこれはK大学の正門に似ている。そしてK大学はこの近くにある、この街の唯一の大学だった。
「ひとつだけいいですか?」と僕は聞いた。
「なに?」
「なぜこの女性の身辺調査を?」
 僕がそう聞くと、女性は胸ポケットからタバコの箱とマッチの箱を取り出した。タバコの箱から一本を引き抜いて口にくわえ、マッチで火をつける。それから火のついたマッチを右手でふって火を消した。いまどきタバコに火をつけるのにマッチを使うのはめずらしいな、と僕は思った。それからテーブルに置いてある灰皿を女性の近くに移動させた。
 女性が紫煙を吐いて、火のついたままのタバコを灰皿のふちにのせる。ゆらゆらとのぼっていった紫煙が天井で広がり霧散していく。
 それから「理由はいいたくないわ」と答えた。「それとも、理由をいわないと引き受けてくれないのかしら?」
「いえ、結構ですよ」と僕は言った。「理由を知りたかったのはただの興味心からですから。代金さえちゃんと支払っていただければ引き受けます」
「そう」と彼女は言った。それから支払いのことですこし話した。
 理由を深く追求しなかったのは、だいたい想像がついたからである。女性が、知らない女性の身辺調査を頼んでくるときはおおよそ、夫か彼氏にべつの女がいる、ということである。確信はないけどおそらくそうだろうから調べてほしい、というのが大抵の依頼で、おそらく彼女もそれに近いものだろうと僕は勝手に想像していた。
 支払いのことを話し終えたとき、彼女もタバコの一本を吸い終わっていた。僕は写真を手に取り「すこしのあいだ借りてもいいですか?」と聞いた。
「いいわ」と女性が答える。それから僕のネクタイを指差した。きょうの僕の服装はいつもと同じスーツにシャツ、それにネクタイだった。「そのネクタイ」と彼女が言った。「スーツに合ってないわね」
「そうですか?」
「真っ黒のスーツに黄色のネクタイ。合ってないと思わない?」
 僕は写真をテーブルに置き、自分のネクタイに眼を向けた。それから「このネクタイ、黄色だったのか」と言った。
「黄色、だったのか?」と女性が言葉を反芻する。「あなた、そのネクタイの色がわからなかったの?」
「ええ」と僕はうなずいた。それから「というか」と言った。「僕は色がわからないんですよ。色彩が映らないというか、すべてモノクロに見えるんです」
「ふうん」と女性が興味深そうな視線をおくってきた。「すべてがモノクロに見える。ということはわたしの顔の色が黄色で髪の色が紫でも、あなたにはモノクロに見えているのかしら」
「ええ、そうです」と僕はうなずいた。「あなたの顔の色が黄色で髪の色が紫だとしても、僕にはあなたの顔の色は白に近い薄い灰色に見えて、髪は黒に近い濃い灰色に見えます」
「そう」と言って女性が立ち上がった。となりに置いたコートを羽織って、マフラーを首に巻きつける。「それじゃあ、身辺調査の件は頼んだわ。支払いは話したとおりでね」
「わかりました」と僕はうなずいた。
 女性が事務所から出ていく。だが玄関のドアをあけたとき、顔だけをこちらに向けてきた。
「もうひとつだけ聞きたいことがあるんだけど」と問い掛けてくる。
「なんですか?」と僕は聞いた。
「あなたには空は、どんなふうに見えているのかしら?」
「灰色です」と僕は答えた。
「そう」と女性は言った。それから片眼を閉じて微笑んでみせた。それは初めて見る彼女の笑みの表情だった。「あなたにはモノクロに見えたかもしれないけど、わたしの顔の色は肌色で、髪の色は黒よ。アイシャドーは紫だけどね。それじゃあ」
 そう言って女性はあけたドアから出て行った。ドアが閉まる。僕はテーブルの上に置いた灰皿に揉み消されてあるタバコに眼をやった。女性がくわえていた部分に彼女の口紅の色がついていた。それの正しい色はわからなかったが、すべてがモノクロに見える僕の眼にはその色は黒に見えた。ソファから立ち上がり窓のところまで移動する。窓をあけて首を出して空を見上げる。灰色の空に灰色の雲が流れ、白の太陽が輝き、黒の鳥の群れがVの陣形を形成して飛び立っていた。


 彼女がオムライスを食べ終え、ウーロン茶を飲み終えるころあいを見計らって、僕はまずいブラック・コーヒーをすべて飲み干した。彼女よりさきに勘定をすましてレストランを出る。そしてレストランの入り口付近で携帯電話を耳に当てた。これもカモフラージュである。彼女がレストランから出てくる。僕は携帯電話をスーツの裏ポケットにしまい、彼女から離れたり近付いたりのランダムな距離を取って尾行を再開した。巧い尾行の仕方とは、対象の後ろをついていくだけではなく、ときに前へ出たり、ときに接近したりと距離を変えるところにある。つねに一定の距離を取って尾行していては、かならずどこかで対象にばれるからだ。そのてんで距離を変えて尾行すれば、対象から尾行されているという意識を持たれることがない。人間の第六感は規則正しいものには敏感だが、ランダムのものには反応しにくいのだ。それがたとえほんのささいな変化でも。
 彼女のあとをつける。レストランから出たあとはすこし歩いてスーパーマーケットの中に入っていった。僕もすこし遅れて入る。彼女は買い物カゴを右手に持って野菜をその中に入れていた。ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、トマト……。野菜だけを見れば今夜のメニューはカレーかシチューだと推測できる。そのあと彼女は紙パックの牛乳とカレールーもカゴの中に入れた。レジで精算して店をでる。僕も一緒に出た。ここではなにも買わなかった。
 尾行を続ける。いままでの行動で彼女にあやしいところはなにひとつもない。男の影も見えてこない。依頼人の女性はなぜこの彼女の身辺調査を頼んできたのか。僕は尾行をしながらそれを考えた。最初は、彼女があの女性の夫か彼氏の愛人だと思っていたが、どうも違うらしい。なにがどう違うかは説明できないが、なんというか、彼女には僕と同じ雰囲気を感じるのである。つまり、身体になんらかの欠陥をかかえていて、かぎりなく排他的な生活をしている、そんな雰囲気が。
 彼女が野菜やカレールーや牛乳が入ったスーパーのレジ袋を右手に持って、古い二階建てのアパートの鉄階段をのぼる。手すりのついた廊下を歩き一番端の部屋のドアの前までくる。それからドアノブにスカートのポケットから取り出した鍵を差し込み、ひねり、錠をあけ、そしてノブを回してドアをあけた。中に入る。どうやらあの部屋が彼女の住処らしい。古びたアパートの二階の端の部屋。僕はそう記憶した。
 それから一週間ほど、彼女の身辺調査を続けた。
 だが取り上げるほどめずらしい行動は見当たらなかった。特定の男の影も見えてこない。友達の数は多いとはいいがたいがそれはたいした問題ではないだろう。学校にも真面目に通っている。つまり彼女は普通の、ごくごく普通のなにも問題のない平凡な大学生なのだ。すくなくとも僕が調査したかぎりでは。


 という調査を、僕は依頼人の女性に報告した。するとその女性は調査内容に不満をいだいたわけでもなく、かといって満足したわけでもなく、つまり差し当たりのない顔と声で「そう」とだけ言った。それから「調査のほう、ありがとう」と礼を言って調査料を支払って事務所から出ていった。僕はテーブルに置かれた調査料を財布の中におさめ、窓のところまで移動した。今回の調査はたいしたものではなかった。さして難しいわけではなく、だからといってなにかを掴んだわけでも見付けたわけでもない。調査に成功も失敗もないが今回のはなんとなく腑に落ちないところがある。それは表面しか見なく、その中身を見ることができなかったせいかもしれない。彼女は普通の大学生だが、なにかを隠して生きているように思える。それは探偵としての僕の第六感だった。
 窓をあける。首を出して空を見上げる。空は相変わらずの灰色で、はるか遠くに眼をやっても、どこまでもどこまでも灰色の空が続いていた。



 2.翼の折れた天使


 気が付くと彼女は森の中にいた。なぜ森の中にいるのかはわからない。すくなくともこんな場所に入った覚えはないし、この森のことも知らない。さらに彼女はいま眼を覚ましたばかりで、眠る前後の記憶がひどく曖昧な状態だった。
 記憶を辿る。だがなぜか断片的な欠片でしか思い出せない。思い出せるところがあるのだが、ある一定のところまでいくと記憶が途切れ、そしてそのあとのことから思い出すことができる。つまり記憶の一部が抜け落ちているのだ。まるでピースのかけたパズルみたいだ。おそらくそのピースを見つけないかぎり、自分がなぜこの場所にいるのかはわからないのだろう。彼女はそう考えて背中からもたれていた木から離れて立ち上がった。そのとき、はらりと一枚の羽根が落ちてきた。白鳥のような純白の羽根だ。なぜこんなものが落ちてくるのか。彼女は羽根を手に取り、それをすこしのあいだ見つめて、そして欠けたピースのひとつを思い出した。
 そうだ。これはわたしの羽根なんだ。
 欠けた記憶の一部が戻ってくる。そう、自分の背中には雄大な白い翼が生えているのだ。この羽根はそこから落ちたものだ。
 そう、わたしは天使なんだ。
 彼女は自分の存在を思い出した。だがそれからの記憶はいまだに思い出さない。いくら思い出そうとしてもメリーゴーランドのように同じところをぐるぐるとしかまわらず、思い出した記憶しか思い浮かんでこない。しばらくその場で突っ立って思い出そうとしたが、彼女は結局、思い出すのをやめた。いくら脳の奥から記憶を引き出そうとしても出てこないのなら、思い出そうとするだけ無駄なのだろう。忘れた記憶はいつか戻ってくる。それならここで思い出そうとするよりも、まずはこの森から出ることのほうが先決だ。
 彼女はそう考えて歩き始めた。この森のどこかにある出口を目指して。


 歩いてみてわかったことがいくつかある。
 まずこの森の中は暗いということだ。それは一寸先も見えないほどの暗闇ではなく、かといってうっすらとしたものでもない。まるで太陽が沈みかけた夕暮れどきのような曖昧な暗さなのである。しかもその暗さはつねにそのままで、明るくなるわけではなく、さらに暗くなるわけでもなく、つねに一定の暗さのままなのだ。なぜここはこうなのかと彼女は空を見上げて、そして納得した。大きく伸びた枝や木々、さらには無数にかさなる葉っぱによって上空はおおわれていたが、それでもそれらのあいだから空は見える。そしてその空の色が灰色だったのである。
 あるはずの太陽がそこにはなく、雲に隠れているわけでもない。太陽そのものが存在していなく、空はただ灰色なのだ。どこまでも灰色で、はるか遠くまで同じ灰色が広がっている。こんな空ならば陽の光が差し込んでくるなんてことは絶対になく、つねに暗いままであるのは当然なのだ。彼女は森の中が暗い理由をそう解釈して納得した。
 そして、さらにこの森の中には風が吹いてこなかった。風というものが吹くのは自然現象のひとつなので吹くときもあれば吹かないときもあるのは当然なのだけれど、それでもこの森の中はなにかがおかしい。木々が揺れて葉っぱが舞い落ちるということもないのだ。この森の中には風が吹いてこない。自然現象というものがこの森にはないように感じられる。それは太陽がないこととなにか関係しているのか。
 さらにこの森の中で感じたのはある匂いだった。それは雨の日の濡れた葉っぱのような匂いがこの森の中には漂っている。この森には雨が降らず、葉っぱも濡れていないのになぜそんな匂いがするのか。それは植物に囲まれているせいだからなのか、それともこれがこの森の匂いなのか。
 などとこの森には普通の森、ごく一般的な森とは違うところがたくさんある。それらをひとつひとつ挙げていけばきりがないのでおおまかなところだけ挙げていったが、とりあえずわかったことはこの森はおかしいということである。


 彼女は歩き疲れて、ひとつの木に背中をもたれ掛けた。
 ひたいにかいた汗を手の甲でぬぐい、ため息を吐く。どれほど歩いても歩いても出口は見つからない。歩き続けてもまるで風景がループしているみたいにずっと同じ場所を行ったり来たりしている感じがする。ふと思いついて背中にはえている翼であの空を、木々や枝や葉を突き抜けて、あの灰色の空まで飛ぼうと試みたが、うまくはいかなかった。翼が折れているのか、もしくはどこか破損しているのか、すくなくともいまここではこの翼は役に立たないということだけはわかった。
 彼女はまたため息をついた。そのときどこか遠くから獣の鳴き声が聞こえてきた。彼女は身体をびくっと一瞬だけ震わせた。それほど大きな声だったのだ。
 狼や野犬の遠吠えのような声。まるで吠えているいるような鳴き声だ。さらにその声がエコーして、こだまと鳴って森の中に響き渡る。彼女は慄いた。吠える獣は凶暴だと聞いたことがある。もしそんな獣がこちに向かって襲ってきたら。そう考えるだけで怖くなる。彼女は木から離れふたたび歩き出した。とりあえずここから離れよう。獣がどこにいるのかわからないが、鳴き声が聞こえてくるということはおそらく近くにいるのだろう。彼女はそう考えていた。歩く。だが五歩目を踏み出したとき、背後から物音が聞こえてきた。かさなった葉っぱを踏む音だ。恐怖を感じて、おそるおそるといった感じで振り返る。そして驚いた。
 そこにいたのは、たしかに獣である。だがそれは想像していた獣とは違っていた。驚いたのはそのためである。そこにいたものは、一匹のウサギだった。いや、それをウサギと定義していいのかどうかわからないが、とりあえずそれはウサギの格好だけはしていた。
 白い毛並みに長い二本の耳。それだけ見ればただのウサギである。だがそれは二本の短い後ろ足で立っていたのだ。まるで人間のように。そして身体が大きかった。体長は自分と同じほどはある。彼女の知っているウサギはもっと小さく、もっとかわいらしいものなはずだ。だが目の前にいるそれは大きくて二本の足で立っていて、そしてかわいくなかった。大きすぎるせいか、それからはかわいさよりも怖さのほうがある。それはいままで見たことのない存在への本能的な恐怖かもしれない。とりあえず彼女は振り返った姿勢のままなにも声を発することができなくなっていた。驚きと恐怖とそれ以外のさまざまな感情のせいで。
 しばらくのあいだふたり、もしくはひとりと一匹のあいだに沈黙が訪れた。そのあいだだけは獣の咆哮も聞こえてこなかった。ややあってからウサギの口がひらく。
 彼、と呼んでいいのかどうか分からないがとりあえず便宜上そう呼ぶしかないだろう、彼は「やあ」と言った。その声は低くひどくこもっていた。
 彼女は答えなかった。また驚かされたからだ。こんな存在がいることじたい驚きなのに、それが喋るなんて。
「迷いの森へようこそ」と彼は言った。
「迷いの、森?」とやっと彼女は声を出した。
 彼がうなずく。「そう、ここは迷いの森。なにもない森」
「なにもない?」
 彼がまたうなずく。「そう。ここにはなにもない。絶望も希望も、苦しみも哀しみも喜びも感動もなにもない。ここはなにもない迷いの森」
「あの、どういうことでしょうか?」
 彼女がそう聞くと、彼はふたつに割れた上唇の両端を上げた。それが笑みだと気付くのに彼女は三秒ほどの時間を要した。
「そういうことさ」と彼は言った。「ここにはなにも、なにひとつとしてなにもないんだ」それから彼女のうしろ、その背中に生えている大きな翼を見た。「天使がここに来るのはめずらしいことだけど、残念だったね」
「なにがです?」と彼女は問い掛けた。「それと、あなたは何者なんですか?」
「ぼくはここの案内人さ」
 案内人。それならここから出る方法を知っているかもしれない。彼女はそれを聞いた。だが彼はなにも答えずに、背を向けて森の奥に消えていこうとした。彼女は慌てて引き止めた。彼が足を止める。彼のシッポは短く丸く、それもウサギと同じものだった。
 彼女はまた聞いた。「ここから出るには、どうしたらいいんでしょうか?」
「ここに出口はない」と彼は背中を向けたまま答えた。「つまり、ここから出る方法はない」
「でも、出口がなければ」
「この森の中に入ることができない?」
「そうです」と彼女はうなずいた。
「みんなそう言うね」と彼は言った。「入り口と出口は表裏一体のもので、入り口があれば出口もある。出口がなければ入り口もない。つまりこの森の中に入ることは不可能だと。自分がこの森の中に入っている以上、どこかに入り口があって、そしてどこかに出口があると」
「違うのですか?」
「ここでは違う」と彼は即答した。「ここに出口はない。ここから出ることはできない。この森に入った以上、ここで朽ち果てていくしかないんだ。それがこの森の中に入った存在の宿命なんだ」
「わたしは自分の意思でここにきたわけではありません」
「断言できるかい?」と彼はやっと振り向いて問い掛けてきた。「わたしは自分の意思でここにきたわけではない、と断言できるかい?」
「それは」と彼女は口籠った。自分には記憶がない。この森の中に自分の意思で入ったかどうかというのは、たしかに断言できるわけではないのだ。
「仮に」と彼が言ってくる。「きみが自分の意思とは無関係でここに入っていたとしても、それとここから出ることとは関係ない。それこそ無関係なのさ。どんな意思であれ、ここに入った以上、ここから出ることなく朽ち果てていくしかないんだ」
「わたしは出口を探します」と彼女は言った。たしかに自分の記憶はないが、それでもこんな森の中で朽ち果てていくなんてのは御免だった。
「勝手にすればいい」と彼は言った。「そしてぼくの言葉の意味を知ればいい。きみが朽ち果てるにはまだ時間がある。そのあいだにさまざきなことをすればいい。出口を探して、なにもなくて、疲れて、そして朽ち果てていくそのときまで。きみにはまだ時間があるのだから、いや、時間はあるのだから」
 そして彼はふたたび背中を向けて森の中に消えていった。彼女はもう引き止めなかった。森の案内人からはなにを聞いても有力な情報が得られるわけではないと判断したからだ。やはり自分の足で歩いて出口を見つけるしかない。
 彼女は歩き出した。森の奥からは獣の咆哮が聞こえ、鳴り響いていた。


 やはり彼の言葉は正しかったのか。歩き疲れて、大きな木に背中をあずけて一休みしながら、彼女はそう思った。
 どれだけ歩いても歩いても出口は見つからない。それらしきものの存在のかけらすらない。ひたいから流れた汗がほほを伝ってあごから落ちていく。もうそれをぬぐうほどの余裕がない。大きく口をひらき、大きく息を吐く。荒い呼吸の音が聞こえる。自分の呼吸の音だ。彼女は木に背中をもたれかけたままその場にしゃがみ込んだ。
 ここにはなにもない、とあの案内人は言った。たしかにその通りだった。どけだけどれほど歩いても森の中の風景は変わらず、大きく成長した木々、絡まり合う枝、幾重にもかさなる葉っぱ、それらがまるでひとつのオブジェのように複雑に融合して眼の前に現われてくる。それらにおおわれてかすかにしか見えない上空の色も相変わらずの灰色だ。つまり、かなり前にこの森の中で眼を覚ましてからいままでの中でこの森はなにひとつとして変わっていないのだ。おそらく彼女がここにくる前からこの森はこうで、これからもこうあり続けるのだろう。
 なにもない迷いの森。
 いまなら彼の言葉のその意味がわかるような気がする、と彼女は思った。たしかにこの森にはなにもなく、なにもいない。どれだけ歩いてもなにも変わらず、出口も見つからない。永遠とも思えるなにも変わらない時間の中で胸中に芽生えてくる感情は絶望である。やはりここから出れないのか。ここで朽ち果てていくしかないのか。出口を見つけると、見つけようとしていたころの決意の思いは疲労という底無し沼のようなものに飲み込まれ、あとに残ったのは硝子のような繊細で脆い弱い心である。無理だ無理だと頭のどこかから弱気の諦めな声が聞こえてきて、それに従おうとする身体がある。そしてその弱りきった心と身体に追い討ちをかけるように聞こえてくるのは獣の咆哮だ。
 咆哮が聞こえてくるのに、その姿は見えない。それが恐怖心を煽り立てる。怖い。そう、怖いのだ。吼える存在がいるのにその姿が見えないというのはひどくおそろしいものだ。いつ現われるか知れない者への緊張感と恐怖が、弱りきった心をさらに削り取っていく。精神力も限界に近く、疲労した身体も重い。歩き疲れた足がもう動いてくれない。木に背中をもたれかけて座り、合わせた両膝を両手で抱え込み、彼女はこうべを垂れて眼を閉じた。そうすればもうなにも見えない。相変わらずの森の風景が眼に入ってくることがない。どうせ出れないのならここでこうして朽ち果てていくのを待ったほうがいい。心はすでに諦めている。あとはこの耳さえ閉じることができれば、あの獣の咆哮を聞こえないですむのに。
 身体をまるめて眼を閉じてしゃがみ込む彼女を包むように、その背中から生えている白い翼がゆっくりと閉じていった。



 3.灰色の空


 身辺調査をした二日後、その対象であった彼女が事務所を訪れてきた。
 長く伸ばした髪に耳まで隠れるように目深くかぶったニット帽。着ている服はセーターにスカート。きょうはあたたかいせいかマフラーはしていなかった。
 彼女は事務所の玄関で「あの、相談があるんですけど」と言ってきた。僕は「相談されても問題を解決できるかどうかはわからないけど、それでもいい?」と聞いた。彼女がうなずく。僕は彼女を事務所に招き入れた。それから応接用のソファに掛けるようにすすめた。彼女が座る。そのソファは三人まで掛けれるもので、彼女はその真ん中に座った。僕もテーブルをはさんで彼女と向かい合うようにして一人用のソファに座る。それから「相談というのは?」と聞いた。
 彼女が押し黙る。両膝の上で絡まった十本の指だけが離れたりくっついたりを繰り返していた。自分から相談があるといいながら、なにもいわない。それは仕方ないことだろうと思う。普通のごく一般的な女子大生からしてみれば探偵なんてのはものめずらしい職業だし、いまいち信用しきれないところもあるのだろう。それにこういうところにくるのも初めてだろうし、緊張しているというのもあるのかもしれない。僕は立ち上がり、壁隅にある本棚のとなりに置いてある冷蔵庫までいき「なにか飲む?」と聞いた。喉を潤すと緊張感が和らいでいき、話しやすくなるのだ。
 すこしの時間を置いたあと彼女は「トマトをください」と答えてきた。僕は冷蔵庫のふたをあけて中を見た。それから顔を彼女に戻して首をふった。
 それから「わるいけどトマトジュースはないんだ」と答えた。
 彼女は「いえ」とかぶりをふったあと「普通の、そのままのトマトでいいんです」と言ってきた。
 僕はトマトをそのまま出していいかどうか悩んだが、彼女がそれを望むならと冷蔵庫からトマトをひとつ取り出し、それを皿に載せて彼女の前に、テーブルの上に置いた。ありがとうございます、と礼をいったあと彼女はそのトマトを手に取り、そのままリンゴを丸齧りするようにしてトマトを食べた。野生的な行為だが彼女のそれはどこか品位を感じさせる丸齧りかただ。僕は自分のソファに座りながら「めずらしい食べかたをするね」と言った。
「よくいわれます」と彼女は食べかけのトマトを皿に置いて答えてきた。「でも、このほうが美味しく感じるんです。普通に食べるよりも自然の豊潤さを感じるというか、うまくは表現できませんけど、とりあえず美味しく感じるんです」
「なるほど」と僕は言った。普通の食べかたがどんなことをさしているのかは不明だが、たしかに丸齧りしたほうがトマト本来の味を堪能することができるだろう。もしかしたら下手に調理するよりもそちらのほうが美味しいのかもしれない。そう思ったが僕は口に出さず、そのかわりにべつのことを言った。「それで、きみがここになにを相談しにきたか、話してくれるかな?」
 そう聞くと彼女はうつむいた。それから「あの」とつぶやいてかぶっていたニット帽を取った。髪にも頭にもとくに変わったところはない。彼女が右手で髪をかきあげて右耳を見せてくる。僕はかすかに口をあけて声を発しそうになった。
 そこにあったのは、閉じられた耳、だったからだ。
 耳たぶや外耳がたたまれており、普通ではありえないようにして閉じられている。それはどこか見えない力によって強制的に閉じられているようにも見える。
「それは左の耳も?」と僕は聞いた。
「はい」とうなずいた彼女がこんどは左の耳を見せてくれる。やはり左耳も閉じられていた。
「それで」と僕は言った。「それが相談しに来たことと、なにか関係が?」
「原因を、調べてほしいんです」と彼女は髪をかきあげるのをやめて言った。
「原因というのは、その耳がそうなった原因ですか?」
「はい」と彼女がうなずく。
 僕はかすかにため息をついた。それから言った。「それは探偵のところに来るよりも、病院に行って調べてもらったほうがいいと思いますが」
「行きました」と彼女が言ってくる。「そしたら、おそらく心理的なものだろうと先生は言いました。精神的なストレスがたまって身体に変調を起こしているんだろうと。でもわたしにはそんな原因は見当たらないし、そもそも心理的なものでこんなことが起こるのでしょうか?」
「さあ」と僕は首をひねった。「僕は医者ではないので、その先生の診断にはなにもいえませんけど。それで相談というのは、つまり、そうなった原因を調べてほしいと、そういうことですか?」
「はい」と彼女はうなずいたあと「というか」と言い直してきた。「こうなった原因を調べてもらえるかどうか、それを相談しに」
「なるほど」と僕は言った。つまり、耳が閉じた現象の原因を調査できるのかどうか、それをたしかめにきたというわけだ。
 彼女が聞いてくる。「あの、そういうことはできるのでしょうか?」
「まあ」と僕は曖昧な口調で言ったあと、聞こえない程度の声で、どうだろうね、とつぶやいた。
 普通であれば、そんな調査の依頼はすぐに断っている。そもそも医者でさえたしかなことがわからない外的な症状をどうやって調べればいいのか、それさえもわからないのである。だが僕には、彼女の両耳が閉じられた現象とおそらく繋がっているであろう人物を知っている。
「その前に、いくつか聞きたいことがあるんだけど」と僕は言った。
「はい、なんですか?」
「君の耳がそうなったのは、いつごろから?」
「えっと、だいたい十日前くらいです」
 そう、と僕はつぶやいた。十日前。あの女性が彼女の身辺調査を依頼してきたのは九日前。やはりなにか関連性があるのだろう。
「もうひとつ」と僕は聞いた。「きみのそれは、両親からの遺伝、というわけではないんだね?」
「はい」と彼女がうなずく。「両親は普通の耳、こういうとおかしい言いかたかもしれませんが、普通の人間の普通の耳をしています。若いときにこういうことが起こったという話も聞いたことがありません」
「それなら、事故かなにかの後遺症という可能性は?」
「ありません。わたしはいままで入院するようなおおきな病気にかかったことがないし、事故にあったこともないので」
「わかりました」と僕は言った。「君の耳がそうなった原因の調査、引き受けましょう」
「え、あの、本当ですか?」と彼女は驚いたような声を出した。じっさい彼女の表情は驚きのものだった。
「ただし」と僕は付け加えた。「医者でも正確なことがわからないことなので、本当の原因を見つけられるかどうか、保証はできませんが、それでもいいのなら」
「あ、はい、それでもいいです。お願いします」
「わかりました。それではいくつか質問をするので素直に答えてください」
「はい」と彼女は顔を引き締めて返事をした。
 僕はいくつかの質問をした。といってもたいして意味のないものだ。それは、最近おかしなことが身の回りに起こらなかったかとか、いままで見えなかったものが見えるようになっていないかとか、どんな夢をみているのかなど、そんなことである。彼女はそんな質問ひとつひとつに真剣に考えて答えてくる。僕はその答えを手帳に書き記していった。たいしたことのないものの中にこそ大切ななにかがあり、そしてそれがすべて解決するキーポイントになることが多いからだ。
 彼女はすべての質問に答え、そして調査代とその支払い方法を確認してから「それじゃあよろしくお願いします」とニット帽を深くかぶって事務所から出て行った。僕はテーブルの上に置かれてある皿に載せられた齧りかけのトマトを片付けるまえに、彼女の身辺調査を依頼してきた女性の名刺を名刺入れから取り出した。そこにはその女性の携帯電話の番号が記されているのだ。僕は自分の携帯電話からその番号に電話を掛けた。電話が繋がると同時に事務所のドアがノックされる。それからドアがひらかれ、電話越しに『こちらからも聞きたいことがあるんだけど』と聞こえてきた。
 ひらかれたドアの前に立っていたのは、携帯電話を耳にあてたその女性だった。


 女性は携帯電話の電源を切ると、僕の許可なしに事務所の中に入ってきて、僕と向かい合うようにして応接用のソファに腰を下ろした。ちょうど彼女が座っていた三人用の真ん中の場所だった。女性がちらりとテーブルの上に置かれてある皿に載った齧りかけのトマトに眼をやった。それからなにか言いたそうな顔をしたがなにもいわず、こちらに顔を向けてきた。女性の服装はこの前と同じでシャツにスカートにコートにマフラー。胸元にはロザリオが光っていて、右耳に輪のピアスをしている。僕は携帯電話をスーツの裏ポケットにおさめ、「僕を見張っていたんですか?」と聞いた。女性が現れるタイミングが良すぎたからだ。彼女が帰ったすぐあとに訊ねてくるなんて、見張っていたとしか考えられない。だが女性はゆっくりと首をふって「それは違うわ」と答えた。
「わたしは、あなたのことは、見張っていないわ」
 あなたのことは。ということは、僕ではなく、彼女のほうを見張っていたということか。
「なぜですか?」と僕は聞いた。「この前も聞きましたが、なぜそんなに彼女のことを調べようとしているんですか?」
「それはね」と女性はそこで言葉を切って、シャツの胸ポケットからタバコの箱とマッチの箱を取り出した。タバコの箱から一本を引き抜いて口にくわえる。マッチで火をつける。僕は女性の近くに灰皿を置いた。女性が煙を吐く。僕はそれからの続きをうながした。だが女性は片眼を閉じて微笑んだだけだった。
「その前に聞きたいんだけど」と煙を吐いて言ってくる。「彼女、なんの目的があって、この事務所に?」
「言えません」と僕は答えた。「依頼人のプライバシーにかかわることですし、守秘義務もありますから」
「依頼人」と女性はつぶやいた。「つまり、彼女はなにかの依頼を頼みにきたわけね。まあ、その内容はだいたい想像がつくけど」
「どういうことですか?」
「その前に聞きたいんだけど」と女性はもう一度さきほどの台詞を言った。こうやってこの女性は相手にさきに話をさせているのかもしれない。「あなた、いまわたしに電話を掛けてきたでしょう。目的はなんなのかしら?」
「あなたに聞きたいことがあるんです」と僕は答えた。
 彼女は煙を吐いて片眼を閉じて微笑んだ。「わたしの質問に答えたら、そちらの質問にも答えるわ」
「それなら永久に無理ですね。僕の質問は彼女のことを調べているあなたの目的ですから」
「なるほど」と女性は言った。「それならわたしのほうから、半分だけ答えてあげる。わたしの目的は、彼女を救おうとしているだけ」
「救う?」
「そう。救う」
「どういうことです?」と僕は聞いた。
 だが女性は答えずに煙を吐いただけだった。つまり、今度はこちらが答えるほうだということだろう。
「彼女がここに来たのは」と僕は言った。「自分の身体に異変が起きたから、それを調べてほしいということでした」
「異変? どんなものかしら」
「耳が閉じられていました」
「耳?」
「はい」と僕はうなずいた。それから自分の右手で自分の右耳を閉じてみせた。まるで彼女の耳のように。「こんなふうに閉じられてました。だから、その原因を調べてほしいと」
「なるほど」と女性は言った。それから半分ほど短くなったタバコを灰皿に揉み消した。「すでに変異が始まっているわけね。このままいくと、崩壊するのも時間の問題だわ」
 どういうことですか、と僕が聞こうと口をひらく前に、すべて話してちょうだい、と女性が言った。
「彼女にたいして、あなたが調べて知っていることをすべて話してちょうだい」
「ちょっと待ってください」と僕は言った。「どういうことですか? 説明してください」
 女性は腕を組んで、左の人差し指でとんとんと自分の右の二の腕を叩いた。まるで急かしているかのように。「簡単に説明すると、彼女の身体に変異が起きているの。耳が閉じているという変異がね。いまはその程度だけど、それが進行すると、やがて肉体の崩壊、つまり死に陥るわ」
「それはなにかの病気なんですか?」
「くわしく説明すると長くなる」と女性は言ったあと、左の人差し指を立てた。「でもひとつだけいえることは、大変な事態が彼女の中で起きているわけ。それは身体の中というわけではなく、精神や心といったところでね」
 僕は黙っていた。彼女が病院に行ったとき、診察をした医師が精神的ストレスのせいだと診断をくだした、と彼女は言った。だがその診断と、いまこの女性が口にしている精神や心の問題はどこかべつのところにあるように思える。それは彼女の中で、想像できないほどのなにかが異変を起こしている、精神的ストレスではないもっとべつのなにかがなにかをなにかしているということのように感じる。
 僕は「その原因をあなたに聞きたくて、さきほど連絡をしようとしたんです」と言った。「あなたなら、その原因を知っているのでは、と思ったので」
「原因はわからない。でもそうなっている事態を解決することはできる」と女性は二本目のタバコをくわえた。火をつけずに言葉を続けてくる。「つまり、彼女の中でどんな異変が起こっているのかはわからないけど、その原因さえわかれば、すべてを解決することができる、彼女の異変を正常に戻すことができるわ」
「その原因を、僕は知りたかったんですけどね」
「わたしもそう。だからここに来たの」
「どういうことです?」
「あなたは彼女からの依頼を受けた」と女性はタバコにマッチで火をつけた。「そのとき、いろいろ聞いたはずよ。ちかごろ、身のまわりでおかしなことがなかったかどうか、などをね」
 僕はうなずいた。「たしかにそれは聞きました」
「そのことを教えてちょうだい」
「そこに答えがあると?」
「おそらくは」
 僕は質問にたいする彼女の答えを書き記した手帳を女性に渡した。女性が火をつけたばかりのタバコを灰皿に揉み消し、手帳を受け取り、その中身を見る。灰皿には長さの違うタバコが二本、揉み消されていて、そのくわえていた部分に口紅の色がついている。その正確な色は色彩のない僕にはやはり前と同じく黒に見えた。
 手帳を読み終えた女性が立ち上がる。僕は、わかったんですか、と聞いた。だが女性はその質問には答えずに、手帳をテーブルの上に置いて、そのかわりに齧りかけのトマトを手に取った。僕のほうに顔を向けてくる。
「あなたにはこのトマトが、どんな色に見えるのかしら?」
「黒色ですが」と僕は答えた。
「そう。色彩がない人には赤いトマトが黒に見えるのね」と女性はうなずいたあと、トマトを皿に戻して「わかったわ」と言った。「彼女の原因は、これよ」
 そう言って手帳に書き記しているある部分を指差した。それは最近、彼女が見ている夢のことだった。深い森の中に迷い込んだ天使の夢。それがなにか関係があるのだろうか。僕はそれを聞いた。
「すべて終わってから話すわ」と女性は答えた。「とりあえずわたしは、すぐに原因を解決しにいきたいと思ってる」
「それには、僕はついていけないんですね?」
「ええ」と女性はうなずいた。
 わかりました、と僕は言った。「そのかわり、すべて終わったらかならず、そのすべてを話してください」
「わかってるわ」と女性はうなずいて、片眼を閉じた微笑みを残したまま、事務所から出て行った。僕はソファに座ったまま齧りかけのトマトを手に取り、それをさまざまな角度から見てから、皿に戻した。齧りかけのトマトは見る視点によって、齧りかけのトマトのように見え、齧られていないトマトのようにも見える。それと同じようにひとりの人間も外側と内側から見ればなにかが対照的に違うのかもしれない、と僕は思った。僕が見える空はどんなふうに見ても相変わらずの灰色なのに。



 4.翼の折れた天使


 森の中には獣の咆哮がこだまし続けていた。
 彼女は木に背中をあずけながら、両膝を両腕で抱えるようにして座り込んでいる。白い翼がそんな彼女を包むようにして閉じられている。あれからどれほどの時間が過ぎたのだろうか。それはわからない。なにもわからない。彼女は顔を伏せて眼を閉じて、なにも見えないようにしているからだ。
 眼を閉じると当然だがすべてが漆黒に見える。なにもない底すら見えない暗闇の中で唯一わかるのは、なにもないということだ。ここから出れないと思うと、そう諦めると、なにも思えなくなる。絶望も感じず、希望も持てなく、ただ死に向かっていく自分の身体。それはゆっくりだが確実に迫っている。まるでじわじわと蝕むようにほんの少しずつだが間違いなく死が身体を侵食していっている。身体が朽ち果てていこうとしているのだ。だが、それでもなにも思えない。いやむしろ、そのときがくるのを待ち望んでいる自分さえ、いる。
 彼女は眼を閉じて、さらに意識を深層に持っていこうとした。もっと深くもっと深く、なにも考えられないほど深くにいって、そしてそのまま意識が途絶えて、気が付くまえに身体が朽ち果ててくれれば、死ねる。
 死は滅びだ。そして滅びは消滅を意味する。破壊されても再生はできる。だが消滅すればなにもなくなる。この森から出ること、いや正確にいれば、この森の中のことをふくめたすべてのことをなにも感じなくなるためには、もう死ぬしかない。消滅してなにも無くなればなにも感じない。自分という存在さえ、自我さえ、なくなる。彼女はそれでもいいと思っていた。それほどまでにこの森の中から追い詰められていて、絶望を通り越したあとにある空虚にまで辿りついていた。
 空虚。そう、いまの自分の心はからっぽだ。なにもない。虚しいまでにすべての感情がなく、いや、感受性がなく、なにも感じず、なにも思えない。でもそれでいい。彼女は自嘲気味にそう思った。これから朽ち果てるだけの人間の心は空虚でいいのだ。なにもないからっぽだからこそ、なんの悔いもなく、なんの後悔もなく、ただ死を、これから訪れる死を普通に、それこそ空気を吸うのと同じ感覚で死を受け入れれるのだから。そう、眼を閉じて深い眠りに入り、そしてそのまま永遠に眠り続けるかのように。
 そんな、彼女の意識が深い深いところに沈んでいこうとしたとき、不意に獣の咆哮が止んだ。それからかさなった葉っぱを踏む音がすぐ近くから聞こえてくる。ゆっくりと眼をひらいて伏せていた顔を上げた。その瞳の中にはなんの色もなく、ただ曇ったガラス玉のようになにも映していない。だがその中にかすかな驚きの色が浮かび上がってきた。あの案内人のウサギだと思っていた目の前にいる存在は、まったくべつの人物だったからである。
 その人物は、女性だった。年齢は三十歳後半くらいだろうか。長く伸ばした黒い髪を後頭部のところでひとつに纏めていて、紫のアイシャドーと深紅の口紅を塗っている。着ている服は白のシャツに黒いスカート。さらに黒いコートに白いマフラー。白と黒という対極の色がその女性の服の色のすべてだった。その中で胸元にロザリオが輝き、右耳の輪のピアスが光っている。
 女性は彼女のほうを見て、座っている彼女を立っている女性が見下すような格好になったが、片眼を閉じて微笑んだ。それから「やっと見つけた」と言った。
 彼女も声を出そうとしたがしばらく喋っていなかったせいでひらいた口からはうまく声が出てこなかった。それでも掠れたようなか細い声で、あなた、は、だれ、ですか、と問うた。だがその声は女性には届かなかったらしい。女性はなにかを問い掛けるような表情をしてから、こちらに近付いてきてしゃがみ込み、同じ目線のままで「なに?」と聞き返してきた。彼女はもう一度、同じことを聞いた。あなたはだれ、ですか?
 今度は声が届いたらしい。女性は片眼を閉じて微笑んだあと、立ち上がり「そうね」と言った。それからシャツの胸ポケットからタバコの箱とマッチの箱を取り出して、タバコの箱から一本を引き抜いて口にくわえた。マッチで火をつける。火のついたマッチを手首のスナップをきかせてふって火を消し、地面に落とした。ふたつの箱を胸ポケットに戻して、右手の人差し指と中指ではさんだタバコを口から離し煙を吐く。紫煙が広がりながら灰色の空に消えていった。
「わたしはね」と女性が言った。「あなたにふたつの道を提示しに来たの」
「ふたつの、みち?」
「そう」と女性がうなずく。それから「立てるかしら?」と聞いてきた。
 彼女が立ち上がろうとする。だが足がもつれて立つ途中で尻餅をついてしまった。ずっと座っていたせいで筋肉が硬直していて、さらに精神的にも肉体的にも疲労の限界が来ていてうまく身体を動かせなくなっていた。
「大丈夫かしら?」と女性が聞いてくる。
 はい、と彼女は大丈夫ではないにもかかわらずうなずいた。「それで、あの、ふたつの道とは?」
「ひとつは、ここから出たいかどうか」と女性は言った。「自分の意思ではないにせよ、あなたがここにいるおかげでひとりの女性のセカイがバランスを崩し始めているわ。このままいくとその女性のセカイはいずれ滅んでしまう。つまり、その彼女が死んでしまうの。それを回避するには、あなたがここから出て、もとのセカイに戻るしかない」
 彼女は黙っていた。女性の言葉をゆっくりと頭の中で反芻していたからだ。それから「ここからは出れません」と言った。「ここには出口がありませんから」
「なら、ふたつめね」と女性が言葉を続ける。「それは非常に簡単なもので、すぐに終わることよ」と女性はコートからL字型の黒光りする金属の塊を取り出した。拳銃だった。その銃口を彼女のほうに向けてくる。「わたしがこのトリガーを引けばいい。つまり、あなたを殺すこと。ここであなたが朽ち果てて死ねば、その女性のセカイは永遠にもとに戻らずやがて崩壊するわ。でもここでわたしがあなたを殺せば、それは回避できる。セカイはバランスを崩したままだけど崩壊はせず、やがて修正されていく。時間をかけてゆっくりともとに戻っていくの」
 彼女は向けられた銃口に怯えながらも「あ、あの」と声を出した。
「なに?」
「朽ち果てるのと、あなたに殺されるのとでは、なにが違うんでしょうか?」
「意味が違う」と女性は答えた。「自然死と殺人では死という結果は同じでも本質が異なる。そしてそれはセカイのありかたに大きく影響を及ぼすわ。あなたがここで朽ち果てても彼女のセカイの崩壊は止められない。自然死というのはゆっくりと流れていく歴史の中で起こりうる当然の結果だからね。つまり、もうすでに崩壊に向かっているセカイにとってあなたの自然死はそれを止める手段にはならないの。セカイの崩壊を止めるには第三者の手によって強制的に止めるしかない。言ってる意味、わかるかしら?」
「あなたが、その第三者になると、そういうことですか?」
「そう」と女性がうなずく。「大切なのは、どう死ぬかではなく、だれに殺されるか、それだけ。第三者があなたを殺すということは、そのセカイの歴史の中では起こりえないことだからね。だからわたしがここであなたを殺せば、その世界の歴史はそこでストップして、そこからまた新しい歴史がはじまる。つまり、崩壊しかけたセカイが新しい歴史となって再生するの。それがどんなかたちのものであれ、崩壊だけは免れるわ」
 女性がトリガーに掛けた右指に力を込める。彼女は銃口にさらされながらも動くことができなかった。疲労した身体がいうことを聞かなかったわけではない。死というものに直視されて、恐怖で身体が動かなかったのだ。
 さきほどまで、この森の中で朽ち果ててもかまわないと思っていた。いやむしろ、そのときがはやく来てくれればいいとも思っていた。だがいまこうしてこの女性に拳銃を向けられて、鈍く黒光りする銃口を向けられて、恐怖を感じている。死というものがすぐ近くにいて自分の肩を叩こうとしているのをはっきりと感じられる。女性がほんの少しでも指に力を込めれば、銃口から打ち出された銃弾が自分の頭かもしくは心臓を打ち抜いて、それで、それで、死ぬ。それがはっきりと怖い。彼女は向けられた銃口から眼をそらすことができず、そう思った。身体は金縛りにあったかのように動かない。死という恐怖によって身体が縛られているみたいだ。
「ここから出るか、ここで死ぬか」と女性は言った。「二者択一よ。選ぶのはあなた。どうする?」
「わたし、は」と言葉が途切れてそのあとは沈黙。彼女は心の中で出たいと答えていた。出たい、ここから出たいと。そう強く思うとなぜか心の中にあたたかさが溢れてくるように感じられる。それはまるで雨雲の中から太陽がその顔をのぞかせ、眩しくあたたかな光を差し込ませてくるように、暗かった風景に陽光がひろがり明るさが戻ってくるかのように、まるで長い長い時間を掛けてゆっくりと氷が解けていくかのように。心をおおっていた諦めという強固な氷が解け始めていくのを感じながら、その中から前向きな光が溢れてくるのを心で感じながら、彼女は瞳にいままでとは違う希望の光を宿して言った。「わたしは、ここから、出たいです」
「そう」と女性は片眼を閉じて微笑み「よかった」と言った。彼女に向けていた銃口を空に向ける。「それなら、早くここから出たほうがいいわね」
「でも、ここには出口がありません。いったいどうしたら」
「あるじゃない」
 え?、と彼女は眼をまるくした。
「たしかにここには出口がない。でもあなたはここから出ることができる。あなただけの出口から、ね」と女性は言ってくわえていたタバコを吐き捨てた。
「あの、どういうことでしょうか?」
「空よ」と女性は答えた。「あなたのその背中の翼、なんのためについてるのよ」
「でもこの翼は、使い物になりません。この翼は飛べないんです」
 女性は片眼を閉じてため息をついた。「飛べない、じゃなくて、飛べないと思っている、だけでしょう。その翼にはなにも問題はないわ。問題があるとしたらそれはあなたの心だけ」
「わたしの、こころ?」
「そう。肉体というのは精神によって支配されている。例えば病気になっていない人間でも、自分がなんらかの病気を患っていると思えば、それが現実のものとなって体調に異変をきたしてくる。それと同じことよ。飛べないと思えば飛べないし、飛びたいと思えは飛べる。すべてはあなたしだいなのよ」
 わたし、しだい。彼女はつぶやくように言って、ゆっくりと木にもたれかかりながらよろよろと立ち上がった。空を見上げる。やはりそこは枝や葉や木々によっておおわれていて、そのあいだから見えるのは相変わらずの灰色の空だ。だがすべてを飛び越え、灰色の空を突き抜ければ、もとにいた世界に戻ることができる。自分がなぜここにいるのか、どこからきたのか、どうやってきたのか、なにをしにきたのか、など抜け落ちた記憶の一部はまだ戻っていないものの、それでも、それでもこの森から出られる。
 彼女は木から離れ、意識して翼を広げた。白鳥を思わせるような純白で広大な翼がばさぁと広がる。その衝撃でいくつかの羽根が翼を広げた彼女のまわりをひらひらと舞い落ちた。空を見上げる。飛べるんだと胸中でつぶやく。そう飛べるんだ。この森を飛び越えて、あの灰色の空を突き抜けて、もとの世界へ。
 ぐっと腰を落とし、重心を下げる。前傾姿勢になって両脚の筋肉を撓ませる。あとはおもいきり地面を蹴って、この翼をはばたかせて、あの空へ向かって。
 彼女は飛び上がるようにしてジャンプした。



 5.灰色の空


 次の日。朝も早い時間に彼女はふたたび事務所にやってきていた。だが昨日と違いニット帽をかぶっていなく、長い髪の毛で閉じた耳を隠すこともしていなかった。
「あの」と彼女は事務所の玄関に立ったまま言った。「調査のことなんですけど」
「なに?」と僕は聞いた。
「あれって、キャンセルとかできるんですか?」
「どういうことかな?」
「あの、もとに、もどったので」
 そう言って彼女は髪の毛をかきあげて耳を見せた。それは昨日と違いたしかに両耳とも閉じられていなく、ひらいた普通のごく一般的な耳に戻っていた。
「ですから」と彼女は言った。「頼んでおいてあれですけど、もう、その」
「調査はしなくてもいいと?」
「はい」と彼女は申し訳なくうなずいた。
 それは、調査の依頼をしておいて一日でもういいですというのは失礼にあたる、たとえその問題が解決したとしてもやはりそれは失礼な行為だろう、という彼女の心の内がわかるようなうなずきかただった。
 僕は「いいよ」と答えた。「まだ調査をはじめる前だったから、料金もいらない」
「あの、すいませんでした」と彼女は小さく頭を下げた。
「いいよ」と僕はまた言った。「それより、耳、治ってよかったね」
「あ、はい」と彼女は顔を上げた。そこにはようやく笑みが見て取れた。
「治ったのはいつ?」と僕は聞いた。
「きょうの朝、眼を覚まして鏡を見たら、もう治ってました。不思議ですよね。調査を依頼した次の日に治るなんて」
「まあ、そういうこともあるんじゃないかな」と僕は言った。心の中ではあの女性がなにをしたのかを考えていた。いったいあの女性はどうやって彼女の閉じられた耳を治したのか。
「あの」と彼女が言った。「わたし、これから大学なので、これで」
「ああ、うん。それじゃあ」
「はい。失礼します」と彼女が一礼して、きびすを返して駆けていく。だが三歩ほど言ってところで足を止め、振り返り、こちらに顔を向けてきた。「あの」と言ってくる。
「なに?」
「わたし、耳が治ったのって、探偵さんのおかげなんじゃないかって、そう思ってます」
「なにもしてないよ、僕は」
「たしかにそうかもしれませんけど」と彼女は柔和に微笑んだ。「それでも、探偵さんに相談した次の日に治ってるなんて、たとえ偶然だとしても、やっぱりそう思うんです。探偵さんがなにかしてくれたんじゃないかって」
 そう言って彼女は、それじゃあ今度こそ失礼します、とその微笑みだけを残して走り去っていった。僕はなにも言えなかった。たしかに僕はなにもしていないが、それでもほんのすこしは役に立っていたのかもしれない。探偵さんのおかげ。そういったときの彼女の微笑み。あれは頭を悩ます問題を解決した人間特有の、心の底から見せる本心の笑顔だ。屈託のない爽やかな微笑。僕はそれを聞きたくて、その笑顔を見たくて、この仕事を続けているのかもしれない。空は相変わらずの灰色だが、いつもは憂鬱に見えるその灰色の空がきょうは幾分か優しく見える。
 僕は彼女が去っていった道を眺めながら、その先に続く、どこまでも続く希望に満ちた未来を彼女のあとに感じていた。


 女性が事務所を訪ねてきたのは、昼をいくらか過ぎた時間だった。
 僕は昼食のカップラーメンを食べ終え、ブラック・コーヒーを飲んで休憩をとっていた。女性はノックもせずにいきなりドアをあけると「事情を説明しにきたわよ」と言って、僕の許可なしに事務所の中に勝手に入ってきて、応接用のソファの真ん中に座った。女性の格好はいつもと同じでシャツにスカートにコートにマフラー、胸元にはロザリオが揺れて右耳に輪のピアスをしている。僕は飲んでいた缶のコーヒーを手に持って女性とテーブルをはさんで向かい合うように一人用のソファに移動し、そこに腰を下ろした。
「きょうのあさ」とテーブルに缶コーヒーを置いて僕は言った。「彼女がやってきましたよ。耳が治ったって」
「そう」と女性が微笑む。
「事情、説明してください」と僕は言った。
 女性はいつものようにシャツの胸ポケットからタバコとマッチの箱を取り出し、タバコの箱から一本を抜いて口にくわえ、マッチで火をつける。僕もいつものように女性の近くに灰皿を置いた。女性が煙を吐く。ふわっと天井で広がった紫煙がそのまま霧散していく。女性はまだ長いままのタバコを灰皿のふちに置いた。そのまま長い足を組んでゆっくりと話し始める。
「セカイというものの数はいくつもある。数え切れないほどある。わたしはそれをχのセカイと名付けて呼んでいるわ。つまりその数は未知数ということね。それで、なぜそれほどのセカイがあるのかというと、セカイというものは人間によって造られていくからなの。例えばひとりの人間がいるとして、その人の頭の中にその人のセカイがあるとする。するとそのセカイで暮らす人々ひとりひとりの頭の中には違うセカイがあって、その中で暮らす人々の頭の中にはまた違うセカイが、というふうにセカイは永遠と広がっていくからなの。ここまでで質問は?」
「ありません」と僕は答えた。セカイの数はχ。それは人の頭の中にセカイがあり続けているから。
「そう」と女性は言った。「なら続けるわ。それでセカイというのは無数にありながらも、干渉しないでそこにあり続けるの。つまり、セカイとセカイはそこにあるだけでなにも変化しない、干渉することもなければ、進化することも退化することもない。その人が死ねばそのセカイはそのまま消滅するだけ。そして新しく生まれてくる人間の頭の中でまた、新しいセカイが造られていくの。セカイはそういうふうに消滅と誕生を繰り返していく。まるで輪廻するみたいにね」
 そこで女性は言葉を切った。僕は頭の中でその言葉を反芻した。セカイは消滅と誕生の繰り返し。輪廻のように。
「でもたまに」と女性が説明を続ける。「ごくまれにだけどセカイとセカイが干渉するときがある。そうなると強大な力が生まれる。それはセカイの秩序から構成まですべてを歪ませて、狂わせて、やがて崩壊させてしまう。そうなるともうそのセカイはおしまい。そしてそのセカイを造った創造主、つまりその人間もおしまい。身体が変異して、最終的には死んでしまうの」
 なるほど、僕は言った。「つまり、彼女の身体にそれが起こっていたと?」
 そう、と女性はうなずいた。「ただ彼女の場合は特殊なケースだったけど」と言葉を続けてくる。「セカイは人間が造るもの、とさっきいったけど、そうでないものがひとつだけ、ある。それは迷いの森と呼ばれる場所で、誰が造ったのか、いつできたのか、すべてが謎につつまれているの。ただひとつだけわかっているのは、その森の中にはなにもなくて、一度でも入るともうそこから抜け出すことは出来ないということ。つまり入ったらもうおしまいというわけね」
 そこまで言ってから女性は灰皿のふちに置いたタバコを口にくわえて、煙を吐いてからまたふちに戻して、話すのを再開した。僕は煙を眼で追いながら黙って耳をかたむけていた。
「そしてその森の中に、彼女のセカイの住人が迷い込んでしまったの。それは必然なのか偶然なのか、もしくは故意なのか事故なのか、それはわからないけど、とりあえず彼女のセカイの住人である天使が迷い込んでしまった」
「あの」と僕は話の腰を折った。「天使、というのは?」
「あの、天使よ。翼が生えているやつね」
「セカイの住人は人間ではないんですか?」
「セカイにはさまざまな存在がいる。それは翼の折れた天使であったり、天使のふりをした悪魔であったり、感情を奪う小悪魔であったり、時空を旅する吟遊詩人であったり、いろいろな種類のさまざま存在がいる。もちろん人間のほうが圧倒的に多いけどね。ただそういう特殊な種別、わたしは存在の進化系と呼んでいるけど、それらは普通の人間と違って特殊な力を持っていて、たいていの場合、それらがセカイの干渉を引き起こす原因になっているの」
「原因、ですか」
「そう、原因。特殊な力を持っているがゆえに、そのセカイのバランスをおかしくしてしまって、セカイそのものから追放されることがあるの。それはその存在の進化系の意思に関係なく、セカイが危険と判断した時点で、すぐに追放される。そして追放されたそれらはどこのセカイでもない、時空の停滞と呼ばれる場所に行くようになっている。自動的にね。つまりそういうシステムがいつのまにか出来上がっているのね。でもたまに、その時空の停滞に行かずに、いえ、行けずに、べつの場所に行ってしまうときがある」
「それが迷いの森、ですか」
 女性はうなずいた。「たいていの場合、時空の停滞に行っても、一定の時間が経てばそれらがいたセカイに戻るようになっているわ。それも自動的にね。なぜならそれらもそのセカイの一部であり、そのセカイを成り立たせている存在のひとつだから。行きっ放しだとセカイのバランスが完全に崩れて、そのセカイそのものが崩壊してしまうの。つまり存在の進化系は非常に扱いが難しいものなのよ。そこにいてもセカイのバランスが崩れて、いなくなってもバランスが崩れてしまう。だから時空の停滞という、どこのセカイにも影響しない場所が必要なのよね。でも迷いの森はそうはいかない。あそこには出口がないから、入ったらもう出てこれないの。つまり、その森の中に入った存在の進化系はそこから出ることなくそこで朽ち果てて、それがいたセカイも崩壊し終わってしまう。そしてそのセカイの創造主の肉体も滅んでしまう」
「死ぬ、ということですか」
「そう」
「でも、彼女はそうではなかった?」
「そうね」と女性はうなずいた。「こういう表現はあれかもしれないけど、運が良かったのね。迷いの森に入ってしまったのが天使だったわけだから」
「どういうことです?」
「人間は迷いの森からは出られない。でも天使は出ることができた。それは人間にないものを天使が持っていたから」
 そこで女性は言葉を切った。そのものを当ててみろということだろうか。僕は二秒ほど考えてから言った。人間と天使の違いを。
「翼、ですか」
「そう」と女性はうなずいた。「天使には翼がついてある。その翼をつかって空から森を抜け出した。そしてもとのセカイに帰っていったのね。彼女のセカイは天使が戻ったおかげで崩壊を免れて、狂ったバランスも修正されて完全にもとに戻った」
「だから耳が治っていた?」
「ええ」と女性がうなずく。
 それから灰皿のふちに置いたタバコを吸った。そのタバコはもうすでに三分の一ほどの短さになっていた。
「あの」と僕は声を掛けた。「ふたつほど、質問があるんですが」
「なに?」
「なぜ彼女の耳は閉じられていたんですか?」
「だからそれはセカイが」
「いえ、そうではなくて、僕が聞きたいのは、なぜ耳なのか、ということです。なぜ耳にだけ変異が起きたのか?」
 ああ、と女性はうなずいて口にくわえていたタバコを灰皿に揉み消した。「それはね、眼は閉じることができても、耳は自分の意思で閉じられないから。天使は迷いの森の中で身体をまるめて座っていたわ。両膝を抱えてね。彼女はその森の中から出られないことに絶望し、外部から与えられるすべての情報をシャットダウンしようとしていたの。でも、眼を閉じれば森の風景は見なくてすむけど、耳は閉じることができないから、森の音を無意識のうちに聞いてしまう。聞こうと思わなくても耳が勝手にその音を拾ってしまう。だから天使は森の中で、音が聞こえなければいいのにと、この耳が閉じればいいのにと、そう思っていたの。その強い思いが歪んでいくセカイに影響を及ぼして、彼女の身体を変異させていたのよ」
「なるほど」
「それで、もうひとつの質問は?」
「あなたは何者なのか」僕は言った。「さきほどから話を聞いていると、あなたはまるでセカイのすべてを知っているかのように思えます。いったいあなたは何者なんですか?」
 僕がそう問い掛けると、女性はいつもの片眼を閉じた微笑みを浮かべた。
「セカイのすべてを知ることはできないわ。最初に言ったとおり、セカイの数はχ、未知数だからね。いまこうしているときもどこかで世界は終わり、そしてはじまっている。そのすべてのセカイを知りうることは不可能よ。ただひとつの存在をのぞいてはね」
「それは?」
「それはね」と女性は言葉を切ってソファから立ち上がった。「このセカイのすべてであり、セカイのシステムを構築した絶対唯一の存在、神、だけよ」
「あなたは、神なんですか?」
「いいえ」と女性は首をふった。「わたしは神じゃないわ」
「でもセカイのことをよく知っている」
「そうね」と女性は微笑んだ。
「もしかして」と僕は言った。「あなたは、存在の進化系というやつですか?」
「どうかしらね」と女性は意味深な口調で言った。
 それから、それではこれで、と言って事務所から出て行こうとした。僕は女性がドアのノブに手を掛けたそのときに「あの」と声を掛けた。
 女性が顔だけをこちらに向けてくる。「なにかしら?」
「このセカイも、だれかの頭の中で創造されたものなんですか?」
 女性はその問いにすこしだけ考える顔をしてから、片眼を閉じた微笑みを見せて「そうね」と言った。「最初の質問の答え。わたしは存在の進化系ではないけど、それに近いものかもしれない。いうなら、存在の特殊系、といったところかしらね。それじゃあこれで。またなにかあったら依頼しにくるわ」
 そういって微笑みを残したまま、最後の質問の答えを言わずに事務所から出て行った。ばたんとドアが閉められる。僕はため息を吐いた。結局あとに残ったのは、灰皿に揉み消されたタバコといくつもの疑問だけだった。


 女性がいなくなったあと、僕は一人用のソファに座ったままぬるくなった缶コーヒーを一気に飲み干した。χのセカイ。存在の進化系。時空の停滞。迷いの森……。セカイの複雑なシステムといままで知らなかった秘密を教えられて、頭の中はひどく混乱していた。ただ僕はなにかとてつもなく大きな流れの一部を今回の事件、事件といっていいのかはわからないが、それを垣間見た気がする。そしてその流れはいまも途切れずに続いていて、いつか僕やこのセカイをも飲み込んでいってしまうかもしれない。そんな思いすら浮かんでくる。女性は僕の、このセカイもだれかの頭の中で創造されたものなんですか、という問いには答えなかった。つまり肯定ということなのだろう。それならこのセカイのどこかにいる存在の進化系というやつが時空の停滞に行かずに迷いの森に入ってしまって、二度と出られなくなって、このセカイがバランスを崩しいずれ消滅してしまう可能性がある。いやそれ以外でもこのセカイとどこかべつのセカイとが干渉し、歪み、そのまま崩壊してしまう可能性だってある。セカイがどうなるかなんて神でなければわからないことだし、いまこうしているときだってどこかで世界が終わり、はじまり、干渉し、歪み、崩壊し、消滅しているかもしれない。それがこのセカイにいつ起こるともわからない。だれかの頭の中のセカイであるここがあしたになればもうなくなっているかもしれない。きょう眠れば二度と眼を覚ますことなくセカイが終わる可能性すらある。そんなセカイの終わりの可能性だけを思い浮かべてしまう。それは色彩を映さない僕の眼のせいかもしれない。モノクロに見えるセカイは地味で暗くて憂鬱なものなのだ。
 だが、とも思う。
 僕は立ち上がり冷蔵庫のところまで移動し、冷蔵のふたをあけ、その中からトマトを取り出した。冷蔵庫のふたを閉めて、トマトを丸齧りする。彼女があの日そうしたように。咀嚼し飲み込む。喉を通って胃に到達したトマトにはしかし、彼女がいったような自然の豊潤さは感じなかった。個人差はあるのかもしれないが、僕にはどんな食べかたをしてもトマトはトマトにしか感じられないのだろう。あの空がいつ見ても灰色のように。
 食べかけのトマトを手に持ちながら窓をあけ、窓枠に腰を下ろす。空を見上げる。相変わらずの灰色……。セカイの行方はたしかに気になる。だがセカイがどうなろうと僕ができることはなにもない。あの女性のようにセカイのことについて詳しくわかるわけでもなく、セカイをどうしようとできるわけでもない。そもそも僕にとって色彩のないセカイというのは、あまり価値のないものなのだ。いや、価値のないものだった。セカイのシステムと終わりを知って、知ったからこそ、世界というものにたいして真正面から向き合えるような気がする。いままでは色彩のない世界なんて、そこで生きていてもなにもおもしろくないと悲観していたが、いつかセカイが終わるときがくるのなら、そのときまでこのセカイの中で生きたいと思えるようになっている。それはある種のひらきなおりにも似ている。色彩があろうがなかろうが、僕が住んでいるのはこのセカイで、このセカイはそれ以上でもそれ以下でもないのだ。どんな食べかたをしてもトマトがトマトであるかのように。
 また空を見上げる。憂鬱しか感じない灰色の空もセカイの複雑なシステムを知ったあとではいつもと違うように見える気がする。いつもと同じ灰色だがそれは憂鬱ではないべつのあかるい色のようにさえ見える。だがそれはおそらく眼の錯覚かなにかだろう。結局、どんな食べかたをしてもトマトはトマトであって、終わりを知ってもセカイはセカイのままで変わらず、灰色の空は灰色の空なのだ。なにも変化せず、なにも進化せず退化もせず、いつもと同じセカイの中で僕は生きて、灰色の空を見上げるのだろう。そしていつかくる終わりのときまでいつもと同じ生活をして、色彩のないセカイで生き続けるのだろう。変化しないからこそ見つけにくいがつねにそこにある、変わることのない日常、という名前のささやかなしあわせを胸の中に感じながら。あの変らない灰色の空を見上げながら。



 6.翼の折れた天使


 灰色の空を飛んでいると、前方上空にあたたかな光が差し込んできた。そちらに顔を向ける。それはひさしく見る太陽の光、陽光の明るさだった。それと同時に灰色だった空にも徐々にだが色が戻ってくる。灰色から濃紺、青、そしてどこまでも澄んでいるライトブルーに。いつのまにか空はいつもの青い空に戻っており、はるか頭上にはいつもどおりに太陽が輝いている。
 ついに、ついにあの迷いの森から抜け出したのだ。
 彼女は嬉しくなって思わず飛ぶスピードを速めた。飛べないと思っていたころとは違い、いまでは自由自在に翼を操れるようになっている。完璧に空を飛べるようになっている。白い雲を突き抜け、青い空を飛翔する。彼女が飛び去ったあとには翼から抜けた白い羽根がはらはらと舞い落ちていた。


 どこまで飛んだだろうか。それはわからない。どれほどの時間を飛んでいるのかもわからない。空を飛ぶのが楽しくて、あの迷いの森の中で沈んでいたころのぶんまで、ずっとずっと飛んでいたのだ。だが自分がいまどこにいるのかが気になって、彼女は空中で停止し、下を見た。
 眼下には緑がどこまでも広がっていた。
 草原である。さらに遠くにはゆるやかな丘も見える。彼女はその草原に降り立った。草の香りが鼻孔をくすぐる。優しい風に吹かれた草たちが揺れる。大自然の風景。この場所には見覚えがあった。
 おぽろげな記憶の断片を頼りに歩く。爽やかな陽光と穏やかな風が心地よかった。草原。太陽。風。彼女はそのキーワードを頭の中に入れながら、無意識のうちに自分が目指す方向に歩いていた。やがてゆるやかな丘のようなところに、なにかがあるのが見えてくる。眼を凝らしてそれを見た。それは家だった。
 小屋といってもいいほどのちいさな木造の家。そのまわりには川があり、透明できれいな水が流れている。彼女はその川まで飛んでいくと、ほとりに降り立ち、両手の手のひらで川の水をすくい上げた。指のあいだからこぼれていく水はひんやりと冷たい。だが手のひらに残っている水は澄んでいて、太陽の光をいっぱいに浴びてきらきらと輝いている。彼女はその手のひらにある水たまりに顔を突っ込ませた。水しぶきが飛び散る。顔の芯にまでしみこんでくるかのように水は冷たい。だがその冷たさが記憶の断片を思い出せてくれる。まるでパズルのピースがすべて合わさるように忘却の記憶がよみがえってくる。
 そうだ。わたしはここで暮らしていたんだ。
 まだちいさい弟と妹の三人で静かだが平和に暮らしていた。だがある日、とつぜん現れたまばゆい光の中に自分だけが飲み込まれ、そして気が付くとあの森の中へ迷い込んでいた。いったいあの現象はなんだったのか。彼女はあのときのことについて考えようとしたが、それはできなかった。なぜなら、小屋のような家からふたりの子供が扉をあけて出てきたからだ。
 五歳くらいの男の子と、それより年下の女の子。どちらも自分と同じように背中から白い翼を生やしていて、男の子のほうは手に棒切れを持って、女の子のほうはウサギのぬいぐるみを両腕で抱き締めている。その子は不安そうでいまにも泣きそうな顔をしていて、男の子のほうは強い決意を感じさせる勝ち気な表情をしていた。おそらくこの男の子は恐怖を感じながらもそれを飲み込み、女の子を守るために棒切れを持って戦おうとしているのだろう。あの日まで、自分がそうしてこのふたりを守っていたかのように。
 彼女は身体ごと振り返り、真正面からふたりを見た。やはりそうだ。自分の唯一の家族、たいせつなたいせつな弟と妹だ。不意に涙が溢れてくるのがわかった。ふたりも彼女の姿に驚き、それからおおきな瞳を涙で濡らしておもいきり抱き付いてきた。彼女はしゃがみ込んで目線を二人に合わせて、おおきく両手を広げてふたりを抱き締めた。ちからいっぱいにぎゅっと抱き締めた。優しい風がほほを撫でて草の香りを運んできて、太陽が眩しい光をさんさんと差し込ませてくる。爽やかな太陽と穏やかな風と、どこまでも続く草原とそこに流れるきれいな水の川と、頭上にどこまでもどこまでも広がっている澄みきった青い空と、いまこの両手で抱き締めているかけがえのない家族に向かって、おおきく元気に彼女は、ただいま、と言った。ふたりの弟妹は、おかえりなさい、と返してきてくれた。
 それは、この世界が彼女に向かっていった言葉のようにも聞こえてきた。


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