雨、さくら
Taku


 雨が降っていた。
 空は濃い灰色の雨雲によっておおわれていて、太陽もその奥に隠れてしまっている。霧雨のような弱い雨だがそれは一向に止む気配がなく、だからといってさらに雨足を激しくさせるわけでもない。つねに一定の弱さで、速度で、いつまでも降り続けているのだ。
 路地裏に雨音が響く。ビルとビルのあいだにひっそりとあるまるでエア・ポケットのような空間。そこに僕はいた。頭からジャケットをかぶったまるで濡れねずみのような格好で。
 なぜ僕がこんな雨の中こんな場所にいるのかというと、それは仕事のためだった。といっても本職のサラリーマンのほうではなく、趣味でやっている仕事、それを仕事と呼んでいいのかどうかはべつにしても、そのためだった。
 僕の眼の前には、ひとりの女性が立っていた。
 年齢は二十歳くらい。すらりとした鼻梁に整った顔立ち。大きな黒の瞳は伏せ眼がちで、長い黒髪が雨のせいで艶やかに濡れている。着ている服も雨に濡れて素肌にはりつき、うっすらと白い肌を透かしている。彼女はたしかにそこに存在しているが、そこにいるのは「人間では」なかった。そう、彼女は「人間ではない」べつの存在なのだ。
 あなたはだれ?、と彼女が聞いてきた。
 きみのほうこそ、と僕は聞き返した。
 わたし?、と彼女が首をかしげる。わたしは、さくら。それが名前かと思ったが、そうではないらしい。わたしは、さくらを見に来たの、と彼女は続けた。
 でもここにさくらはないよ、と僕は言った。
 彼女はすこし困惑したような表情をうかべてから、知ってる、と答えた。でも、なぜかここから動けないの。この場所に足が根付いてしまったかのようにここから一歩も動けないの。
 やっぱりな、と僕は思った。彼女は一年ほど前に「もうすでに亡くなって」いるのだから。
 そう、あれはさくらが満開だったうららかな春の日。彼女は大学の帰りにこの近くにある公園までさくらを見に行こうとしたとき、対向車線から暴走してきた車に撥ねられ、この場所まで吹っ飛ばされてきたのだ。その時点で彼女は、こういう表現はしてはいけないのかもしれないが、ひどく無残な「人間とは思えないほどの」ただの赤い肉の塊になっていた。もちろん即死である。車を運転していたのは花見帰りの若者たちで、彼らは大量の酒を飲んでいた。飲酒運転による死亡事故。それは新聞の片隅にひっそりと載っただけの事件だったが、それでもその被害者である彼女の存在は「肉体のないいまでも」ここに残っている。自分が死んだことを知らないがために。
 僕は彼女にそのことを、「あなたはもう死んでいるという事実を」告げた。
 すべてを聞き終えたとき、彼女は自分の身体を見回し、雨を降らしている灰色の雲におおわれた空を見上げ、それから僕のほうに眼を向けてきた。雨で濡れて顔にはりついている前髪のあいだからのぞく瞳には、困惑と驚愕と絶望とそれらを合わせて哀しみで包み込んだような色がある。それはこの世でもっとも暗い色をしていて、絶え切れないほどの苦しみが見える。僕は思わず顔をそむけようとした。だが真正面からその眼を見詰め返した。
 社会には「理不尽な暴力」が数多くある。意味のない暴力にさらさられている人たちがいる。そんなやりきれなさを抱えて亡くなっていった人たちがたくさんいる。その彼ら彼女らのほとんどがこの世に未練を残し、「肉体が滅んだいまでも」そこに居続ける。そんな人たちが「視える」僕は、彼ら彼女らと話をして、死んだという事実を伝えて、そのすべてを受け止める必要が、その義務があるのだと思う。
 どうしようもないほどの苦しみ、やりきれないほどの絶望。それらが彼女の瞳から伝わってくる。彼女が亡くなったときの正確な年齢は十九歳、あと三日で二十歳になるというときだった。まだ若い。その将来には希望の数だけ選択肢がある。素敵な恋をするかもしれないし、幼いころの夢を叶えるかもしれない。彼女がのぞむ数だけ将来の選択肢がある。その未来は希望に溢れた素晴らしいものになるはずだった。あのとき、あの瞬間までは。
 泥酔した若者の飲酒運転によって、一瞬にして無残に散ってしまった未来はまるで、艶やかに咲くさくらのようだ。だがさくらと違うのは、彼女は「他人の手で、自分の意思とは関係なく」その一生を散らされてしまったことである。そしてその理不尽さと不条理さとやりきれなさを胸に残したまま、いまもこうして精神体だけであり続けている。未練という鎖に繋がれて成仏できないまま。
 僕は彼女の瞳を真正面から見つめ続けた。
 彼女も僕の眼を真正面から見つめ続けている。
 やがて降り止まない雨の勢いがすこし弱まったとき、その瞳が儚げにゆれた。眼の下に涙の雫が溢れてくる。そしてそれがほほを流れ、あごから落ちたとき、彼女の姿が陽炎のように揺らいだ。うっすらとその姿が透けて、そして消えていく。「消えていく」。死を受け入れて成仏したのだ。彼女は強い女性だと、僕は思った。すくなくとも自分の身体に起きた「理不尽な死」を受け入れれるほどに。
 すべてが終わった路地裏で、僕は空を見上げた。いつまでも雨は降り続いている。まるで彼女が涙を流しているかのように。まるで彼女の哀しみと苦しみを洗い流すかのように。
 いつまでも、いつまでも。



 次の日。僕はきのうの路地裏にいた。右手にさくらの花が咲いた枝を持って。
 これは公園にあるさくらの木からこっそりと枝を折って持ってきたのだ。本当はそれはやってはいけないことなのだけれど、誰にも知られずひっそりと逝った彼女のはなむけのためなら許されるだろう。
 僕は彼女がいた場所にそのさくらの枝を置いた。きのう降った雨のせいでさくらの花はしおれてしまっている。だが薄いピンク色の花はたしかに咲かせている。彼女が最後に見たがっていたさくらの花はたしかにそこに咲いてある。
 僕は空を見上げた。きのうの雨は水たまりとして残っているものの、きょうは晴天である。空の真上には太陽が眩しく輝いている。そんなことはないだろうが、まるで彼女が泣き止んで、涙のあとを残したまま微笑んだようにさえ見える。
 僕はきびすを返してその場をあとにしようとした。だがそのとき穏やかな春の日には不釣り合いな強い風が吹いてきた。その風のせいで地面に置いたさくらの枝からピンク色の花びらが取れて、ひらひらと円を描くように回りながら空に舞い上がっていった。そしてある一定の高さまで舞い上がると、今度は同じ軌道をなぞるようにして舞い落ちてきた。僕はひらいた手のひらを頭上にかかげた。さくらの花びらが手のひらに落ちる。そのときどこからともなく、ありがとう、という声が聞こえてきた。そんな声が「聞こえてきた」。
 手のひらに載った花びらに息を吹きかける。ピンク色の花びらが舞う。僕は今度こそきびすを返してその場をあとにした。
 きのうの雨でできた水たまりに、陽光が反射してきらきらと輝いていた。


http://www.juv-st.com/