二世−nise−
Taku
気が付くと雨が降っていた。
窓から見える外の景色は暗い。太陽が濃い灰色の雲に隠れているせいだ。遠くに高いビルが立ち並ぶ交差点も、いつもは人で溢れかえっているのに、いまは少ない。だがそのかわりにいつもとは違う風景が見られる。それは傘のせいだろう、と僕は思った。
交差点では色とりどりの傘が動いている。黄色の傘が交差点の信号が青に変わるのを退屈そうに待っていて、赤色と緑色の傘がならんで歩いている。白と黒のしま模様の傘は自転車に乗っていて、紫色の傘のとなりを横切っていっていた。空は雲におおわれ、陽光が差し込んでこないせいで辺りは暗い。だがその暗い交差点では色鮮やかにさまざまな傘がある。それはいつもと違う交差点の景色で、それでもたまにはこんなのもいいなと思える風景だった。
意味も無くぼんやりとそれを眺めていると、つと欠伸がもれた。目尻にたまった涙を指先でぬぐう。さきほどまで眠っていて、起きたのはいまさっきなのだ。まだ脳が完全には覚醒していないのかもしれない。まどろむ意識と涙でにじむ視界の中にコーヒーカップが見える。その中に薄い黒色の液体が入っているのも見える。ブラックコーヒーだろうか。湯気を立てているところを見ると淹れたばかりのものかもしれない。僕はそのカップの取っ手を持って、顔の近くにまで運んでた。香りを堪能したのち、軽く息を吹きかけて口をつける。熱さと苦さが口内に広がった。やはりブラックコーヒーだ。カップを受け皿に戻した。
また窓に眼をやると、雨が降り続いている。雨足を強めるわけではなく、だからといって弱くなるわけでもなく、ただ同じ強さで、速度で、まるで一定のリズムを刻んでいるかのように降り続いている。窓ガラスを叩く雨が下に流れている。窓枠の下には流れた雨でできた水たまりが溢れている。それが膨張し、限界に達して溢れかえったとき、背後から声が掛かってきた。僕は背もたれのついた椅子に座ったまま振り向いた。
そこには、ひとりの女性が立っていた。二十歳くらいの髪の長い女性。白のシャツに黒のスカート、その上に濃紺のエプロンをしている。このレストランのウエイトレスだ。
「おはようございます」と彼女が言った。
「おはよう」と僕は返した。といってもいまが朝なわけではない。正確な時刻は分からないが、おそらく午後の三時あたりだろう。僕は休みの日はいつもここで昼食をとり、それから二時間ほど椅子に座ったままテーブルに突っ伏して昼寝をするのだ。そう、「ここで」昼寝をするのだ。
僕はコーヒーカップを顔の高さまで掲げて聞いた。
「このコーヒーは注文してないけど、サービスかな?」
彼女は答えるかわりににっこりと微笑んだ。うなずくわけでもなく首を左右に振るわけでもなく、ただにっこりと微笑んだだけだった。つまりサービスではなく、有料ということなのだろう。注文していないものを持ってくるのはどうかと思うが、それもこの店ならではのことだ。そう、この店は「普通ではない」レストランなのだから。
雨の日の風景が普段の日常の景色と違うように、ここも普通のレストランではない。店の中で平気で昼寝ができるし、店員も注文していないメニューを持ってくる。ここは普通ではない、特別なレストランなのだ。そう、「ここ」は「普通ではない」、「特別な」レストランなのだ。
「いま何時かな?」と僕は聞いた。
「三時十五分です」と彼女が答える。「正確にいえば三時十五分と四十七秒です」
そう、と僕は言った。やはり二時間ほど眠っていたのだ。
眠気覚ましにまだ湯気を立てているコーヒーカップに口をつけたとき、斜め後ろから物音が聞こえてきた。そちらに顔を向けると、若い茶髪の男と黒スーツを着た頭がワニの男の二人組が椅子から立ち上がり、店から出て行くところだった。レジではワニの男が金を支払っていた。彼の奢りなのかもしれない。それからふたりは談笑をしながら店を出て行った。僕はコーヒーをゆっくりと飲み続けた。
猫舌なので、まるで亀が移動するかのような遅いペースで飲み続け、そして半分ほど飲み干したとき、彼女の姿が揺らいだ。まるで陽炎のようにぼんやりと霞みはじめたのだ。時間ということなのだろう。
我慢してコーヒーを一気に飲み干し、椅子から立ち上がり、ジーンズのポケットから財布を出してその中から千円札を二枚、取り出してテーブルの上に置いた。彼女は陽炎のように揺らぎながらずっと微笑んだままである。
「それじゃあ」と僕は言った。
彼女は微笑んだまま優雅に一礼をした。奥にあるカウンターの向こうではウサギのマスターが軽く手を振っている。僕はそちらに向かって小さく頭を下げた。それから店を出て階段を降りる。このレストランはビルの二階にあるのだった。
それなりに人でにぎわっている一階の雑貨屋を横切り、ビルから出る。いつのまにか雨は止んでいた。灰色の雲の切れ目からは太陽がその顔をのぞかせて、陽光を差し込んできている。雨で濡れた世界が降り注ぐ透明な光を浴びてきらきらと輝いていた。
歩きだす前につとビルの二階、あのレストランを見上げると、窓ガラス越しに彼女の姿が見えて、こちらに気が付いた彼女は微笑みながら小さく手を振って、そしてその姿が霞んで消えた。「その姿が、霞んで消えた」。
僕は歩きだした。雨が止んだ交差点にはもう傘をさしている人はいない。街がいつもの日常の景色に戻っている。空から降り注ぐ陽光も眩しい。あの店の入り口が現実と非日常の境界線だとしたら、いまの僕はいつもの日常に戻ったことになる。まるで通り雨が過ぎ去ったあと、空に架かる鮮やかな虹を見たときのような気持ちで僕は歩いた。そして交差点を渡ったとき、ビルとビルのあいだに虹が架かるのを見た。こちらとあちらの世界に架かる虹の橋を見たような気がした。