幻想奇譚
Taku


 −1−


「ちょっと待って」と僕は言った。
 彼女はその言葉に従い、喋るのをいったんとめた。めずらしく素直な態度だった。いつもは構わずに話し続けるのに。いまはおあずけ中の犬のようにこちらをじっと見つめながら押し黙っている。おそらく続きを促したらもの凄い勢いで喋り始めるのだろう。やっとご飯を与えられた犬のように。
 紫のシャツに濃紺のジーンズをはいている彼女は、二十歳ほどの年齢で、ショートカットの黒髪と勝ち気な瞳の色が印象的な女性だった。
 彼女はただ押し黙っている。そんな態度にかすかな驚きと新鮮さを感じながら、テーブルの上にあるコーヒーカップを手に取った。口をつける。中に入っているブラックコーヒーを飲む。といっても猫舌の僕が湯気を立てているほど熱いものを一気に飲めるはずがなく、まるで亀が移動しているような、そんなゆっくりとしたペースで半分ほどを飲んだ。そのあいだ彼女は一言も発することなく、だからといってミルクティーに口をつけるわけでもなく、ただずっとこちらを見つめ続けていた。それこそおあずけをくらった犬のように睨みながら。
 僕はやっとコーヒーカップをテーブルの上に戻した。彼女は自分が話している最中になにかをされるのを嫌う。だから本格的に話し始める前に、飲み物を飲んだりタバコを吸ったり、そんなことを一通りやっておく必要があるのだ。それがどれほど彼女の機嫌を損ねることになったとしても。
「どうぞ」と僕は続きを促した。ちょっと待って、といってから四分と二十七秒が過ぎていた。
 彼女はいままでの沈黙を吸い込むように息を吸って、それから大きなため息を吐いた。「ちょっと待ってが長かったので、最初から話しますけど」と静かに言う。
「どうぞ」と僕は言った。
 彼女は咳払いをひとつしてから話し始めた。「まず最近、そちらの世界で起きた殺人事件についてです。殺されたのは男性がふたり、女性がふたりの、四人です。さらに犯人は殺害後、死体の一部を切断し、どこかに持ち去っています」
「そうだね」と僕はうなずいた。
「切断されたのは、ひとりの男性が頭、もうひとりが胴体。女性のほうはひとりが両腕、もうひとりは両脚です。それらになにか関連性があるのかは分かりませんが、とりあえず切断された部分はまだ見つかっていません」
「その犯人もね」と僕は口をはさんだ。
「そうです」と彼女がうなずく。
 この街で起きた連続殺人事件。一週間のあいだに四人が殺され、その殺害方法が残虐なことから、メディアからは和製切り裂きジャック事件などと報道されているその事件はしかし、あちらの世界とは関係ないはずである、と僕は思った。
「それでですね」と彼女が続ける。「まだ見つかっていない犯人のことですが、おそらく、こちら側の世界の人間だと思われます。というか、こちら側の人間です、と断定できると思います」
「断定できるわりには、思いますが多いね」
「百パーセントの確立ではないので」
「きみはどう思ってるの?」
 彼女はすこし顔をうつむかせて、それから瞳にかすかな戸惑いの色を浮かべて答えた。
「多分、そうだと思ってます」
「つまり、そちらの世界の人間が犯人だと?」
「はい」と彼女は小さくうなずいた。そうなのだけれどそうは思いたくない。そんな曖昧な態度だった。
 あちら側の世界の人間がこちらの世界に干渉することは、禁忌とされていることである。もしそれをしたならその人間は咎人として罰せられることになる。さらに咎人がこちらの世界で事件でも起こそうものなら、それこそ重罪、死刑ですらありえるほどの罪を負うことになるのだ。そんなリスクを冒してまで、あちらの人間がこちらの世界で連続殺人を起こす理由、その必要はあるのだろうか。
「それで」と僕は続きを促した。
「それで、ですね」と彼女はめずらしく控えめな口調で言った。「もしこちら側の人間がそちらの世界にいて、殺人まで起こしていたら、その人間をこちら側にまで引っ張ってこなければいけません」
「そうだね」
「でも、わたしたちはそちらの世界に干渉することを禁じています。たとえ咎人を捕まえるという理由があったとしても、そちら側に行くことはできません」
「そうだね」と僕は言った。そのあとの彼女の言葉を予想しながら。
「それで、ですね。こちらの世界で色々と相談した結果、かわりにそちら側の人間に捕まえてきてもらおうと、そういう結論が出たわけです」
「つまり僕にそれをやれと?」
「ええと、まあ、はい」と彼女はうなずいた。
 やっぱりな、と僕は思った。予想通りだ。当たってほしくはなかったけれど。
「あの、もちろん、報酬は払いますよ。この店もわたしがおごりますし」
「おごりといってもコーヒーしか飲んでいないけどね」と僕は皮肉を言ってから「いいよ」と答えた。「そのくらいなら問題なくやれると思う。ただ、こちらに来ているそちらの人間の情報がほしい。それとその人間の属性も」
「属性?」
「そう」と僕はうなずいた。「こちらの世界に干渉することは普通の人間にはできない。おそらくなんらかの能力を持っていると思う」
 あちらの世界には普通の人間のほかに属性を持っている人間がいる。属性とはアイデンティティのことであり、シャーマンやウィザードといった特殊な力を持った人間たちの、その能力を示すためのものである。
「わかりました」と彼女はうなずいた。「その人間とその属性ですね。調べておきます」
「うん。できれば、なるべく早くね」
「わかりました。それでは今回の件、よろしくお願いします」と彼女は伝票を持って席を立った。本当におごってくれるらしい。
 僕はレジで勘定し、そのまま店を出て行く彼女の後ろ姿を見つめながら、ポケットからタバコの箱を取り出し、その中から一本を引き抜いて口にくわえた。だがすぐに禁煙中だったことを思い出して、くわえたタバコを箱に戻し、そのかわりにコーヒーを飲んだ。カップの中に半分ほどあるブラックコーヒーはもうすでにぬるくなっていた。



 その日は夜になるまで事件のことを調べていた。だが手がかりひとつ見つからない。被害者四人にはなんの接点もなく、殺害方法、殺害現場、犯行時間、ともにバラバラなのだ。統一性がない。そう、連続殺人犯特有のある種の統一性、法則性がないのだ。だから警察の捜査も難航しているのかもしれない。
 連続殺人犯というのは大抵の場合、一定の法則に沿って殺人をする。それはその犯人によって違うが、二人目、三人目と続けていくうちにその法則が見えてくる。はずなのだが、今回のはそれがない。死体の一部を切断しどこかに持ち去った以外は、まったく四件の殺人に接点がないのだ。
 僕は考える。
 じつは連続殺人ではなく、ひとつひとつが独立した事件、四人の犯人が起こした四件の事件なのではないだろうか。もしくは持ち去った死体の一部になにかの意味があるのか。頭。胴体。両腕。両脚。それらを繋ぎ合わせれば、ひとりの人間の死体ができあがる。できあがる……。



 結局、いくら考えても答えが出てこないので、僕はアパートに戻った。
 シャワーを浴びて、Tシャツにジャージのズボンという格好に着替えて(これが寝間着なのだ)、キッチンにある冷蔵庫から缶ビールを取り出し、六畳半の部屋の中央にあぐらをかいて座る。そして缶ビールのふたをあけ、一口飲もうとしたとき、窓ガラスが外側からノックされた。その音が静かな部屋の中に響いた。
 誰だろうか、と僕はまず思った。いまは深夜である。こんな時間に訪問してくる知り合いはいただろうか。しかも窓ガラスから。ここは三階である。それでも窓ガラスをノックしてくるということは、おそらく普通の人間ではないだろう。いやもしかしたら、人間ではないのかもしれない。
 僕はふたをあけた缶ビールを畳の上に置いて、立ち上がり、窓ガラスまで近付いていった。窓にはカーテンが閉められており、ノックしている人物の姿かたちは見えない。だがぼんやりと、たしかにそこになにかが、誰かがいることは見て取れる。カーテンにその影が映っているからだ。
 カーテンをあける。夜の闇の中、そこにいたのは女性だった。年齢は二十歳前半ほど。長い銀色の髪にすらりとした鼻梁。瞳の色は澄んだ翡翠。整った美しい顔立ちだ。白いワンピースのような服を着ていて、その上に銀色の外套を羽織っている。そしてその背中からは、まるで白鳥を思わせる広大で純白な翼が生えており、それが大きくはばたいていた。
 彼女は僕の顔を見つけると、ひとつウインクをした。僕は窓もあけた。
「久しぶり」と彼女が弾んだ声で言ってきた。
「久しぶり」と僕も答えた。「また、アストラル界から降りてきたの?」
 うん、と彼女は笑顔でうなずいた。
 アストラル界というのは、こちらの世界やあちらの世界よりも高次元な場所にある、もしくは高次元な場所に位置されている異界である。そこには肉体を持たない高次な存在、精神体で構成されている存在が住んでいる。彼女もその高次な存在のひとりで、天からの使者、天使の眷属だった。
 その天使は顔だけを窓から室内に突っ込んできて「今夜どう?」と聞いてきた。もしヒマなら一緒に飲みに行こう、という誘いだった。
「わるい」と僕は首を横にふった。
 すぐに彼女の頬が膨らむ。「なんか最近、付き合いわるくないですか?」
「そうかな」
「この前だって、誘っても断ったじゃないですか」
「あのときは仕事が忙しくてね。いまもそうだけど」と言い訳をいう僕を、彼女はじっと見つめた。
 なにひとつ濁りのない純真な瞳に見つめられると、なぜかすべてを見透かされている気分になる。その翡翠の瞳にはなにかを探るような光もある。僕は平静を保った。保り続けた。
 やがて彼女は僕のほうを指差しながら言った。
「ズバリ、連続殺人事件のことで悩んでる。どう、当たりでしょう?」
 ぼくはかすかに驚きながら「ズバリ正解」とうなずいた。
 アストラル界にいる彼女たちは人間よりも高次な存在で、こちらやあちらの世界で起きている事件にはまったく興味を示さない。それどころか起きていることすら知らないこともある。だが彼女は知っていた。よくこちらの世界に降りてくるため、どこかでやっていたニュースを記憶していたのかもしれない。
「そんなに悩むほど難しい事件なんですか?」と不思議そうに聞いてくる。
「そうだね」と僕は答えた。「まず犯人の目的が分からない。犯人が単独犯なのか複数犯なのかも分からない。なぜ死体の一部を持ち去るのかも分からない」
「分からないことだらけですね」
「そうだね。だから悩んでるんだけど」と僕は苦笑した。「ただ、この犯人はよくある異常な殺人犯ではないと思う。犯人が、まあ単独犯だった場合だけど、そうであった場合、なにか意味があって死体の一部を持ち去っていると思うんだ。ただの自己満足ではなく、それを持ち去ることに重大な意味が、いや、もしかしたらそれが必要なために殺人をしているのかもしれない」
「えっと、つまり、死体の一部がほしくて、そのために殺しをしていると?」
「確信はないけど、そんな気がする」
「まさか」と彼女はなにかを考えるように腕を組んだ。
 窓をはさんで部屋の中と外で会話をするのは非常に目立つため、とりあえず僕としては室内に入ってもらいたかったが、彼女は真剣になにかを考えているため、声を掛けることさえもためらわれた。
 やがて沈黙に耐えられなくなった僕が声を掛けようとしたとき、彼女は組んだ腕をほどいて「もしかしたら」と言った。
「どうかした?」と僕は聞く。
「もしかしたらその犯人、大変なことをしようとしてるんじゃないかと思います」
「どういうことかな?」
「あのですね」と彼女は話し始めた。



 −2−


 次の日、僕はきのうと同じ時刻に同じ喫茶店の中にいた。
 ここの喫茶店はこちらの世界とあちらの世界のちょうど中間、境界線のど真ん中に位置する場所で、普通ではない人間たちの集まるところにもなっていた。
 僕はきのうと同じ窓側の席に座って、きのうと同じブラックコーヒーを注文し、きのうと同じショートカットの彼女と向かい合っていた。
 ここに呼び出した彼女が注文したミルクティーを二口ほど飲んでから話し出そうとする。僕は彼女が口をひらいた瞬間を見計らって「ちょっと待って」と言った。ひらいた口を閉じる前に不満そうなまなざしで睨んでから、彼女はそのままミルクティーのストローに口をつける。僕はコーヒーカップを持ち上げて息をふきかけた。カップに入ったコーヒーの表面に波紋が生まれてもとに戻っていくときに、カップに口をつける。猫舌の僕にはまだ熱過ぎた。カップを受け皿に戻して「どうぞ」と言う。
「きのうの件ですが」と怒気をふくんだ口調で彼女は言った。「調べがつきました。やはりそちらの世界で事件を起こしているのはこちらの人間でした。森の奥にひとりでひっそりと暮らしている女性で、属性はウィッチ。つまり」
「魔女のことだね」
「そうです。正確にいえば魔女の末裔で、もともとはそちらの人間だったそうです。ただ魔女狩りのせいで居場所がなくなった彼女の一族は、なんらかの方法を使ってこちらの世界に逃げてきて、そして誰にも知られずにひっそりと暮らしていたみたいですね」
「それがいまになってこちらの世界に戻ってきた」
「はい」と彼女はうなずいた。
 魔女狩り、と僕は口の中だけで呟いた。連続殺人事件の犯人は魔女。それならおそらく動機は復讐といったところだろうか。
「その魔女は」と僕は聞いた。「いつこちらの世界に?」
「詳しくは分かりませんけど、おそらく二十日前後かと」
「ひとりで?」
「はい」
「ということは、その魔女は世界を行き来する方法を知っていることになる」と僕は言ってから「いや」とそれを否定した。「もしかしたら彼女の先祖、魔女狩りから逃げてきた魔女たちが知っていて、それを代々伝えていっていたのかもしれないな」
「とりあえず分かっていることは、魔女はそちらの世界にいて、殺人事件を起こしているってことだけですね。なぜそれをしているかは分かりませんけど」
「動機」と僕は言った「魔女が殺人をしている理由、それは復讐だと思う」
「復讐?」と彼女は眼をしばたかせた。「魔女狩りの、ですか?」
「そう。正確にいえば、人を殺すことではなく、その部分を集めるのが目的だろうけど」
「どういうことです?」
 僕はすぐには答えず、コーヒーカップを持ち上げてそれに口をつけた。ブラックコーヒーを飲む。冷めてほどよくぬるくなっていた。カップを受け皿に戻す。それから口をひらいた。
「悪魔召喚というのを知っているかな」
 彼女は文字通り眼を点にした。「悪魔、召喚?」
「そう、悪魔召喚。アストラル界にアクセスして、そこから強制的にこちらの世界に悪魔を呼び出すことさ。彼女はそれをしようとしているんだと思う」
「どうやって、ですか?」
「悪魔を召喚するには五つのパーツが必要になってくる」と僕は右手の五本の指を広げた。「頭、胴体、両腕、両脚、そして心臓。この五つがあれば理論上、アストラル界にアクセスして悪魔を召喚することができる。彼女はそうやって悪魔を召喚して、魔女狩りを行ったこちらの世界に復讐しようとしているんだと思う。思う、というのは、そうあってほしくないという僕の願望であって、おそらく百パーセントに近い確立でそうだろうね。魔女は、悪魔を召喚しようとしている」
 彼女は黙っていた。悪魔召喚なんてことは想像していなかったのだろう。だがそれがいま、現実のものになろうとしている。
 彼女は僕の言葉を頭の中で整理して、それから口をひらいた。
「でも、あれですよね、召喚に必要なパーツはまだ四つしか集まっていない。つまり、すぐに召喚されることはない、ということですよね?」
「さあ」と僕は首をひねった。「確認されているかぎりは四つしか集まってないだろうけど、もしかしたらもうすでに最後のひとつ、心臓を手に入れているかもしれない。彼女がこちらの世界に来たのが二十日前後で、連続殺人事件が起きたのは一週間前。そこには十日以上の空白期間がある。そのあいだに誰かの心臓を手に入れた可能性もある」
「あの」
「なに?」
「どうしたらいいんでしょうか、これから」と彼女はめずらしく不安を口にした。
「そうだね」と僕は答えた。「とりあえずなにもしなくていいと思う。魔女がこちらの世界にいる以上、そちらの世界の人間は手出しできないわけだから、なにかしようにもなにもできないだろうし。とりあえず魔女は僕が探すから、きみはここの勘定を払ってくれればいいと思うよ」
 彼女はようやくほんのすこしだけ微笑んだ。「きょうもおごり、ですか。分かりました。わたしはなにもできませんけど、魔女のこと、お願いしますね」
「オーケイ」と僕はうなずいた。
 ブラックコーヒーを一気に飲み干して椅子から立ち上がる。これからすぐにでも魔女探しだ。それじゃあ、と僕は軽く手を上げた。歩き出そうとするところを彼女が呼び止めた。ひとつだけ教えてください、と聞いてくる。なに、と僕は問うた。
「どうやって悪魔召喚のこと知ったんですか?」
「それは」と僕は右手の人差し指で天井を指差して答えた。「気まぐれな天使が教えてくれたのさ」



 魔女はこの街の中にいる。
 僕は高いビルが立ち並ぶ交差点で佇みながら、通り過ぎていく人々の顔を見ていた。楽しそうな顔、急いでいる顔、無表情、さまざまな顔があるが、彼ら彼女らに、これから悪魔が召喚される、といえばどんな反応をするだろうか。おそらく笑い飛ばされるか、頭がおかしいと思われるだろう。僕自身も悪魔召喚のことは頭の中では理解しているが、実感としてはないのだから。だがそのときは刻一刻と、確実に近付いてきているのだ。
 僕は考える。
 死体の一部。それをどこに隠すか。この街のどこに隠せば見つからないのか。考える。見つかりにくいところというのは、人目につかず、暗いところだろう。つまりそういう場所をピックアップして探していけば見つかる可能性が高い。
 とりあえず僕は頭の中でそんな場所をリストアップしながら、信号が青に変わったので歩き出した。信号待ちをしていた人々の群れの中にまじって歩調を合わせて進む。そのとき、ちょうど前方にあるビルの屋上にカラスがたくさん集まっているのが見えた。あのビルはこの街で一番高い。そこの屋上にカラスが集まっている。集まっている……。
 気が付くと、僕は走り出していた。
 そうだった。隠すという言葉から暗い場所を連想していたが、別にそうである必要はないのだ。ただ見つかりにくいところであればどこでも、それこそビルの屋上でもいいのだ。この街で一番高いビルの屋上。たしかにそこなら見つかりにくい。下からは見上げにくく、上からは絶対に見つからないのだから。
 交差点を渡り、ビルの中に入る。エレベーターで最上階まで行く。屋上に続く階段には立ち入り禁止のプレートが掛かっていたが、それを無視して階段をあがる。十三段目でドアについた。ノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。ノブを握ったまま大きく深呼吸をして、僕はドアをあけた。



 最初に感じたのは、死臭だった。
 屋上にはひとりの女性が立っていて、そのとなりでは無数のカラスが群れをなしている。それはなにかひとつの黒い生き物のようにさえ見える。僕は屋上に出てドアを強く閉めた。その音で集まっていたカラスたちは一斉に飛び去っていく。黒い羽根が三、四枚はらはらと舞った。彼女が振り返る。カラスがいなくなったところには人間のかたちに並べられた切断された死体があった。ところどころが腐敗していて、いくつもの切り傷が見える。カラスたちが突っついていたせいだろう。
「早かったわね」と彼女は言った。それは冷たい声だった。
「僕が来るのを予想していたみたいだね」と僕は言った。
 彼女はなにも答えずに微笑んだ。まさに氷の微笑だった。
 あらためて見てみると、年齢は三十歳前後くらいだろうか。美しい顔立ちをしているが、そこには人間的なぬくもりは感じない。血が流れていないような冷たい彫刻作品の印象がある。それは強固な氷を思わせる冷たい瞳のせいかもしれない。着ている服は真っ暗な外套で、それを足首のところまで羽織っている。腰のあたりまで伸ばした髪も黒い色で、靴も黒、すべてが黒色で統一されている。その中で、顔の白さだけが際立って見えた。
 僕は彼女のとなりにある死体に眼を向けた。屋上のコンクリートの床に描かれた逆五芒星の上にそれが置かれてある。どうやらまだ召喚する前らしい。というか、これから召喚するところだったのか。
「あなたのことは知ってるわ」と彼女は言った。「どこの世界にも属さないで、すべての世界の厄介事を解決する便利屋。わたしがなにかをしようとすれば、かならず邪魔しにくるだろうと思ってたわ。もっとも、予想より早かったけどね」
「それはどうも」
「それで、あなたは止めるのかしら。悪魔召喚を」
「そのために来たんでね」
「そう」と彼女は言った。「復讐を邪魔するつもりなのね」
「復讐といっても、魔女狩りはきみが生まれるずっと前のことだろう。それをいまさらやったところで、なにも変わらないと思うけど」
「そうね。なにも変わらないわ。魔女狩りを行っていた教会はもうないし、復讐をしたところで一族が甦るわけでもない。ただわたしだけが満足するだけ。自己満足のための復讐ね」
「やめてくれないかな。いまならまで間に合うんだろう」
 答えずに、彼女はただ微笑んでいる。つと晴れている空に雲がかかってきた。太陽の光も弱くなってきている。
「ねえ」と彼女は言ってきた。「あなたは、魔女裁判というのご存知かしら?」
 僕は頭の中からうろ覚えの情報を引き出して答えた。
「捕まえた女性から、自分が魔女かどうかを聞き出すための審問、だったかな」
「そうね。ではどうやって、魔女かどうかを聞き出したか知ってる?」
「どうやってって、証拠を示して、論理的に、じゃないのかな」
「違うわ。そんな優しいものじゃない。拷問よ」
「拷問?」
「そう。捕まえた女性を拷問にかけて、強制的に自白させるの。それはひどいものだったわ。魔女ではない女性もその拷問に耐えかねて嘘をついてしまうの。自分が魔女ですとね。分かるかしら。それほどひどい拷問を受けたのよ、あの時代のわたしたちは」
「ちょっと待ってくれ」と僕は言葉を止めた。「わたし、たち?」
 彼女は微笑を深くした。「そう、わたしたち。そしてそれがわたしが復讐を行おうとしている理由。魔女の一族は自分の血に呪いをかけたの。血を受け継ぐ一族の子孫に、その拷問の苦痛をそのまま感じさせる呪いを、ね」
 彼女はとうとう声を出して笑い始めた。氷のような微笑が狂気に塗り潰されていく。そんな変化を感じさせるような声で。
「ねえ、分かる? 拷問の苦痛を、その絶望を。そもそもおかしいと思わないかしら、自白させるために拷問をするなんて。そんなことをしたら誰だろうと自白するに決まってるじゃないの。ねえ。しかもその拷問はひどいものなのよ。それを行っていた審問官もね。大人だけじゃない、子供まで拷問にかけたのよ。まだ幼い子供までも拷問にかけられた。ねえ、なぜ子供まで拷問にかけるか分かる?」
 僕は首を横にふった。だが彼女にはどんな反応をしても無駄だった。彼女は誰でない誰かに話し続けているのだから。
「子供は弱いから。抵抗力がないから。すぐに自白、いえ、嘘をついてしまうの。わたしが魔女ですってね。だから子供は優先的に拷問にかけられた。ねえ、なぜ子供にも自白させるか分かる? 魔女と自白したら、今度は仲間を密告しなければいけないから。そうしないとまた拷問に戻されるの。だから子供に自分が魔女であると認めさせておいて、それからその子から、自分の親も魔女であると密告させるのよ。そしてその親を捕まえて、また拷問にかける。それの繰り返し。ひどいと思わない。ひどいでしょう。そんなことをしていたのよ、あの時代の審問官は。
 しかも魔女審査というのもあってね。それは、裸にして後ろ手に縛って水中に沈めて、浮かんできたら魔女だって、そんなことで魔女かどうかを決めていたのよ。そんなの浮かぶに決まっているじゃない。そもそもそんなことで魔女かどうかを決めるなんておかしいわ。狂ってる。そう狂ってるのよ。狂ってたのよ。しかも魔女であると自白しても、そこで苦痛が終わるわけじゃない。なぜならそのあとに処刑が待っているから。
 さんざん拷問にかけておいて、最後には処刑される。つまり捕まったら最後。魔女だろうがそうでなかろうが、死ぬ運命にあった。もっとも処刑されたのは捕まった女性の半分だと聞いてるけどね。なぜなら拷問の時点でおかしくなっちゃうから。凄絶な拷問はね、人間を壊しちゃうの。分かるかしら。ある一定の苦痛を超えるとね、発狂して、なにも感じなくなるの。拷問を受けてもただ笑っているだけ。狂っちゃって笑うしかできなくなるのよ。沈められても殴られても刺されても犯されても笑うしかできないのよ。だって心が壊れちゃってるんだもの。だって心がこころが」
「もういいよ」と僕は言葉を止めた。これ以上は聞きたくなかった。
 話をやめた彼女は、その顔にはたしかに発狂している笑みが浮かんでいるように見える。おそらく彼女の復讐は、あの時代に殺害されたすべての女性の恨みを背負っているのだろう。
「たしかに」と僕は言った。「きみには、復讐する権利がある」
 彼女の表情が変わった。一瞬だけきょとんとしたものになり、それからその笑みが哀しみを帯びたものになる。
「ありがとう」と彼女は静かな口調で言った。「そう言ってくれたのは、あなたが初めてよ。でも、あなたは止めるんでしょうね」
「そうだね」
「それが仕事だから?」
 僕は答えなかった。それとは違うことを言った。「きみも本当は、分かってるんじゃないのかな。復讐しても意味がないってことを。自己満足のための復讐といってたけど、本当にきみはそれを望んでいるのかい?」
「さあ、どうかしら」と彼女は自嘲気味に笑った。「本当に復讐したいのかもしれないし、ただ呪われた血に逆らえないだけかもしれない。分からない。自分がなにをしたいのか、なにをすればいいのか、分からない」
 そう寂しげに微笑む彼女は、復讐の魔女ではなく、笑う発狂者でもなく、ただ呪われた血に翻弄されるひとりの哀しい女性に見えた。いや、実際そうなのだろう。彼女はただの、ただの普通の女性なのだ。その身体に流れる呪怨の血さえなければ。
「いまならまだ、間に合うんじゃないかな」と僕は言った。
「そうね」と彼女は哀しく微笑んだ。それから儚げな色を瞳に浮かべた。「でも、もう遅いの」
 そう言って彼女は、着ている黒の外套の胸元をひらいて白い肌をあらわにした。僕は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。豊満な乳房のあいだには、そこにあるはずのものがなく、ただ赤黒い穴だけがあった。
 そこにあるはずのもの、心臓がそこにはなかったのだ。
「まさか」と震える声で僕は言った。「自分の心臓を、最後のパーツに、なんて」
「そう」と彼女はうなずいた。「これがわたしの出した答え。復讐ではなく、破滅。すべてを終わらせるの。魔女の血も、復讐にとらわれた一族の呪いも。なにもかもわたしで終わり。すべてを道連れにしてね」
 そう言って彼女は微笑んだ。それははじめて会ったときの冷たい笑みに、氷の微笑に戻っていた。
 さようなら、と彼女が言う。それからその身体がゆっくりと後ろに傾いた。まるでスローモーションのようにゆっくりと。僕は動くことができず、まるで金縛りにあったかのように動くことができず、ただそれを見ていることしかできなかった。彼女の身体がコンクリートの床に倒れる。まるで薄暗い空を見上げるように仰向けに倒れる。何度か頭がバウンドした。それからピクリとも動かなくなった。頭からはなにか別の生き物のように赤い血が流れ、コンクリートの床の上に広がっていく。
 それと同時に、彼女の死とリンクするかのように繋ぎ合わされた死体の下に描かれてある逆五芒星が光を放ち始めた。



 まばゆい光が収縮していく。
 僕はやっと閉じた眼をひらいた。そしてそこにいるはずの悪魔の姿を見ようとした。だが逆五芒星の上にはなにも召喚されておらず、そこにはただ繋ぎ合わされた死体が相変わらずの腐乱臭を放っているだけだった。悪魔は召喚されていない。どういうことなのか。頭の中に疑問が生まれたとき、上空から白い羽根が舞うようにして落ちてきた。僕はそのほうに顔を向けた。
 薄暗い空から、天使の彼女が広げた翼をはばたかせて降りてくるところだった。
 彼女が僕の近くに着地する。こちらに眼をやって、それから繋ぎ合わされた死体と心臓のない魔女の死体のほうに顔を向けた。また眼をこちらに戻してくる。
「どうしてここに?」と僕は聞いた。
「アストラル界に、外部からの強大な力の奔流が生まれたので、もしかしたらと思って降りてきたんです」
 彼女はまたふたつの死体に眼を向けた。いつもは表情豊かなその顔もいまはなにも感情の色が浮かんでいない。はじめて見る無表情さだった。
「悪魔召喚」とそのままの表情で小さく呟く。「まさか、本当にやろうとしていたなんて」
「違うよ」と僕は言った。
「なにが違うんです?」
「やろうとしていたんじゃなくて、もうやり終えたんだ」
 一瞬にして彼女の顔が鋭いものに変わる。それもはじめて見る警戒の表情だ。
「でも悪魔は召喚されなかった」と僕は付け加えた。
「それって、失敗、ってことですか?」
「さあ」と僕は首をひねってふたつの死体のほうに眼をやった。
 そこにはたしかにふたつの死体しかなくて、悪魔らしきものの姿はない。影もかたちもない。彼女はそちらのほうに近付いていった。僕もそれに続いた。ふたりで、ふたつの死体を囲む。召喚された形跡はどこにもない。やはり失敗なのか。そう思ったとき、彼女が「あっ」と声を上げた。
「どうかした?」と僕は聞く。
 彼女は繋ぎ合わされた死体の下に描かれている逆五芒星を指差した。「これ、逆五芒星じゃないですか。これじゃあ召喚なんてできませんよ」
「そうなの?」
「そうです。召喚は正五芒星じゃないとダメなんです」と彼女は説明してから「なーんだ」と大声を上げた。「悪魔召喚は失敗したんじゃなくて、ただ魔女がミスしていただけだったんですね。心配して損したな」
 拍子抜けした口調で言って、彼女は肩をすくめた。悪魔召喚はこちらの世界だけではなく、アストラル界にもさまざま問題を起こす儀式なのだろう。それが単純なミスで失敗におわった。彼女からしてみたら喜ばしいことなのだろう。だが僕からしてみれば、失敗してよかった、と簡単に割り切れることではなかった。
 復讐をよしとするわけではない。無関係な男女四人を殺した彼女の行為が許されるわけでもない。だがそれでも、それでも自分の命を賭してまで呪いの血とともに破滅を選んだ彼女のことを考えると、彼女が語った魔女裁判で犠牲になった女性たちのことを思うと、やはり割り切れない。復讐の狂気と、絶望の哀しみのはざまで苦悩し、やっと破滅という答えを出した彼女の人生は、いったいなんだったのか。僕はそんなことを考えてしまう。
 だが天使の彼女はそんなことお構いなしに、白い翼を広げた。
「結局なにも起こらないで終わったので、わたし帰りますね」と言ってくる。「それじゃあ、また」
「うん」とだけ僕はうなずいた。
 彼女が広大な翼をはばたかせて空の向こうに飛んでいく。その軌跡から白い羽根がはらはらと舞い落ちている。
 僕は眼を魔女に向けた。倒れるときにコンクリートの床にぶつけた頭からはいまも血がとめどなく流れ出ている。その鮮やかな赤色にまさか呪いが掛けられているとは思えない。だが彼女はそれを終わらせるために命を捨てた。ここでの最初の会話が思い出される。彼女は僕のことを知っていた。僕がここに来ることも予想していた。もしかしたら。それは都合のいい解釈かもしれないが、それでもこう思ってしまう。きみは、僕にとめてほしかったのか、と。
 だがいくら問い掛けても、魔女の死体はなにも語らず、なにも答えてはくれなかった。ただ心臓がくりぬかれた彼女の頭から、ただただ赤い血が流れていた。流れ出ていた。



 −3−


「つまりそういうことですか」と彼女は言った。
「つまりそういうことだね」と僕はうなずいた。
 いつもの喫茶店、ビルの二階にあるいつもの店のいつもの席で、いつもと同じくショートカットの彼女と向かい合って、いつもどおりに僕はブラックコーヒーを飲んでいた。
 あんなことがあってもすべてがいつもどおりである。ただいつもと違うのは、この店に呼んだのが彼女からではなく、僕のほうからということだった。
 僕は彼女に事件の顛末を話した。すべてを話した。話し終えたあと彼女は、なんか複雑ですね、と言った。そうだね、と僕はうなずいた。悪魔が召喚されなかったのはたしかに喜ばしいことである。だが魔女のことを思うと心が痛む。複雑な事件。そう、たしかに複雑だった。だがそれは事件そのものが複雑なのではなく、その裏に見え隠れするさまざまな感情が複雑なのだ。
「結局」と彼女は言った。「魔女はなにがやりたかったんでしょうね」
「復讐。破滅。自殺。そのどれかか、もしくはすべてかな」
「でも単純なミスで結果的に自殺だけになったんですよね。なんか拍子抜けしちゃうな。悪魔が召喚されたらどうしようってずっと思ってたから」
「なら召喚されたほうがよかった?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」と彼女は唇を尖らせた。
 僕は苦笑した。彼女の言い分は分かる。死体の一部を集めて悪魔召喚をするとさんざん恐れていただけに、単純なミスでそれが失敗に終わったのが納得いかないのだろう。膨張した恐怖心は期待とイコールになる。だがそれを満たすほどの結果ではなかった。彼女はそれに対して不満があるのだ。もちろん、悪魔が召喚されなかったのは喜ばしいことだと理解しているだろうが。そこらへんも含めてたしかに複雑な事件だった。
「でもね」と僕は言った。「魔女はわざとミスをしたんだと思うんだ」
「え、どうしてですか?」と彼女は聞いてきた。「禁忌を犯してこちらの世界にやってきて、死体の一部を集めるために人殺しまでしたんですよ。わざとミスするとは思えませんけど」
「うん。ぼくもそう思う。でもなぜか、わざとミスをしたと思えるんだ」
 それは死ぬ間際の彼女と唯一、話をした僕にしか分からない根拠のない思い込みかもしれない。だがそれでもそう思ってしまう。彼女が出した答え。破滅。すべてを道連れにしてすべてを終わらせる。それは自分自身を道連れにして、呪われた血の連鎖を終わらせようとしていたのではないか。彼女ははじめから復讐するつもりなんてなかったのではないか。そう解釈してしまう。
「ふうん」と彼女はミルクティーのストローに口をつけた。
「真実は分からないけどね」と僕はブラックコーヒーを飲んだ。
 そう、真実は分からない。永遠に分からない。だが想像することならできる。永遠に真実が分からないこそ、想像することで補完しようとしているのだ。この複雑な事件の核心、魔女の本心を。
 しばらく沈黙があった。栗色の長い髪のウエイトレスがやってきて、おかわりはいかがですか、と聞いてきた。結構です、と彼女は答えた。いただこうかな、と僕は答えた。営業スマイルをうかべてウエイトレスが厨房に消えていく。
「きょうは自分で払ってくださいよ」と不意に彼女が言ってきた。
「今回の事件の報酬」と僕は言った。「まだ払われてないよね」
 それは、と彼女は反論しそうになったがなにも言ってこなかった。事実、報酬はまだ払われていないのだから。
 僕はポケットからタバコの箱を取り出して、その中から一本を引き抜いて口にくわえた。マッチで火をつける。禁煙中なんじゃないんですか、と彼女が聞いてきたので、きょうから解禁なんだ、と答えて煙を吐いた。
 レストランの天井に紫煙が広がり、照明にほんのかすかな影を掛けて、そして霧散していく。タバコは精神を落ち着かせてくれるかわりに、徐々に身体を蝕んでいく。なにかを得るということは、なにかを失うことでもある。僕は考える。魔女は命を失うかわりに、なにを得ようとしたのか。僕は問い掛ける。いまくわえているタバコを吸い終えるあいだに、晴天の空に白い鳥が飛び立って、ブラックコーヒーが運ばれてきて、そして永遠に見つからない答えを、霧散する紫煙を眺めながら、誰でもない誰かに問い掛ける。


http://www.juv-st.com/