なにか
Taku


 0.


 夜の闇の中に、赤い月が浮かんでいた。
 やや青がかかった暗闇が空を覆い、その中で幾多もの星が輝いている。真夜中の空はどんなときでも同じで、まるで漆黒のカーテンで空をすべて覆い尽くしたかのような、その奥で隠された星たちが自己主張をするかのように輝くような、そんな感じの夜空である。
 だがいつからだろうか、その中に不自然なそれが現れたのは。
 まるで血を連想させるような真っ赤な月。それはいつのころからか唐突に突然に出現し、そしてその日からそれが普通になってしまっていた。まるではじめからそこにあるかのように、それが当然のことであるかのように、世界中の人々が平然とその赤い月を受け入れていたのだ。
 そしてその日から、世界は大きく変化していった。
 まず、みずからを<怪物>と名乗る新しい種の、新種の生物の誕生である。彼らは人類に変わる新しい世界の種族として宣戦布告し、人類に戦いを挑んできたのだ。つまり、世界の覇権をかけた種族どうしの戦争である。だがそれは人類対<怪物>という図式にはならなかった。彼らは一部の人類を洗脳し、<怪物派>という、つまり自分たちの代わりに戦わせる組織を形成したのだ。結局、種族間の戦争も人類どうしの無意味な争いになったのである。それは歴史が繰り返してきた争いの過去の延長線上であり、いまも続く現在進行形であり、おそらく未来に残るであろう忌々しい遺産でもある。<怪物>の正体はわからない。誰もわからない。<怪物派>の人間ですら正確なことは知らないのだ。それでも彼らは<怪物>のために命を賭けて、同じ人類と戦い、殺し合い、略奪する。そこになんの意味があるのか、いや、意味なんてものはないのかもしれない。もしくは戦争という行為の中に埋もれ、無意味さこそが意味のある行為になったのかもしれない。それはわからない。ただひとつだけ残っているのは。
 そのとき、聞こえてきたノックの音が、僕の意識を赤い月からいまに戻した。
 脳裏には、まぶたの裏にはまだ不吉を予感させる赤い月が残っていたが、眠ればはるか彼方に忘れ去れるだろう。睡眠は忘却と同意語なのだから。僕は窓のカーテンをしめて、座っていたベットのふちから立ち上がり、ドアまで向かった。
 ここは兵舎の一室である。せまい室内には机と椅子のセット、そしてベットしかない。椅子の背もたれには軍服の上着をかけて、机の上には軍から支給された拳銃をホルスターごと置いている。基本的にここはベットで寝るためだけの部屋であり、飲みたければ酒場にいき、抱きたければそんな店にいくのが僕たちの夜の行動だった。
 ドアをあけた。
 入り口に三人の男が立っていた。三人とも二十歳なかばほどで、僕と同年齢である。中心にいる、短く刈り込んだ茶髪に軍服の上着を右肩に担いでいる男は同時期に入隊した友人で、その左側にいるほっそりとした長身が狙撃手であり、右側にいる筋骨隆々が砲撃手だった。狙撃手はボタンをすべて外しているものの、きちんと軍服を着ていて、砲撃手はタンクトップ姿だった。
 ドアをあけた姿勢のまま僕は聞いた。
「なにかよう?」
「なにかよう?」友人はおおげさに肩をすくめるような動きをした。顔にほんのりと朱がさしていて、酔っている様子だった。「なにかようだと? おいおい友人(フレンド)、せっかくきょうでこの街ともおさらばだってのに、お前さんはこんなところでなにしてるんだよ。みんな酒場に集まって別れを惜しんでるんだぜ?」
「みんなが?」
「そうだ」とうなずいたのは狙撃手だった。「みんな集まっている。もちろん隊長も来ているぞ」
「めずらしくね」とは砲撃手。「隊長が酒場に来るなんて、この街にきたとき以来じゃないかな。最初はみんな驚いたけどね。でももうすっかり中に溶け込んでいるよ。しかもきょうは結構、飲んでるしな」
 そうか、と僕はうなずいた。
 この街に配属されて二年とちょっと。たいした事件がなくとも別れは惜しいのかもしれない。いや、いつ死ぬかわからないこそ、別れを大切にしているのか。これが今生の別れになったとしても後悔をしないように。
 それで、と友人が言ってきた。
「お前さんはどうするんだ。誰かとの別れがあるのなら、まあ仕方ないから、邪魔はしないけど」
「そんなのないよ」と僕は苦笑して否定した。
 二週間ほど前のことだった。僕がこの街の娼婦に恋をして、ずいぶんと金を貢いだ、という噂が立ったのは。結局は娼館から出てきた僕の姿を見つけた誰かが広めたデマだったのだが、それでもいまだにそのことでからかわれ続けている。
 友人が言ってきた。
「まあ、なにも用事がないんなら、こっちにこいよ。この街で飲むのはきょうで最後なんだから、徹底的に飲んで楽しもうぜ」
「そうだね」と僕はうなずいた。「なら、すぐにいくよ」
「ただ」と砲撃手が指摘してくる。「いつもとは違う酒場で飲んでるんだ。いつものところより大きなところでね。場所はわかるかな。いや、すぐにわかるな。ここの近くにあるから」
「わからなくても目印がある」と狙撃手が付け加えた。「バカ騒ぎしている酒場に入れば間違いない」
「まあ、そういうことさ」友人が笑った。
「オーケイ」と僕は言った。「すぐにいくよ」
 すぐにこいよ、そうしないと酒がなくなるからな、そんなことを言って三人は廊下を歩き、階段を下りていった。兵舎を出てその酒場に向かったのだろう。僕は部屋の中に戻り、軍服の上着、迷彩柄のジャケットを羽織って、鍵と財布を持って部屋を出た。ドアノブに鍵を差し込んで錠をしめる。いままで室内にいたせいでわからなかったが、彼らの言葉どおり、兵士みんなが酒場にいるのだろう。兵舎からは人の気配が感じなかった。戦争中に兵士がこんなんでいいのかと心配になったが、問題はないのだろう。彼らの話だと隊長も一緒に飲んでいるのだ。たまにはバカ騒ぎをする夜があってもいいのかもしれない。
 外に出た。
 兵舎は当然だが、街の中心から離れたところにあり、このあたりには民家なんてものは見当たらない。見渡して見えるのは兵舎と格納庫、訓練場のグラウンド、そして自然だけである。訓練場のすみには戦車が三台ほどならんでおかれてあり、その上にビニールシートがかぶされていた。砲台は三台とも斜め上、赤い月のほうに向かれている。まわりは林にかこまれており、生い茂った草木が闇の中でまるで別の生き物のように揺れていた。遠くに見える街灯の明かりにはどこか幻想的で赤い月をさらにライトアップしているようにさえ見える。
 歩きだすと風を感じた。
 吹く風は冷たいが、空気は濁っていない。澄んだ外気が涼やかな冷気をまとって顔を打つ。わるい夜ではなかった。酒を飲んで酔っ払ったあと、この夜風に当たれば、たちまちに酔いが醒めてさわやかな気持ちとともに朝を迎えられるだろう。そんな冷えて澄んだ風に吹かれながら、夜の街をゆったりと、迷彩柄のズボンのポケットに両手を入れて歩いた。
 ふと見上げた夜空には、相変わらず、赤い月が煌々と輝いていた。


 1.


 僕らはジープに乗って砂利道を走っていた。
 五月のなかば、春の終わりを告げるようにさくらが舞い散っていて、ピンク色の花びらが風の吹くままにひらひらと舞い上がっている。空は快晴というわけではないが、雨が降るほどわるいわけでもなく、ほどよい曇り空だった。灰色に近い雲が濁った色の青空に漂っている。やはり春はいい。乗り心地のよくないジープのシートに背中をあずけ、吹く風に顔を打たれ、そして流れる遠くの景色、舞い散るさくらの木々を眺めながらそう思った。夏は暑すぎるし、冬は降った雪が積もって移動が困難になる。だが春や秋はほどよい暑さ、寒さで雪が降ってこない。熱中症も脱水症状も起こらない。僕らにとって一番、過ごしやすい季節なのだ。
 そんなことを思っていると突然、ガクンッ、と大きくジープが揺れた。砂利の中に埋まっている巨大な石でも踏んだのだろうか。後続のジープに眼をやると、ちょうどそのあたりで大きく跳ねているのがわかる。舗装されていないこの道にはところどころにほんの少しだけ顔をのぞかせている岩や大きな石の塊があり、それらを踏むたびにジープの車体が揺れていた。
 そして二度ほど中規模な衝撃が続いたあと、やっぱり、と声が聞こえてきた。
「やっぱり、普通の道を行ったほうが良かったかな」そう言ったのはとなりの席に座っている隊長だった。
 彼女は僕よりふたつ年上で、迷彩柄の軍服の上下をきっちりと着こなし、頭には赤色のベレー帽をかぶっている。あざやかな金髪を背中のあたりまで伸ばし、いまはなびくその髪を右手で押さえていた。
 僕らは三人乗りのジープで先頭を走っており、運転しているのは友人、僕と隊長は後部座席にならんで座っていた。新しく駐屯することになった街は、いままで駐屯していたところから北に車を走らせて三時間ほどのところにあり、そこに行くにはふたつの道があった。
 きちんと舗装されている道路と、いま走っているこの砂利道である。
「どうですかね」と僕は答えた。
「でも」と運転に専念していた友人が言う。「まともな道を行ってたら、<怪物派>のやつらに見つかる可能性もありますよ。隊長が懸念したとおりに」
 そう、この道を選択したのは彼女だった。まともな道には<怪物派>のやつらが待ち伏せしている可能性があるから、こちらの道を行きましょうと。反対意見は出てこなかった。最近はやつら、自爆テロなんてのもやりはじめているのだ。それなら、多少の手間と時間をかけても、安全な道を選んだほうがいい。そういう思いがあったのかもしれない。
 そうね、と彼女が苦笑した。
「でも、まさかこんなにひどい道だとは、想像以上だったわ」
「まあ、舗装されてませんからね」僕は言った。「人間の手によってまだ汚されていない、ともいえるかな。この自然を破壊して軍事基地を建てるよりは、このままのほうがいいと思いますけど」
「軍人らしからぬ発言ね。正論だけど」
「それに」と運転席の友人も言った。「この道でしかお目にかかれないものもいますしね」
「なに?」と隊長。
「あれです」友人は斜め前に顔を向けて、すぐに正面に戻した。
 僕と隊長がふたり揃ってそちらのほうを見る。
 この道は林にかこまれていて、無数に立ち並ぶ木々のあいだから、生い茂った雑草をかきわけて、一匹のキツネが顔をのぞかせていたのだ。まだ小さい体躯で、親からはぐれたのか、もしくはこのあたりをテリトリーとしている集団の子ギツネなのか、判断はつきかねたが、とりあえず一匹の子ギツネが、興味深そうに首をかしげてこちらを見ていた。
 そちらに軽く手をふりながら隊長が苦笑を浮かべ、言ってくる。
「ずいぶんと物珍しそうな眼で見てるわね、あのキツネ」
「まあ、めずらしいんでしょうね」と僕は答えた。「ジープの集団移動なんて、あまりありませんから」
「なるほど」と彼女。
 実際、道といえないような砂利道をジープが七台も走っているのはめずらしい光景なのだろう。しかもこの道はひどくせまいため、併走せずに一列になって走っているのだ。あの子ギツネからしてみれば、群れをなす動物の大移動に見えなくもないのかもしれない。だが動物が食料と水を求めて移動しているのにたいして、僕らは戦争するために次の基地に向かっているのだ。それを知ったらこの子ギツネはどう思うだろうか。どんどんと遠くなって、やがて見えなくなった子ギツネは僕らをどんな思いで見ていたのか。ふとそれが気になった。
 そういえば、と彼女が聞いてくる。
「なんですか?」と僕。
「きみ、きのうの夜、遅れて酒場にきたじゃない。なにか用事でもあったの?」
 それは、と答える前に「そうなんですよ」と友人が言ってきた。「噂の娼婦と別れの挨拶をしてたんですよ、こいつ」彼の口調は嬉々としていた。
「あの噂って本当だったんだ」彼女が驚いたように言う。
「違いますよ」と僕は首をふった。「娼婦とはなんでもありません。きのうは、自分の部屋で、ひとりで別れを惜しんでたんです」
「ひとりで?」
「そう、ひとりで」
「寂しいやつなんですよ、こいつは」また友人が言ってきた。
「運転に集中してくれよ」僕は言った。「先頭車両が事故なんて起したら、いい笑いものになる」
「なにいってんの」友人が笑った。「おれの腕、知ってるだろ。その気になったら機関銃ぶっ放す軍用ヘリからでも逃げ切れるぜ。なんなら後続のジープみんなぶっちぎってやろうか?」
「いいからちゃんと運転に専念してくれ」うんざり気味に僕は言った。だいたい後続のジープはすべて仲間なのだ。それをぶっぎってどうするつもりなのか。
 そんな会話をしていると、いままで黙っていて隊長が言ってきた。
「でもひとりでいるのって、たしかににきみらしいわ」
「そうですか?」
「そう。なんていうか、そういうセンチなところ、あるもんね」
「そうですか」と僕はうなずいた。それは彼女だからの意見かもしれない、と思っていた。
 あれは一年ほど前だろうか。真夏日で、太陽の光がさんさんと降り注いでいる日、僕と彼女は一度だけ寝たことがある。セミの声がやけにうるさく聞こえてくる午後だった。もともと彼女は歳も近いせいもあってか、上司という感じがしなかった。仲のいい友達、もしくは先輩・後輩、そんな関係だったのだ。肌を重ねたのはその延長線上のことだったのかもしれない。もしくはなにかを埋めようとしていたのか。それはもうわかることがない。だが多分、その行為にはなんの意味もなく、実際、そのあとはなにもなかった。ただお互いに、そう、風に吹かれ、流されるままのさくらの花びらのようにその場の雰囲気に流されての行為だったのだ。もしくは真夏に揺らぐ陽炎が見せた幻のような現実だったのか。すくなくともそのあとの僕たちのあいだにはそんな関係は生まれず、いつもの上司と部下のような友達のようなままだった。結局、あれは夏の日が見せた幻影だったのだろう。僕らはその幻に魅せられて身体を重ねたのだ。いまはそう思っていた。
 不意に、衝撃がジープの固いシートから伝わってきた。また石でも踏んだのか。
「本当にひどい道ね」彼女が言った。
「あとどのくらいでつくんですかね」と僕は聞いた。
「一時間ほどかな」答えたのは友人だった。「スピードを出せば半分の時間でつくけど、どうする?」
「出さなくていいから安全運転してくれ」と僕は言った。「それから、運転だけに集中してくれ」
 友人はハンドルを握りながら器用に肩をすくめてみせた。となりでは彼女がくすくすと笑みを漏らしている。五月のなかば、春が終わろうとしている季節。舞い散るさくらを眺めながら、僕らはジープに揺られていた。


 2.


 街についた僕らは、当然だがまず基地に向かった。
 街の中では人々が色々な感情のこもった眼で僕らを見ていた。だが決していい感情ではなかった。期待は少しであり、ほとんどが不安と嫌悪である。軍隊は絶対正義ではなく、争いやさまざまなものを持ち込む厄介者なのだ。街の人からしてみれば歓迎の対象ではないのだろう。
 ここにきてからベレー帽を目深にかぶった隊長がつぶやいた。
「どこにいっても変わらないわね、街の反応は」
「軍隊なんてそんなものでしょう」僕は言った。「誰も戦争なんてのぞんでないわけですから」
「そうですよ」と運転に疲れてきた友人が同意する。「でも戦わないと<怪物派>のやつらにぜんぶ奪われちまう。だからわれわれ軍人が必要なんです」
「理解はしてるけど、割り切れないわ」彼女は首をふった。これが彼女の軍人としての決定的欠点であり、人間として一番いいところでもあった。
 基地についた。
 やはり街から少し離れたところにあり、敷地内はフェンスに囲まれていて、兵舎の前にジープが七台ほど止まっていた。帆をはずしたジープには軍服を着た兵士たちが乗っていた。彼らはきびしい顔付きをしていた。僕らは敷地内に入り、彼らの前でジープを止めた。隊長が降りていって、先頭車両に乗っている赤いベレー帽をかぶった男に敬礼をする。髭を伸ばした四十代ほどのいかつい男は敬礼を返し、そのまま運転手に指示を出してから、後続のジープに手を振った。示し合わせたようにジープにエンジンが掛かり、隊長のわきを走り抜けて基地から出ていく。砂煙が舞って彼女の金髪をなびかせていた。そしてすべてのジープが出ていってから、僕らは隊長の近くまでジープを走らせて、止まった。
 後部座席から飛び降りた僕は、着地するなり、隊長にたずねた。
「いまの、ここにいたすべての兵士ですか」
「そう」と彼女がうなずく。
「みんなきびしい顔してましたね」
「そうね」彼女の瞳に翳がさした。「彼らの隊は最前線のほうにいくことになってるから。優秀な隊だから、戦場に駆りだされるのよ」
「そうですか」と僕は言った。
 優秀な隊はすぐに前線に呼ばれる。優秀ではない隊は辺地の基地の配属される。つまり僕らのことだ。だが彼女はそのことに悲観しているのだはなく、いずれ僕らも戦場に出なければいけないこと、そこで殺し合いをしなければいけないこと、それにたいして哀しみ、悩んでいるのだった。
 この戦争には勝たなければいけない。これは人類の存続をかけた戦いなのだ。だが戦場で、<怪物派>とはいえ同じ人間を殺すことにたいして、まだ割り切れないでいる。戦況に応じて瞬時に頭を切り替えられる判断力はずば抜けて高いが、彼女はそういう、精神的にもろい部分も持ち合わせていた。それは隊長として致命的な欠点だったが、僕ら隊員からしてみれば、そこが隊長の隊長たる所以だと思っていた。つまり、命令に絶対服従の機械的人間よりも、割り切れず悩んでいるほうが共感でき、ともに戦おうという気持ちになるのだ。戦争に勝つために、という大義があったとしても、人間どうしの殺し合いを平然と受け入れれるよりは、つねにそのことにたいして悩んでいる人間のほうがいい。生命の尊重さを忘れれば、それは人間ではなく、人のかたちをした機械でしかないのだから。
 とりあえず、と僕は言った。
「兵舎に入りましょう。ちょうどお昼どきですし、昼食をとるついでに少し休みましょう。あの砂利道を三時間も走ってきて、みんな身体が痛いでしょうし」
「そうね」と彼女が言った。「たしかに、あのひどい道はジープの固いシートにはきつかったわ。いまもおしりが痛いもの」そう苦笑する顔には、さきほどの哀しみや悩みの色が微塵も感じられなかった。
 彼女が僕に背中を見せて兵舎の中に入っていく。後ろ姿はいつものクールな隊長だった。精神的にもろく、いつまでも割り切れないが、回復が早くすぐに立ち直れる。それは彼女の恵まれた才能のひとつだった。
 いつのまにか僕のとなりに立っていた友人が言ってくる。
「まったく、強いのか弱いのか、どっちなんだかな」彼は僕らの話を聞いていたらしい。
「多分、タフなんだよ」と僕は答えた。
 長い金髪をあざやかになびかせながら、隊長は兵舎の中に消えていっていた。


3.


 夜になった。
 仕事をすべて終えた僕らは、当然のことながら酒場に向かった。隊長も一緒だった。普段はついてこないのだが、きょうは赴任してきた日ということで特別なのだろう。そういえば前の街に来たときも初日は酒場でみんなと飲んでいた。ただアルコールに弱い彼女は誰よりも早くつぶれて、テーブルに突っ伏して眠っていた。あのときは隊員の誰が隊長を部屋まで運ぶかでちょっとした議論をしたことを憶えている。なんだかんだでも若くて美人の彼女は、隊員から人気があるのだった。
 酒場についた。
 兵舎から二十分ほど歩く街のはずれにあるところで、それなりに大きなところだが、それもそうだろう。三十人もいっせいに入れるところは限られているのだから。店は坂道をあがったゆるい丘の上にあって、来た道を振り返ってみると、眼下に街の風景が広がっている。わるくない場所だった。薄い暗闇におおわれはじめた街のところどころで街灯の明かりが光っている。それは真夏の夜空に煌めくホタルの光のようで、暗闇の空に輝く星々のようにさえ見える。もう少し時間が経って、さらに闇が深まれば、街灯の輝きももっと増して、さぞやいい夜景が見れるだろう。そのときまでに酔ってそれを考えられるほどの理性を保っていれば、の話だが。
 店の中に入った。
 右手側に長いカウンターがあり、中央に丸い木製のテーブルがいくつもある。左側には二階に続く階段があり、宿も兼用なのか、二階の長い廊下にはドアがいくつも並んでいた。僕らが入っていくと、軍服を着た男たちがたくさん来たせいでマスターをはじめ、ふたりいるウエイトレスも驚いていたが、隊長が前にでて話をすると、すぐに理解してくれた。ちょうど店をあけたばかりで客は誰もいなく、すぐに僕らの貸し切り状態になった。
 乾杯をしたあと、僕らはまず戦争の話をした。それは軍人にとって宿命といってもいいかもしれない。丸い木製のテーブルに僕と隊長と友人の三人が円になるようにして座り、ビールを片手に話をする。戦時中なので戦争の話題はたくさんあった。この前の戦いではわれわれが勝利した、だが死傷者の数は同じくらいだった、つまり人数にものをいわせた戦法で戦術的に見れば失敗なのよ、最後のは隊長の言葉だった。彼女は仕事熱心で、戦争の話をさせると誰よりも熱心に語った。
 やがて酒の量が増えてくると、誰かが歌いだし、戦争の話はやめとなった。せっかくの酒の席にそんな血生臭い話はよそうぜ、と誰かが言ったからだ。それから僕らは陽気な話をした。そして歌った。われわれの勝利を称える軍歌だった。そのころには酔いつぶれた隊長がテーブルの上に突っ伏して眠っていた。彼女を誰が部屋まで運ぶかでまた議論が起こりそうだったが、そのことは気にしないと心掛けた。
 僕はいまカウンターで飲んでいた。
 友人は別のテーブルに移っている。おそらく狙撃手と砲撃手と一緒に飲んでいるのだろう。もしくは戦車兵か。大酒のみで悪酔いすることが唯一の欠点だが、彼は陽気で人当たりもいいので誰からも好かれるのだった。
 ウイスキーを口に運んだ。
 そのとき、僕のとなりにウエイトレスのひとりが腰を下ろしてきた。この酒場は家族で切り盛りしているところで、マスターが父親、ふたりのウエイトレスが母親と娘だった。そしてとなりに座ったのは娘のほうだ。彼女は二十歳前半ほどで、長い黒髪を首の後ろでひとつにまとめていた。そして美人だった。隊長とは違うタイプの美人で、隊長をどこか棘のあるバラに例えるのなら、彼女にはヒマワリのようなまっすぐな明るさがある。だがその花はいましおれているように見えた。つまり疲れているのだ。各テーブルに酒を運び続けて疲労したのだろうか。
 声を掛けた。彼女がこちらに顔を向けてくる。
「こわくなかった?」と僕は聞いた。どの街にいってもかならず軍人はこわがられるからだ。
 だが彼女は「こわくなかったです」と首をふって答えた。「軍人のかたってこわいというか、威張っているイメージがあったんですけど、ここの隊の人たちはそういうのがなくて、みんな楽しい人たちでしたから。軍人ってみんなこうなんですか?」
「それぞれの隊によるね」僕は答えた。「でもこの隊はその中でも特別だと思う。隊長の影響が大きいからだと思うけど」
「隊長って、あのきれいな女のかたですよね。凄いですね。女性で隊長って」
「それだけ優秀なんだよ」僕はそう言ってテーブルに突っ伏して眠っている隊長に顔を向けた。「まあ、アルコールには弱いけどね」
 彼女が小さく笑った。
 その微笑は、夏の季節に太陽に向かってまっすぐ伸びるヒマワリのように希望と活気に満ち溢れていた。
 それから僕らは話をした。
 彼女は活発としていて賢かった。歌手になるのが夢と言っていた。そのためのレッスンも受けていて、たまにこの酒場で歌っているという。夢を語っているその顔は希望の光で溢れていた。この戦時中で、こんなに眩しい表情ができる人間は少ない。おそらくこの先に続く未来には不安ではなく、希望という明るい光があることを心から信じて疑っていないのだろう。かすかに胸が痛んだ。なぜなら彼女の未来の明暗は僕ら軍人によってまったく別のものに変わってしまう可能性があるのだから。
 そんなふうに彼女と話をしていて、飲んでいたウイスキーをすべて飲み干したとき、僕のとなり、右側に彼女がいるので、左側に友人が腰を下ろしてきた。彼はひどく酔っ払っていた。コップで飲むのがわずらわしくなったのか、右手にはビール瓶を持っている。直接それに口をつけてラッパ飲みをしているのだ。
 ビール瓶をカウンターに置いて彼が言ってきた。
「よう友人、こんなところでなに口説いてるんだ?」
「口説いてないよ」僕は首をふった。
「そう。口説かれてたんです」彼女が嬉々として答える。どうやらジョークが通じるらしい。
「おいおい、またかよ」友人が呆れるように大きく肩をすくめた。
「またってなんですか?」彼女が興味深そうに聞く。
「なんでもないよ」僕は言った。だがふたりの会話は止められなかった。
「こいつは前にいた街でも女を口説いてたんだ」友人が言った。「しかもそいつは娼婦でね。おれはやめたほうがいいって止めたんだけど、こいつはその娼婦に夢中になっちまった。それで毎日、彼女に会うためだけに娼館に出入りしちまって、結構な額の金を貢いでた経験があるんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「しかもそれだけじゃない」さらに友人が続ける。
 僕はもう半分も聞いていなかった。左側にいる友人の言葉は僕の左耳から入って、そして右耳から出てきて彼女のもとに届くようになっているのだろう。僕をはさんでふたりだけで会話をしていた。友人は感心するほど僕の噂話にさらに尾ひれをつけて話している。唯一の救いは彼女がジョークの通じる性格をしているということだろう。笑い声を上げる彼女は、友人のつくったホラ話を楽しんでいるようだった。
 やがて友人が別のテーブルに移っていった。嵐が過ぎ去ったあとの静寂が訪れた気分だった。
 僕は言った。
「信じてないとは思うけど、彼の話は全部でたらめだから」
「あ、はい。わかってます」と彼女がうなずく。「でもおもしろい人ですね」
「ネタにされるほうはそんなにおもしろくないけどね」
 僕は肩をすくめて言った。
 彼女が微苦笑を浮かべる。そのときまた友人が戻ってきた。今度は両手にビール瓶を握っていた。またかと僕はうんざりした。だが彼は想像していたこととは違うことを言ってきた。
 友人は僕の左となりに座って言った。
「なあ。そろそろ帰ろうって話になったんだけど、隊長、どうする?」
「どうするって、連れて帰るしかないだろう」僕は答えた。
「でもまだ眠ってるぜ。あれはなかなか起きそうにない」
「ならおんぶでもしていくしかないだろうね」
「誰が?」
「誰かが」と僕は答えた。
 友人がなにかを言おうと口をひらく。だがそれよりも早く彼女のほうが口をひらいていた。
 あの、と言ってくる。
「もしよければ、ここに泊まっていきますか?」
「ここに?」と僕は聞いた。
「はい」と彼女がうなずく。「うち、宿も兼用ですから。二階の部屋もちょうど空いてますし」
 僕と友人は顔を見合わせた。


 4.


 すぐ後ろから寝息が聞こえてきていた。
 あのあと、彼女の申し出を断って、僕らは隊長をおんぶして帰ることにした。本当は泊めていってもよかったのだが、さすがに隊長ひとりを残して帰るのは気が引けると隊員が言い出したので、連れて帰ることにしたのだ。そのときちょっとした問題が起きた。誰がおんぶをするのか、である。みんな飲み過ぎていて、まともに歩けなくなっていたからだ。僕らは話し合いをして、その結果、一番、酔っていない隊員がおんぶをするという結論に達した。
 つまりは僕である。
 仕方なく、友人の手を借りて、眠っている隊長を起さないようにおぶった。そしてその軽さに驚いた。たしかに普段から細く見えるが、それでも軍人なのだ。きびしい訓練のせいで一般的な女性よりは筋肉がついているし、骨格もしっかりとしている。さらに身長も平均より高く、僕の目線が彼女の頭のてっぺんなのだ。だが背中に感じるぬくもりの重さは、ちゃんとごはんを食べているのか疑ってしまうほどに、軽い。おんぶをして歩きながら、少しだけ彼女の体調のことが気になった。
 深夜の街は静かだった。
 まるで静寂という暗闇のカーテンにつつまれているように、闇の中で僕らが歩く音しか聞こえてこない。もともとこの街はそれほど活気のあるところではなかったが、それでもこんなに静かだと、まるで街の中がさびれてしまったのではないかという錯覚さえしてしまう。暗闇には街灯の明かりだけが燈っていて、深夜だからか、どこの家からも光がもれていなかった。前にいたところは深夜でも人が歩き、光があったが、ここではまったく違う。夜は、本当の夜として、闇と静寂だけに支配されているのだ。いやもしかしたら、風と草木の揺れる音だけが聞こえてくるこの暗闇こそが夜の本質なのかもしれない。
 そんなことを思っていると、ならんで歩いている友人が声を掛けてきた。
「なあ。お前さん、あの娘に惚れただろ」
「あの娘って?」僕は聞いた。
「酒場の娘さ」友人は言った。「なんとなくだけど、そんな気がするよ」
 僕は首をふった。肯定でも否定でもない態度だった。
「あれはいい娘だ」友人が続ける。「話してみて感じたが、彼女には絶望ってものがない。不安ってのもない。つねに希望を持って生きている。いつも暗い顔してるお前にはぴったりだと、おれは思うぜ」
「そんなに暗い顔してるかな?」
「してる。軍人って職業のせいかもしれないけど、いつ死んでもいいって顔してる。いつどこで誰かに殺されてもいいって、覚悟してるんじゃなくて、どこか諦めているような顔だ」友人はめずらしく真面目な口調だった。「だからさ、そんなお前には、彼女みたいな明るい女性があってると思う」
「そうかな」僕はつぶやいた。
「まあ、決めるのはお前さんだけどな」友人は言った。
 それからは無言で歩いた。
 いつ死んでもいいって顔。友人の言葉が頭の中によみがえってくる。たしかに、つねにそう思っていた。それは軍人として当然のことだと思うし、そんな覚悟をいつも持っていた。だがそれがまわりには諦めと映っていたのだろうか。そういえば隊長にも言われたことがある。きみはいつも曇り空のような表情をしている、と。あれはそういう意味だったのか。
 歩きながら空を見上げた。
 夜空には、散らしたように星々が光っていた。前にいた街よりもこちらのほうがより煌めいている気がする。だがそのぶん、赤い月もまた妖しく輝いていた。血を連想させるそれは不幸の象徴にさえ見える。あれが現れてから、戦争が起こった。そして軍人が前線にでて戦うことになった。僕も何度か戦場に出たことがある。耳をつんざく銃声。鼻をつく硝煙の匂い。戦車の砲撃の威力と地響きがしそうなほどの衝撃。塹壕に隠れて銃弾から身を守った。雨嵐のように降り注いでくる銃弾が土を削り、飛び散らせ、死というものをいやにでも感じさせる。砲撃の衝撃が地面を揺らせ、爆発する砲弾が土砂を撒き散らせながら、戦場を大きく抉る。そこには死が充満していた。緊張を切らせば、集中を怠れば、銃弾に撃ち抜かれ、砲弾に吹き飛ばされる。そんなふうに死んでいった仲間を何人も見てきた。そこで気付いた。死はすぐそこにあるのだということを。つねにとなりにひそんでいて、気を抜いたときにひょっこりと顔を見せて、肩を叩くということを。
 そう、死は不可視の空気として、つねに充満しているのだ。
 あの赤い月が不幸の象徴に見えるのはきっと見間違いではないのだろう。あれが現れてから大量の血が流れることになった。まるで月が人間の血を求めているかのように、流れる血を吸っているかのように日に日に赤が深くなっていっている。血を連想させる深紅は不幸の象徴として夜、つねにそこに現れる。まるで人間どうしの愚かな戦争を嘲笑うかのように、平和への祈りを血色に染め上げるのごとく。
 背中から聞こえてくる穏やかな寝息だけが、唯一の救いのように思えた。


 5.


 春が過ぎて、夏がきた。
 相変わらず戦争は続いているものの、僕らがいる北の大地は辺地なので、まだ戦火は広がってきていない。だがいまの戦況、情勢から見ても、この地の平和が続くのは今年いっぱいが限界だろう。来年にはここも戦場と化し、いずれこの世界すべてが戦争という巨大な嵐の渦に巻き込まれる。そしてその嵐が過ぎ去ったあと、その地に残っているのは、吹き飛ばされたのはどちらだったのか、すべてに決着がつく。そう、答えがでるのにはあと少しの時間しか残されていないのだ。だからか、もしくは楽観的なのかは知らないが、僕らは戦争のことを気に留めず、もしくは知らないふりをして、最後になるであろう、平和な夏を楽しんだ。
 まず近くにある港にいって、みんなで釣りをした。
 ロッド(釣り竿)は兵舎の物置にあったので、あとは餌のミミズを調達してきて、どちらが早く釣れるか、どちらが多く釣れるか、などと競い合って楽しんだ。そこには隊長も来ていて、一緒に釣りませんか、と僕らは誘ったのだが、ミミズに触るのがこわいのか、もしくはいやなのか、わたしはいいわ、と断られた。きびしい訓練やきつい任務には積極的なくせに、こんなことになると途端におよび腰になってしまう。さらに女性だからか、とくに虫のことを非常に苦手としていた。だがそんな人間的なところが部下から慕われている要因のひとつなのだろう。なんでも完璧でどんな残酷な任務でも冷徹に非情に遂行する機械的な軍人よりは、苦手ものは素直に苦手といえるほうが人情味がある。冷酷さよりは人間味。軍人として求められるのは前者だが、部下が求めるのは後者のほうなのだ。
 そんなことをして僕らはそれなりの釣果を上げ、釣った魚を兵舎で調理して食べた。ミミズは触れないのに、魚は平気で捌けるらしい。料理をしたのはほとんどが隊長だった。隊長みずからに魚を捌かせるのはどうなのかと思ったが、僕ら男どもはまったく料理ができないため、必然的にそうなってしまったのだ。だが彼女も嬉々として調理していたため、それはそれでよかったのかもしれない。上司でありながら、まったく上司らしくないところも彼女の魅力のひとつであり、部下が言い寄ってくる原因でもあった。
 僕はそのほかに、酒場の娘とも釣りに出かけたときがある。
 この街には娯楽施設がほとんどなく、遊びは大抵、アウトドアに求められるのだ。それで酒場の娘を誘い、ふたりで釣りに出かけたのだった。
 彼女はやはり活発としていた。港で多くの漁船が停泊しているのを見て、トローリング(船釣り)をするものだと勘違いし、まったく知らない漁船に乗り込もうとしていた。釣りをする前からテンションが最高潮に達していた。いざ釣りをはじめようとしても、隊長のように餌のミミズをこわがったりせず、むしろ積極的に針に餌をつけ、釣りを楽しんでいた。だがこの日はまったく釣れなかった。ルアーがピクリともう動かなかった。波の流れにゆらゆらとただ漂っているだけだった。まるで空を流れる雲のように。僕らはどれほどの時間そうしていたか。やがて太陽が真上から斜めにかたむきはじめたとき、彼女のルアーが沈んだ。掛かったのだ。だがそれを釣り上げようとしたとき、突然、雨が降りはじめてきた。最初はポツリポツリと、だがすぐにそれは大粒の激しいものになり、僕らは釣竿をその場に残してジープの中に避難した。彼女は魚の掛かった竿を気にしていたが、雨の強さに渋々ながらも走り出した。
 僕らはジープの中で雨宿りをしていた。
 タオルなんて持っていなかったのでふたりともびしょ濡れだった。濡れた前髪がひたいにはりついて、雫がほほを伝ってあごから落ちていく。濡れた服のせいでジープのシートもびしょびしょになっていた。僕は、大丈夫だった?、と問い掛けようと、となりにいる彼女に顔を向けた。するとちょうど彼女のほうもこちらを見ていて、互いの眼が合った。濡れた黒髪のあいだから見えるその瞳は、純真な色をまとっていた。それはいままで見たことのないくらいの純粋さだった。まるで真夏の快晴の空のようにいっさいの濁りがなく、どこまででも突き抜けるように澄み切っていた。その瞳を見つめていると、心の中になにかが生まれてくるものを実感した。
 そう、このときはじめて僕は、彼女に本気で恋をしていることに気付いた。
 見つめ合い続ける。いままでの恋愛はどこか刹那的で、例えるのなら短距離走のように瞬間的にはじまり、一瞬で終わるようなものだった。それは軍人という職業上、いつ死ぬかわからない、だから悔いのないようにと、すぐにすぐに求めすぎたせいでもある。だが彼女との関係はそうではなかった。少しずつ、少しずつお互いのことを知っていき、まるで複雑なパズルのように、ひとつずつひとずつ確実にピースを埋めていく。そんな時間は掛かるが、それでもしっかりと確実に同じ方向に向かっている関係が築き上げられていた。無意識のうちにお互いの顔が近付いていく。
 いつのまにか雨は上がっていた。
 これは夏の日のとおり雨なのだろう。刹那的に降り、一瞬に去っていく。あとに残されるのは局部的な水たまりと、空に掛かる虹だけ。そしてそれは、僕と彼女の心をつなぐ、七色に光る虹の橋でもあった。
 そんなふうに夏は過ぎていって、そして秋が訪れる前、小さな事件が起きた。
 釣りにも飽きてきた僕らは、訓練が終わったあと、遊びでボクシングをやるようになっていた。グローブは八オンス(試合用)だったが、ヘッドギアをつけていたのでたいした怪我もしなかった。やがてそのボクシングは隊の中で賭けの対象になっていき、いつしか賭けボクシングとして定着していった。ボクシングは軍用格闘技のひとつとして習得するのが義務付けられていたので、個人の対格差による有利不利はあっても、技術的には同等だったので、いつも賭けそっちのけで白熱した試合が展開されていた。
 事件が起きたのはそんなときだった。
 その日は僕が戦車兵から3RTKO勝利し、友人と砲撃手との試合は白熱した殴り合いになっていた。お互いにファイタータイプで、短気で、やられたらやり返す性格なので、このふたりが戦うといつも熱い試合になる。まわりにいる仲間も声援を送っていた。そして2ラウンド、残り三十秒ほどのところで友人が優勢に立った。砲撃手の左ジャブに右のフックを合わせたカウンターパンチがクロス気味に顔を捕らえたのだ。砲撃手はオーソドックススタイル(右構え)で友人はサウスポースタイル(左構え)だった。左ジャブに右を合わせやすい構えなのだ。そして友人はファイターでありながらカウンターが巧く、その一撃もヘッドギアをしていなければダウンしているほどの強烈な一発だった。砲撃手が下がる。友人が追う。右から左のコンビネーション。ワン・ツーだ。砲撃手が両腕で顔を隠すようにガードする。衝撃音が響く。友人の返しの右フック。それに砲撃手が反応した。頭を下げ、ダッキングという上体を沈めるディフェス・テクニックで右フックを避けると同時に、右のストレート。カウンター、完璧なタイミングだった。ヘッドギアをしている友人の顔の真ん中を打ち抜いて、血が飛び散った。後方にダウンした彼の鼻は右側に折れ曲がっていて、そこからとめどなく血が溢れ出ていた。僕らはすぐに駆け寄って、応急処置をして、医者に連れていった。やはり友人は鼻を骨折していた。そのことを隊長に報告すると、怒られるかと思ったが、いつもと変わらずのクールさで、仕方ないわね、と苦笑しただけだった。処罰も受けなかった。ただ彼女は賭けボクシングの禁止と、友人に怪我が治るまでの謹慎と禁酒を言い渡した。その程度ならたいしたことはないと思っていたのだが、彼にとってそれはこの世でもっともきびしいことだったらしい。
 いつだったか、僕は彼の見舞いに行ったことがある。
 兵舎の自分の部屋の中でつまらなそうにしていた友人は、まだ怪我が癒えていないのか、鼻にガーゼを当ててテープで止めていた。出血はなくなったが、まだ鼻が折れ曲がっているらしい。椅子に座ってその背もたれに全体重をあずけた彼は、せっかくの男前が台無しだよ、と嘆いていた。
 僕はベットのふちに腰を下ろして、小さく笑って相槌を打ちながら言った。
「でも処分が軽くてよかった。もっと重い処罰を受けると思ってたよ」
「おいおい、処分が軽いだって?」友人がこの世の終わりのような声を上げた。「謹慎はともかく、禁酒はおれにとっちゃあ、世界で一番つらい処罰だぜ。まったく、隊長もえぐいこと考えるよな。おれに酒を飲ませないなんて。もう一週間も飲んでないから、手が震えてきちまってるよ」たしかに彼の手は小刻みに震えていた。
「きみは普段から飲みすぎなんだよ」僕は言った。「いい機会だから、これからずっと禁酒したら?」
「そいつは無理な相談だぜ、友人。もうおれはアル中の一歩手前まできちまってるからな。飲まずにはいられないんだ」
「ひとつ、聞いてもいいかな」僕は真剣な口調で問い掛けた。
 その雰囲気になにかを感じ取ったのか、友人の顔も真面目なものになる。
 この男はもともと勤勉で熱心な神教徒だったのだ。だがいつのころからか、神への忠誠を放り出し、溺れるように酒を飲むようになった。なにか原因があるはずなのだが、そのことは誰も知らない。親友である僕もいままで聞いたことがない。だがいまこのときが、それを問いただすいい機会のように思えたので、真剣な口調、雰囲気にになったのだ。
 僕は聞いた。
「きみはもともと、熱心な神教徒だった。だがいまではアル中の一歩手前のところまできている。それにたいしてわるいとは思わないけど、そうなった理由があるはずだ。そのことを聞きたい」
「それは」と言い掛け、彼は口をとじた。
「べつに強制はしないよ」僕は言った。「ただ興味を覚えたから聞いただけで、無理にでも聞こうとは思わないし、話したくなければ話さなくてもいい」
 友人は無言だった。その顔はアル中の一歩手前の人間のものではない。人生という複雑で長い迷路に迷い込み、そこから出れなくなってしまった人間の表情だ。僕はもしかしたら聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。もしかしたら彼の心の中にあるなんらかの傷口を抉ってしまったのかもしれない。
 そんな反省をしていると、ゆっくりと友人が口をひらいた。
「むかしの話さ」彼は言った。「たしかにおれは熱心な神教徒だった。ミサにもいっていた。あのときは本当に神がいると信じていたんだ。祈り続ければ、この戦争はわれわれの勝利で終わるだろうと、神が終わらせてくれると信じていた。そんなときだったかな、彼女に出会ったのは。ミサのために教会にいってね、そこで見つけたんだ。シスターをしている彼女を」
 そこで友人は自虐的な笑みを浮かべた。言葉を続けてくる。
「彼女も熱心な神教徒だった。そしてうつくしかった。シスターをしているせいもあっただろうけど、それをのぞいても彼女には純白な清純さがあった。それでおれは意を決して話しかけたんだ。お互いに熱心な神教徒ってこともあってか、自然と話はかみ合った。そのとき感じたよ。ああ、おれは彼女に一目惚れしているんだなって。それでおれは毎日のように教会に通った。いつのまにか、ミサのためではなく、彼女のためだけに教会にいくようになっていた」
 友人の顔が下を向く。彼の両手はまだ小刻みに震えていた。
「それである日のことだ。おれは彼女をデートに誘ったんだ。一緒に映画を観に行こうってね。彼女はオーケーをしてくれた。彼女のほうもまんざらではなかったと思う。それでおれらは映画を観に行って、その帰りだった。いきなり誰かが発砲しはじめたんだ。最初はわけがわからなかったよ。でもすぐに<怪物派>の連中だと理解した。おれは彼女と一緒に近くに停まっていた車を物陰かわりに隠れて、やつらが消えるのをまっていた。本当は応戦したかったんだが、そのときはおれは拳銃を持っていなくて、やつらは突撃銃をぶっ放していた。ひどいもんだったよ。車の窓ガラスが破裂して、建物の壁には銃弾が撃ち込まれ、無差別に通行人が撃たれた。破片が散乱して、血があちこちに飛び散ってた。まるで地獄絵図みたいな光景だったよ。で、おれと彼女はそんな中を車の陰にずっと身をひそめて隠れていた。やつらが過ぎ去るのをまっていたんだ。そんなとき、おれらのそばに撃たれた通行人が倒れてきやがった。そいつは瀕死に見えたがまだ息をしていた。だがおれはそいつのことを無視した。兵士として、そいつがもう助からないのはわかっていたし、車の陰から身をだすのは危険だと判断したんだ。だが彼女は違っていた。彼女はシスターとしての判断をしたんだ。つまり、そいつを助けるために車の陰から出ちまったんだ。おれは手を伸ばしたがちょいと遅かった。やつらが無造作に乱射した突撃銃の一発が、運わるく、こういう言いかたは不謹慎かもしれないが、それでも運がわるいことに、彼女の胸に当たった。貫通したんだ」
 そこで言葉は途切れた。
「それで?」と間違いのない結末を予想しながらも僕は聞いた。
「死んだよ」彼は言った。「即死じゃなかったが、やつらがいなくなって、救急車がきたときにはもう、息をしていなかった。そのとき思ったんだ。いや、悟ったっていったほうがいいのかな。とにかくおれはわかったんだ。この世には神なんていないってことに。もし神がいるのなら、あれだけ熱心なシスターを死なせるはずがない。それでおれは神教徒をやめて、つまり神のことを信じなくなって、酒に溺れた。最初は現実逃避だったんだ。彼女が死んだという現実を、酒を飲んでいるあいだは忘れられる。だから飲み続けた。それで気付いたときには、もう、アルコールなしでは生きられなくなっちまってた」
 つまりそういうことさ。彼はそう締めくくった。むかしの話さ。
 今度は僕が無言になっていた。やはり僕は彼の心の傷を、いまだに癒えていないその傷を抉ってしまったらしい。ちょっとした興味心で、とじかけていた古傷を思い出させ、さらに抉り広げてしまった。うつむいている友人の心臓からは、不可視の赤い血がとめどなく流れているようにも見える。
 僕は頭を下げて謝った。
「わるい。つらいことを思い出させて」
「べつにいいさ」彼は無理して笑った。それは泣き顔のように見えた。
 友人が無造作に伸ばしたあごの無精髭に手をやる。それから真剣な顔つきになった。滅多に見られない表情だ。なにかを決意したような光も眼にある。古傷のような過去をすべて告白したせいで、彼の中にあるなにかになんらかのきっかけができたのかもしれない。
 友人は真面目に言ってきた。
「それよりも、謹慎を受けて時間ができたせいか、おれは最近、よく<怪物>のことを考えるようになったんだ」
「同じだね」と僕は答えた。
「同じ?」
「そう。僕も<怪物>のことを考えていた。あいつはなんなのか。どこからきたのか。なにが目的なのか。そして」
「あいつの正体は、だろ?」友人が言った。
 僕はうなずいた。
 赤い月と同時に出現した<怪物>。その正体は誰も知らず、誰もその姿を見たことがない。僕らはともかく、<怪物派>のやつらでさえ詳しいことは知らないのだ。それでもやつらは<怪物>のことを絶対的なもの、唯一無二のものとして崇め、敬愛し、尊敬している。その姿はまるで、ある種の集団にさえ似ている。絶対的な存在を絶対の正義と信じ、その教えがすべてだと思い込んでいる集団。やつらはそれにそっくりなのだ。いや、もしかしたらやつらはそうなのかもしれない。
 僕と友人は同時に声を出した。
「<怪物>の正体は」


 6.


 暑い夏が駆け足のように過ぎていって、秋が訪れた。
 基地のまわりにある木々には赤い葉が見えはじめている。それは本格的な秋の到来を感じさせるものだった。まだ肌寒い時期ではないが、いずれ寒くなるだろう。北の大地は冷えこむのが早い。秋が来たと思ったらすぐに雪が降り出してきて、あっというまに冬になる。四季の移り変わりは戦場を飛び交う銃弾のように速いのだ。
 だが季節が変化しても、僕らの隊はなにも変わらない。相変わらず訓練が終わったら、みんなで酒を飲んで、遊ぶ。そんな変わらない日常の繰り返しだ。ただその中でも少しずつ変わっていくものがあって、それは友人の鼻が治ったことであり、僕と酒場の娘との距離がほんのちょっとずつ近くなっていたことでもある。変わり映えのしない毎日でも眼に見えない範囲で変化していっていて、相変わらずクールな隊長も、浴びるように酒を飲む友人も、つねに明るい彼女も、それ以外の隊員でも、季節が移り変わるように、葉っぱが紅色に染まっていくように、少しずつ、少しずつ変化していっているのだ。
 そしてそれはこの北の大地にも当てはまる。
 夏が終わるころ、なにもなかったこの街の中央通りに、建設中だったカジノがついに完成したのだ。そこはこの街で唯一の娯楽施設であり、ギャンブルだけでなく、ダンス・ホールもあって、夜はいつもロックがうるさいほどにかけられていた。当然、若者はそこに集まるようになり、僕らもよくいった。もちろん踊るわけではなく、ギャンブルをしに、である。ルーレットからポーカー、ブラックジャックにスロットとある程度そろっていて、僕らがよくやったのはスロットだった。ディーラーが参加するゲームはイカサマをされる可能性があるが、機械相手に試されるのは自分の運と眼の良さ、目押しできる動体視力だけだからである。僕らはボクシングによってそれを鍛えているので、大抵、絵柄を三つ揃えることができ、いい小遣い稼ぎをさせてもらっていた。
 そしてその日も、僕らはカジノに来ていた。
 今回のメンバーは僕に友人、隊長に酒場の娘、それに隊員数名である。このころになると僕と彼女との関係は隊のほとんどの人間に知られていて、連れてくるのは普通のことになっていた。ただ、ときおり向けてくる隊長の意味深な視線が気になっていた。カジノの中に入ると、店内は七色のライトによって煌びやかに演出され、大音量でロックが流れていた。奥にあるダンス・ホールのほうではすでに若者たちが狂ったように踊っている。隊員たちは酒を飲んだのち、そちらのほうに踊りにいった。隊長はギャンブルをせずにカウンターでひとりで飲んでいて、友人はルーレット、僕と彼女はスロットをやった。
 目押しでストップ・ボタンを押す。この台は1から9までの同じ数字を横一列に並べるシンプルなもので、配当は低いものの、よく揃わせやすかった。一時間ほどやって、彼女のほうは掛け金のややマイナス、僕のほうは二倍ほど稼いでいた。やはり目押しができる、できないだと、差が出てくるものなのだ。ころあいを見計らって、彼女が声を掛けてきた。カウンターで飲みましょう、という問い掛けだったので、いいよ、とうなずいて席を立った。そのとき、ルーレットのほうから歓声が聞こえてきた。そこには友人がいるはずだ。彼がなにかしたのだろうか。ふたりで近付いていくと、歓声を聞き取ったのか、グラスを片手に持った隊長も、どうかしたの?、と駆けつけてきた。さあ、と首をひねって、人込みをかきわけて、座っている友人に近付く。隊長が、あっ、と声を上げた。それがすべての答えだった。
 ルーレット台のそばに座っている友人の前には、コインが高く積み上げられていたのだ。金色のコインがきらきらと輝くそれはまるで金の山のようにさえ見える。僕らに気付いた彼は、やっちまったよ、と唇を震わせてつぶやいた。どうやら残った金を一発勝負のオール・オア・ナッシング(赤か黒か)に賭けて、当たったらしい。そこに積み上げられているコインの山は、僕ら軍人の月給の倍はあるだろうか。彼女と隊長が顔を見合わせる。僕は唖然として声が出てこなかった。きょうはおれのおごりだぜ。笑いながら彼は言った。
 それからギャンブルをやめて酒を飲みはじめた。どれほど飲んだかはよく記憶していないが、とりあえず飲んで踊って、そして隊長が酔いつぶれたころ、僕らは帰ることにした。おごりというとおり、勘定はすべて友人が払った。たまにはこんな日もいいな。彼は笑いながらそう言った。
 外に出る。
 ちょうど夕陽が沈みかけたときで、あたりは薄暗くなっていた。吹く風も冷たくなっている。店を出るほんの前に復活した隊長とほかの隊員は基地に、僕と友人は彼女を家まで送ることにした。友人はそのあと酒場で飲み続けたいだけなのだろうが、そのことについて隊長は、仕方ないわね、と微苦笑をしただけだった。きょうだけは、彼はなにをしても許される日らしい。ふらふらして危なっかしい足取りの隊長とそのまわりを囲む屈強な隊員たちが基地に向かって歩くのを見てから、僕らも反対方向に歩き出した。まだ夕刻を過ぎたほどの時間なのに、中央通りから離れると、人の数が少なくなる。カジノができて盛り上がったのは街の中央だけで、そこから少しでも離れるとやはり活性のなさが見えてくるのだ。
 僕らは世間話をしながら歩いた。友人とふたりきりのときは戦争のことが話題の中心になるのだが、いまは彼女がいるせいか、血生臭い話はしない。まだ歌手になることを夢見てレッスンに通っている彼女には、こちら側が不利になってきているということは知らせないほうがいいのだろう。すぐそこまで戦火がやってきているということも。
 そんな他愛ない世間話をしていると、すれ違った通行人、四十代くらいの男がふと足を止めた。肩がぶつかったかと思ってその男に小さく頭を下げようとしたとき、僕の視界にもその光景、男がなにを見て足を止めたか、その理由がわかった。
 大きくひらいた眼を血走らせ、あきらかに麻薬の禁断症状がでているような表情を浮かべたまだ若い男が、ふらふらとした足取りながらも、停留所にとまっているバスに乗り込んだのだ。もちろんそれだけでは問題はない。問題はそのあと、乗客がすべて降りたバスの中に運転手とふたりきりになったときだった。男はいきなり運転手を殴り倒すと、そのままバスの入り口まで引きずり出して、鼻と口から出血している運転手を蹴って放り出したのだ。それから運転席に座る。エンジンは掛かったままだ。いやな予感が走った。戦慄に近いそれは、やはり当たってしまった。
 いきなりバスが暴走をはじめたのだ。
 おそらく男はアクセル・ペダルを思い切り踏んでいるのだろう。猛スピードで発進したバスは対向車線に飛び出すと、そのまま大きく車体をかたむけながらUターンをした。タイヤが高速の摩擦で軋む音が響く。対向車線を走っていた車はブレーキをかけながらハンドルを切るが避けきれず、暴走バスに車体の半分をぶつけ、その衝撃で派手な音を立てて横転した。窓ガラスが破裂し車体がひしゃげる。そこに後続の車もつぎつぎと激突していき、破壊音が重なり、ついには最初に横倒しになった車がひっくりかえって爆発する。響く轟音と一瞬の閃光。衝撃が大気を震わし、地面が振動する。そして猛る紅蓮の炎。玉突き事故による車の塊から、暗がり空に向かって炎が勢いよく燃え上がり、黒煙が空をおおう。夕暮れときの空は赤い炎によってオレンジ色に染められていた。
 その紅蓮の炎の中から現れる暴走バス。
 車体はところどころがへこみ、炎によって焦げているが、それでも運転席にいる男の眼は、いまだに狂気に彩れている。それを見て確信した。この男は<怪物派>の人間だ。僕は腰の横に下げているホルスターから拳銃を引き抜こうとした。だがそれよりも早くバスが発進する。
 猛スピードでガードレールを突き破り、歩道に侵入する。そのまま逃げまどう歩行者をあざ笑うかのように、看板を破壊し、街路樹をへし折り、暴走を続ける。こだまする悲鳴。僕らはそのあとを追った。バスが街灯のひとつに正面から激突して、鈍い衝突音を響かせながらやっと止まる。前面が大きくひしゃげ、フロントガラスが割れ散った。だが街灯が崩れ倒れたあと、ふたたびバスが動き出そうとする。まだ暴走し足りないのだろうか。僕は拳銃を引き抜くと、タイヤに向かって二発、撃った。銃声が響き、薬莢が跳ね飛ぶ。一発目は地面に当たりコンクリートを弾けさせただけだったが、二発目は狙いどおりタイヤを撃ち抜いた。轟音のようにエンジンを響かせて走りだそうとするバスの車体が大きくかたむき、それでも横転せずにかたむいたまま走りだす。だがハンドルがきかないのか、すぐに街路樹をへし折り、また街灯にぶつかって派手に横転し、そのまま宝石店に真正面から突っ込んだ。
 衝撃、破裂、轟音、破壊。
 誰もが息を呑んでいた。ガラス張りの扉が派手な音を立てて割れ散り、あたりに吹き飛ぶ。僕と友人はその破壊された扉から店内に入った。彼女は集まってきた野次馬たちの最前列で、両手で口元をおおっている。バスはまるで暴風雨のように店内を荒らしていた。ならべられていた宝石類は衝撃で宙を舞い、床に飛び散っている。壁や柱にもひびが走り、店内にいた従業員は驚愕の表情で腰を抜かし、青褪めた顔でその場にしゃがみ込んでいた。ところどころがひしゃげ、窓ガラスがすべて割れた横転したバスからはなんの動きも見られない。
 友人が言ってくる。
「運転してたやつ、気絶でもしてんのかな」
「それだけならいいけど、最悪の場合、死んでる可能性もある」
「結構ぶつかってたからなあ」友人は気楽そうな口調で言った。「まったく、鼻が治ったばっかりだってのに派手な事件おこしやがって」
「リハビリにちょうどよかったじゃないか」
 僕がそう言って、さらに友人が言い返そうとしたとき、バスの割れた窓ガラスから男が這い出てきた。
 どこかにぶつけたのか頭から出血し、肩を大きく上下させている。呼吸音もおかしい。さらに割れ散った窓ガラスの破片で切ったのか、破けた服から見える腕からは血が流れている。もともとふらついていたが、さらに足取りもおかしくなっていた。だが垂れた前髪と流れる血のあいだからのぞく、その血走った眼は相変わらず狂気の光を放ち続けている。
 友人が男に近付こうと一歩を踏み出した。僕はまだいやな予感がしていたので拳銃を握ったままだ。男が腰のあたりに手をやる。そこで違和感を感じた。男の胴回りが太いことに。それはただ脂肪のせいでそう見えるのかもしれないが、左右の脇腹にはおかしな四角いふくらみがある。僕と友人がそれに気付いたのは同時だった。
 踏み出した足を止めて、振り返った友人が、逃げろっ、と店外に集まっている野次馬たちに叫ぶ。男の腰には爆弾がくくりつけられているのだ。バスで暴走したのちの自爆テロ。やってくれる。僕は忌々しく舌打ちをして、腰にさわろうとしている男に銃口を向けた。かすかな躊躇。男の顔が歪む。それはずいぶんと屈折した血塗れの笑顔だった。
 僕はトリガーを引いた。
 反動による衝撃。男の右肩を撃ち抜いた。貫通して血が吹き飛ぶ。これでもう右腕は使えない。だが男は痛がるそぶりも見せずに左腕で腰をさわろうとした。もう一度トリガーを引く。わずかに照準がずれて左のわきの下を掠った。飛び散る血。硝煙の匂いを感じながらもう一発。反動の衝撃のあと薬莢が跳ね飛ぶ。三発目の銃弾はさらに狙いが外れて、男の心臓を的確に撃ち抜いていた。
 見開いた眼を血走らせ、狂気の笑みを浮かべたまま、男の身体がゆっくりと後ろに倒れる。心臓にできた黒点から血がとめどなく流れていた。僕は拳銃を下げた。友人が仰向けに倒れた男の腰をチェックして、こちらに戻ってくる。
 彼が耳元で言ってきた。
「やっぱり、爆弾を巻いていたよ」
「そうか」と僕はつぶやいた。
「気にすんなよ」彼は言った。「あいつは多分、麻薬かなにかをやってた。撃たれても痛がらなかったのがなによりの証拠だな。そんなやつを止めるには、あの方法しかない。おれも同じことをしてたよ」
「殺すつもりはなかった」と僕は言った。そう、両腕だけを使えなくしていれば、殺さずに自爆するのを防げていたのに。
「仕方ないさ」彼は僕の肩を軽く叩いた。「あの状況で正確に狙いをつけて撃てるやつなんかいやしない。狙いを定めてる時間に爆発されちまう。不可抗力だよ」
 僕はなにも言わずに拳銃をホルスターに戻した。
 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。腰を抜かしてる店員は眼の前で銃殺される瞬間を見たせいか、青褪めた顔に恐怖をはりつけている。振り返り、破壊された入り口に眼をやると、野次馬たちも似たような顔をしていた。その最前列にいる彼女もそうだった。ただその中には恐怖のほかにそれとは違う複雑さもある。射殺をしたのははじめてではない。戦場では突撃銃をぶっ放して<怪物派>の兵士を何度も撃ち抜いた。だがこんなかたちで撃ち殺したのははじめてだった。戦場にはある種のおかしな雰囲気がある。その中ではどんな暴力も正当の手段として認めてしまうような、そんな罪の意識を感じさせないものがある。だがいまこの場で僕の心を占めているのは圧倒的な罪悪感だけだ。まるではじめて戦場に出て、はじめて人間に銃口を向け、そして撃ち抜いて殺したときのような、そんな底無しの暗い闇の中に沈み込んだ感覚だけがある。兵士である以上、敵を殺すのことには当然の覚悟を持っていた。だがいま僕の心は揺れている。兵士としてまだ未熟と嘆くべきか、それともまだ人道的な罪の意識が残っていると思うべきか。
 射殺した男の傷口からはいまも血が流れていた。


 7.


「以上です」と僕は報告を終えた。
 ここは兵舎の中にある隊長室である。室内はほかの部屋と変わらない広さだったが、女性の部屋ということで、やはり僕らの部屋とは雰囲気が違っていた。まず清潔感があるのである。男の部屋はあまり掃除をしないため汚れがちなのだが、ここにはホコリやチリひとつ見当たらない。さらに机の上に置いてある時計もシンプルながらセンスを感じさせるもので、室内だけを見渡せば、およそ軍人の部屋とは思えないだろう。だが目の前にいる女性は間違いなく軍人特有の雰囲気を発散させていて、室内には緊張感に似た空気が満ちていた。
 椅子に座っている隊長が疲れたようにため息を吐く。僕はそのそばに立っているので彼女を見下ろすかたちになっているのだが、それはいつものことなのでふたりとも気にしていない。気になるのはそのあいだにある重苦しい雰囲気だけだった。
 街でのテロ行為のあと、僕はすぐに基地に戻ってきて、ことの一部始終を隊長に報告した。酔っ払っていた彼女はすぐに軍人の顔になった。まだほほに朱が差していてアルコールの名残は見えるのだが、それ以外はもとに戻っている。瞬間的に頭を切り替えられるのは彼女の恵まれた才能のひとつだった。
 報告をすべて聞き終えたあと、彼女が言ってくる。
「自爆テロか。この街にも戦火が近付いてきている証拠ね」
「そうですね」と僕はうなずいた。「来年にはここも戦場になるんでしょうね」
「来年か、もしくは年末あたりか、すくなくとも<怪物派>の人間がすぐそこまで来ているのは事実ね」
「いまの戦況、どうなんですか?」
「客観的に見て、こちら側の分が悪い」彼女は答えた。「兵士の数はこちらのほうが多くて、兵器も最新鋭のものなのに、押されはじめてる。向こうの指揮官が有能なのね。不利の中でどう戦えばいいのかわかってる。それにたいしてこちらは数にものをいわせた作戦しかとっていない」
「指揮官の差が戦況に出てると、そういうことですか」
「そうね。いまはまだ数の上で優位に立ってるから互角にやり合ってるけど、いずれジリ貧になる。そうなったら一気にもってかれるわ。向こうの指揮官はそれほど戦術に長けてるから」
「指揮官の有能さでいえば、隊長も負けてないと思いますけど」
「ありがとう」と彼女が微笑んだ。「でも、わたしたちが戦場に出るころには、もう敗戦一色になってるかもね。ここに帰ってきたときに上層部から連絡があって、南の基地がふたつ、落とされたそうよ」
 僕はなにも答えなかった。答えれなかった。
 最初はこちら側が有利なのに、どんどん不利になってきている。やはり隊長のいうとおり、指揮官の差が出てきているのだろうか。それとも勝ち続けている勢いだろうか。いや、それとはべつに、なにか不可視の力が向こうにはあるように思える。まるで人間のそれを超越した奇跡のような能力が。
 沈黙が続き、しばらくして隊長が聞いてきた。
「そういえば、彼女はどうしたの?」
「なにがです?」
「きみたち、一緒にいたんでしょう。送っていかなかったの?」
「それなら友人が送っていきました」
「きみが送っていかなくてよかったの?」
「犯人を射殺したのは自分ですから」と僕は答えた。「この場合、報告する義務があるのは自分のほうかと」
「なるほど。だから彼に送りを頼んで、きみが報告しにきたと」彼女が苦笑する。「相変わらずね。その判断は間違ってないけど、彼女も現場にいたんでしょう?」
 僕はうなずいた。
「それならきみが送っていくべきだったわ」彼女が言う。「未遂とはいえ、自爆テロの現場にいたわけだから、結構なショックを受けてるはずよ。恋人の心のケアをするのは彼氏の責任だと思うけどな」
「たぶん」と僕は言った。「一緒にいないほうがよかったと思いますよ」テロ犯を射殺したときの彼女の表情。そこには恐怖のほかにべつの感情もあった。
 いくら相手が自爆テロをしようとしている敵であったとしても、自分の恋人が、同じ人間を射殺する現場を直接、見たのだ。おそらくそれしかないとわかっていても、割り切れていないだろう。彼女の心の中にはいまも複雑な感情が渦巻いているはずだ。彼の行動は正しい。でも人殺しだ。でもそれをしなければさらに被害が広がっていた。それでも彼は。そんな解けない知恵の輪のように悪循環の無限ループにはまっているはずだ。それほどのショックを受けた表情を、あのときの彼女はしていたのだ。
 まあいいか、と隊長が言ってくる。
「きみたちのことはわたしには無関係だしね。それじゃあ、いってもいいわよ」
「わかりました」と僕は小さく頭を下げて、隊長室を出ようとした。
 ドアノブに手を掛けようとしたとき、背中に声が掛けられる。
「なんですか?」と振り返って僕は聞いた。
「ちょっと思い出したことがあった」彼女は言った。「きみの親友から聞いたんだけど、きみたち、<怪物>の正体がわかったんだって?」
 少し考えて、ああ、あのことか、と思い出して僕は答えた。「わかったってわけじゃないです。ただ憶測というか、推測をしただけで」
「興味あるな、その推測」彼女は言った。「よかったら聞かせてもらえないかしら?」
「いいですけど、それほどおもしろい話じゃないですよ」
「推測におもしろさは期待していない」彼女は言う。「ただ、いままで<怪物>にたいして、その正体を誰も考えようとはしなかった。きっと戦争が話題の中心に、その勝敗がすべてになったせいね。その発端となった存在にたいして、誰もアプローチをしなかった。わたしが知ってるかぎりでも、記者のひとりが論文を書いたくらいで、誰も<怪物>のことを調べようとしない」彼女が肩をすくめた。「もっとも、その記者が書いた論文も、馬鹿げてるって誰にも相手にされなかったけどね」
「どんな内容なんですか、それ」
「えーと、たしかね」彼女はしばし視線を宙に踊らせ、それから答えた。「たしか、<怪物>は新しい神のかたちである、とか、これは新世界への第一歩である、とか、そんな感じだったかな。子供のころに読んだやつだから、正確じゃないかもしれないけど」
「驚いたな、それ」と僕はつぶやいた。
「なにが?」
「その記者の考えかたに、です」僕は答えた。「じつは、僕らも同じことを考えていました」
 隊長が少し驚いたような顔になった。
 たしかにそうだろう、と僕は思った。神と<怪物>。このふたつは対極のところにいる存在で、同一のものではないのだ。それでもその記者と僕らの考えが同一の答えに辿りついた。回答の正否はわかっていないが、それでもそれが正解である可能性は高いのだろう。
 彼女が言った。
「本当に興味でてきたな、きみたちの憶測に」
「わかりました」僕は咳払いをひとつしてから話しはじめた。「まず僕らがその答えに辿りついたのは、<怪物>と<怪物派>のやつらとの関係が、神教徒のそれに似ていたからです。
 神教徒は、空想や妄想でしか見たことのない神を信じ、それを絶対だと思い込んでいます。それは<怪物派>も同じで、やつらも姿かたちのない<怪物>のことを絶対だと信じ込んでいる。つまりは実体のないものへの絶対的忠誠。この構図が、神と神教徒、<怪物>と<怪物派>に共通しているんです。
 でもここで疑問が生まれました。なぜ神教徒はそんなに神を信じているのか、です。誰もその姿を見たことがない、会話をしたこともない、そんな存在をなぜ崇められるのか。それを考えて出た答えが、人間を超越した存在だから、です。神は絶対の存在です。決して道を間違えることがない。絶対の存在が導く道であるのなら、それは間違いのない正しい道なのだと、神教徒はそう思い込んでいます」
「たしかにそうね」彼女はうなずいた。
「では、なにが神を絶対にさせているのか」僕は続けた。「絶対の存在として認知され、崇められるには、それを教える必要がある。つまり、絶対の存在が絶対の存在である所以。理由。それを見せなければいけない。ではどうやってそれを見せればいいのか。
 一番わかりやすいのが、能力です。人知を超えた力。それを披露すればいい。そのさいたるものが神話です。神話には、神が化け物と戦ったり、炎の巨人と戦ったり、もしくは人間どうしの戦争に関与してその勝敗を決定付けたりと、さまざまところでその力が発揮される。そしてその力は、よく悪と戦うときに披露されます。それも神イコール正義という構図を生み出した。悪を打ち倒す、圧倒的な力。それこそが神が絶対の象徴と崇められる理由のひとつだと、そう考えました」
「なるほど」と彼女がまたうなずく。だが今度は質問をしてきた。「でもその理論でいえば、<怪物>もその絶対的な力を披露したことになるわね。だってそれを見せなければ、<怪物派>のやつらに自分は絶対の神ですと、そう信じ込ませることなんてできないんだから」
「そうですね」
「でも<怪物>はそんな力を披露していない」
「いえ、披露してるんです」言ってから僕は首をふった。「いや、この言いかたは正しくないな。いまも披露しつづけている、というのが正しいですね」
 彼女が眉をひそめた。「どういうこと?」
「あれです」僕はそれを指差した。
 彼女がその指の先に眼をやる。
 カーテンがひらいている窓。いまは夜なので当然、外は暗闇におおわれている。そして漆黒の空にはいつものように赤い月が浮かんでいる。まるで戦場から流れる血を吸っているかのように日に日に深紅に染まってきている赤い月が。
 彼女がこちらに眼を戻して聞いてくる。
「あれがどうかしたの?」
「<怪物>は赤い月から現れた」僕は指を下ろして答えた。「よくそういわれていますね。でも本当にそうなのか。そもそもあの赤い月はなんなのか。なぜあれが現れたのか。疑問はたくさんあります。だから考えてみました。そしてある結論に辿りついたんです。
 それは、<怪物>が赤い月から現れた、ではなく、赤い月が<怪物>によって出現させられた、ということです。つまり逆の発想ですね。そう仮定すれば、さきほどの神の絶対的な力と当てはまる。月を出現させること、それは人間には真似できません。唯一絶対の存在だけができる芸当です。つまりあの赤い月こそが、<怪物>を絶対の存在と印象づける、その象徴なんです。だから僕らは、<怪物>を神か、もしくはそれに近い存在だという結論に思い至ったんです。
 以上が、僕らの推測です。どうでしたか?」
 彼女は黙っていた。
 沈黙が室内を支配する。彼女はむずかしい顔をしてなにかを考えているようだった。もしかしたら推測にたいする反論、もしくは欠陥を探しているのかもしれない。僕もそれきり黙っていた。窓から見える夜空には星が瞬いている。麗らかな春も、爽やかな夏も、穏やかな秋も、見える夜空の景色に変化はない。ただ煌めく星座がその季節によって変化しているだけで、それ以外はなにも変わらない。漆黒の中で光り輝く星々。おそらくはるか遠い過去にさかのぼっていっても、どんなに時代が進化していっても、それだけは変わらずに残り続けるのだろう。そして人々はそれに願いを託す。もしかしたら、星の輝きそのものがひとつの奇跡なのかもしれない。僕がそう思っていると、やっと隊長が顔を上げた。
 ノアの箱舟、と彼女がつぶやいてくる。
「なんです?」と僕は聞いた。
「きみの推測を聞いて、それを思い出した」彼女は言った。「ノアの箱舟の話、知ってる?」
「おおまかには」僕は言った。
 人間が悪事を行うことに怒った神は、地上にいる人々を大洪水で滅ぼすと神に従う無垢な人であったノアに天使を通じて告げ、箱舟の建設を命じた。ノアとその家族は一生懸命、箱舟を造り、そしてノアは大洪水がくることを前もって人々に知らせたが、誰も耳をかたむけるものはいなかった。仕方なくノアは自分の家族とその妻子、そしてすべての動物だけを箱舟に乗せ、洪水が引くのを待った。神が起こした大洪水は一ヶ月以上続き、そして地上に生きている人間をすべて滅ぼしつくしたのだった。
 僕は言った。
「たしか、こういう話でしたよね」
「おおまかにはね」
「それで、<怪物>の正体の推測が、なぜノアの箱舟の話に?」
「似てると思わない?」彼女は言った。「<怪物>が神だとするのなら、<怪物派>はノア。そして赤い月は大洪水。きみの推測どおりなら、赤い月を出現させたのは<怪物>ということになる。それは人々を滅ぼすという警告の意味ね。そして<怪物派>はそのことを知って、<怪物>の言うとおりに動いている。つまり」
「ノア、ですか」
「そう。もしくはその家族か、動物たちね」
 なるほど、と僕は言った。
 たしかにノアの話と似ている。だがひとつだけ疑問もあった。ノアの箱舟の話には、神とノアとのあいだに天使という通訳者がいたが、<怪物>と<怪物派>のあいだにはそんな存在はいない。いや、いるのかもしれないが、僕らは知らない。もしかしたら、その存在こそがこの戦争を起した張本人なのかもしれない。
 ため息をついて彼女が言ってきた。
「はい。これでこの話はおしまいね。街での自爆テロの件は報告書にまとめてくれるかしら。上層部に提出しないといけないから」
「わかりました」と僕はうなずいた。
「それじゃあ、いってもいいわよ。お疲れさま」
 僕は小さく頭を下げた。
 失礼します、と言って部屋から出る。長い廊下を歩いて階段をおりる。隊長室は三階にあって、僕の部屋は二階にあるのだ。等間隔にドアが並ぶ廊下を歩いて自分の部屋までやってきて、そのドアノブに手を掛けたとき、不意に声が掛けられた。そちらにほうに顔を向ける。友人が立っていた。予想以上に早い帰りだった。
 僕は言った。
「おかえり。早かったね。酒場で飲んでくるものだと思ってたよ」
「この状況だぜ」彼が肩をすくめる。「そうそう飲んでいられるかよ」
「たしかにね」
「それで、隊長への報告は終わったのか?」
 僕はうなずいた。
「なんか言ってた?」と彼が聞いてくる。
「べつに」と僕は答えた。「たいして気になる発言はなかったかな。まあ、戦火が近付いてきてるとか、そんな感じだったよ。あ、あと、南のほうの基地がふたつ、落とされたか言ってたな」
「またひとつ、こちら側が不利になったわけだ。このままいけば、いずれジリ貧になるな」
「隊長もそう言ってたよ」僕は聞いた。「それで、彼女の様子はどうだった?」
 彼はすぐには答えてこなかった。
 ふたりのあいだにかすかな時間、沈黙が訪れる。それはある種の重苦しさをともなっていた。友人はうつむいてこちらの顔色をうかがっているように見える。そういえば彼のこういう態度ははじめてだ。それほど彼女の様子はおかしかったのか。
 友人が言ってくる。
「まあ、なんていうか、怯えてたよ」彼は気まずそうに言った。「落ち込んでたし、こわがってもいた。あんなことがあったあとだから、仕方ないんだろうけど」
「そうか」と僕は言った。
「でもあれは仕方ないことだと、おれは思うよ。あのときあいつを止めるには、ああするしかなかった。何度も言うけど、誰だって同じことをしていたよ。おれだってあの状況じゃあ撃つしかなかった。選択肢はひとつしかなかったんだ」
「わかってるよ」僕は微笑んだ。
 彼はやっと安心したような顔になった。「まあ、彼女のほうは心配ないさ。あとで連絡でもすればいい。おれが言いたかったのは、あんまり落ち込むなってことだ」
「わかってる」僕はもう一度、同じようにうなずいた。
「それならいいさ。それじゃあおれは部屋に戻るからな。飲みたくなったらいつでも訪ねてきてくれていいぜ」彼はそう言って去っていった。
 僕は自分の部屋の中に入った。
 着ていた軍服の上着を脱いで、椅子の背もたれにかける。それから腰に下げたホルスターを拳銃ごと取って机の上に置く。そんなことはないが銃口からはまだ硝煙の匂いが立ち込めている感じがした。
 椅子に座る。
 ひどく疲れた一日だった。背もたれに全体重をあずけると、身体に鉛のような疲労が重くのしかかってくる。僕はため息を吐いた。それから窓に眼をやった。カーテンがひらいた窓からは、やや紺が掛かった漆黒の夜空と、その中に浮かぶ赤い月が見える。隊長室で見た光景と同じだ。不吉の象徴のような赤い月。隊長との会話が思い出される。つまりあの赤い月こそが、<怪物>を絶対の存在と印象づける、その象徴なんです。
 もし僕の推測どおり、あれが<怪物>の力の証明なら、いますぐにでもあれに攻撃をしたいところだ。なにげなしに机の上に置いた拳銃を両手で握り、赤い月に向けた。街ではテロ犯に銃口を向けても、撃つまでにかすかな躊躇があった。もしかしたらそのせいで照準が外れてしまったのかもしれない。だがもしも銃弾であの月を撃ち落せれるのなら、なんの迷いもためらいもなくトリガーを引けるのに。僕は疲れきったようにだらりと拳銃をおろした。
 うつろさだけが心の中を支配しているのを感じながら。


 8.


 紅葉が枯れ落ち、吹く風もめっきりと冷えてきて、そして雪が降ってきた。
 本格的な冬の到来。それはこの街で迎えるはじめての冬である。だが、だからといって僕らはとくにはしゃいだりとか、喜んだりはしなかった。みんな気付いているのだ。もうすぐそこにまでやつらが迫ってきていることに。
 しんしんと降った雪は兵舎に積もって、訓練どころではなくなったので、僕らは朝から雪かきをしていた。一年ほど前なら、雪かきをしている途中で誰かがふざけて無差別に雪玉を投げてきて、それから雪合戦になるのに、今年はそんなことにはならない。やはり戦争の影響だろう。隊員の顔は暗いものだった。年が明けて、雪が解けて、春がやってきたら、<怪物派>のやつらがこの街まで攻めてくる。秋から冬になるあいだに、七つの基地が落とされた。戦況はどんどん不利になっていっている。今年の夏までは曖昧で、秋になってぼんやりと輪郭が見えはじめ、そして冬になってはっきりとその姿が見えてくる。雪が解ければさらにはっきりと認識できるだろう。もう逃れられない戦火がすぐそこまでやってきていることに。
 そんな緊張がつねに張り詰めている中で、隊員たちにも変化が訪れていた。
 まずは脱走である。戦争がすぐそこまで来ているのを知って、こわくなって逃げ出す隊員が増えてきたのだ。もうどこにも逃げ場所はないはずなのに、彼らは一体どこに逃げるつもりなのか。ぼくはそう思っていたが、それでも脱走する隊員はあとを絶たない。それにかんして隊長がいつもため息をついていたのが印象に残っていた。
 そしてもうひとつの変化が、発狂である。逃げたい恐怖を耐えすぎたせいで、精神的に不安になり、突然に暴れだしたり、自殺したりしようとする。あれは訓練が終わって、みんなで兵舎の食堂でごはんを食べていたときのことだ。いきなり狙撃手が大声で叫びだし、腰に下げている拳銃を引き抜いて、天井に向かって撃ち出したのだ。僕らは三人ほどで彼を押さえつけたがそれでも暴れ続けた。まるで麻薬をやっているかのようなおかしな眼つきの彼の首筋に隊長が手刀を叩き込んで事なきを得たが、その事件のせいで隊員の心がさらに不安になったのはいうまでもない。狙撃手はある意味では一番、危険な役目である。なぜなら彼らは狙撃対象を見つけたら、銃口をそれに向けたまま、一週間もその場を動かずにトリガーを引くチャンスを待っているのだ。当然、狙われる可能性も高くなるわけで、死ぬ確率も高い。その死のプレッシャーは恐怖となって心の中を押し潰してしまう。食堂で暴れた彼もそうであって、彼は暴れた三日後、自分の拳銃で自分のこめかみを撃ち抜いて自殺していた。
 そんなこんなで隊の中で死という恐怖が、まるで伝染病のように蔓延している時期に、僕と酒場の娘との関係にも変化が訪れた。いや、それは変化ではなく、終焉といったほうが正しいか。
 あれは雪が積もっていたが、空は晴れていた日。彼女に呼び出された公園で、別れを告げられたのだ。そこに至るまでの経緯も理由もなにもなかった。ただ一言だけ、ごめんなさい、と悲痛な顔で去っていく彼女を僕は呼び止めることはできなかった。走りながら去っていく彼女の黒い髪と赤いマフラーがなびいていた。あとに残ったのは積もった雪にできた一直線に続く足跡と、心の中をおおう空虚だけだった。うつろな眼で空を見上げると冬にはめずらしく太陽が輝いている。その陽光が雪を解かすように僕の存在さえも解かしてくれればいいのに。
 そんなことを思いながら冬の公園にずっと立ち尽くしていた。
 それからしばらくして兵舎に戻ると、僕の部屋の前に友人が立っていた。話があるんだ、と彼は言った。なに、と僕は聞いた。その声は自分でも驚くくらいに冷えたものだった。快晴とはいえ外の気温は低い。そこにずっと立ち尽くしていたせいで身体だけではなく、心の中までも冷たくなってしまっていたのか。
 部屋の中に入った。
 友人は椅子、僕はベットのふちに座る。するといきなり彼が頭を下げてきた。彼は僕がいま彼女から別れを告げられたことを知っていた。そしてその原因は自分だと言った。つまるところ、このふたりは僕に内緒で付き合っていたのである。信じてもらえないだろうけどそんな気はなかったんだ。彼は言った。ただあの日、あの日の落ち込んだ彼女を見て、おれの中でなにかがときめいたんだ。
 彼の話はこうだった。
 秋に起きた<怪物派>の自爆テロ事件。その犯人を射殺した僕は、ひとりで兵舎に戻り、彼に彼女を家まで送っていくように頼んだ。その帰路の途中、ふたりの心情に変化が起きたという。まず彼女のほうはひどく落ち込んでいた。自分の恋人が目の前でテロ犯を射殺したのだ。いくらそれが敵とはいえ、同じ人間を殺したのだ。もし彼女が兵士なら、もしかしたらそのことを割り切れていたかもしれない。だが彼女は一般人で、夢に向かってまっすぐな優しい女性なのだ。だから割り切ることができず、ずっと苦悩し、落ち込んでいた。彼はその姿を見て、もちろん最初はただ励ますつもりで、もしくは僕の行為の正当性を説明するために、落ち込む彼女に声を掛けた。なぐさめの言葉を掛けたのだ。だが人間の心は不思議なもので、落ち込んでいるときに優しくされると、そちらのほうに心情がかたむくときがある。つまりそのときがそうだったのだ。
 心の中にできた複雑な負の感情は、黒く深い霧として彼女の心をおおっていた。だが彼の言葉によって、その霧が晴れていくのがわかったのである。その瞬間、僕にあずけていた想いが、彼のほうに流れていった。まるで季節が移り変わるように、秋から冬に変化するように、彼女の心は、僕から彼のほうに移り変わっていったのだ。そして彼のほうも、無差別テロで亡くした恋人のことを思い出していた。自分が守れなかった純真無垢な恋人の面影を彼女に見ていたのだ。そんな二人はすぐに友達という垣根を越え、より深い関係に進展していったという。つまり僕の知らないところでそれははじまり、そして気が付いたときにはすでに結ばれていたのだ。
 話を聞いて心の中に風が吹いたような気がした。それは真冬に吹く冷たいものだった。空虚の心にその風はひどく突き刺さってくる。まるで氷の槍で心臓を串刺しにされたような気分だ。殴っていいぜ。不意に彼が言った。うつむきながら、いや、殴ってくれ、とつぶやいてくる。彼はまるで罪を告白し、その罰を受ける囚人のような姿だった。僕は拳を固めた。だがそれを振り上げることはできなかった。彼の顔に拳を叩き込むことはできなかった。ただ脱力したかのように握った拳がひらいた。
 結局、僕はそんな男なのだ。
 その日の夜は、ひとりで酒を飲んだ。街のすみにひっそりとある小さなバーで、暗い照明と静かな音楽がマッチしているその空間で、カウンターでウイスキーを飲んでいた。その日の僕はアルコール度数の高いきついウイスキーばかりを飲んでいた。初老のマスターはなにも言ってこなかったし、なにも聞いてこなかった。彼はわかっているのだ。なにかを忘れたいときの男の行動を。つらい出来事を酒と一緒に飲み込んでしまいときの気持ちを。
 コップに注がれた琥珀色のウイスキーを半分ほど飲み干し、流れている曲が終わったころ、その店の扉がひらいた。客が入ってきたのだ。僕は気にしなかった。その客がとなりに腰を下ろしてもそちらのほうを見ようとはしなかった。ただコップに残ったウイスキーを一気に飲み干しただけだ。そしてコップをカウンターに置いたとき、声を掛けられた。女の声、よく聞いたことのある澄んだ声だった。
 驚いてとなりに眼を向ける。そこにはやはりというか、隊長がいた。彼女はこちらに顔を向け、やわらかい微笑を浮かべていた。やっと見つけた。彼女は言った。どうかしたんですか。僕はそっぽを向いて聞いた。初老のバーテンがコップにウイスキーを注いでくる。それから彼女の前にコップを置いた。同じようにウイスキーを注ぐ。彼女は琥珀色の液体に満たされたコップを持って、乾杯、と言って僕のコップに軽くぶつけた。コップが重なる音がしてウイスキーの表面が揺れ、波紋が広がる。僕は黙っていた。彼女は一口だけ飲んで、乾杯なんて気分じゃないか、そうつぶやいた。
 それから無言でふたりで飲んでいた。隊長が酔い潰れるんじゃないかと内心、心配していたが、そんなことはなかった。彼女はちびちびと舐めるように飲み続け、そしてしばらくして、もう帰るわ、と立ち上がった。僕はなにも言わなかった。まだ飲み続けたかった。彼女が勘定を払い、ふらふらとした足取りで扉まで歩く。初老のバーテンがなにか言いたそうな視線をこちらに向けてきたが無視した。彼女がなぜここに来たかはわかっている。だがそれでもその優しさに甘えれないときもあるのだ。コップの中に入っているウイスキーを飲み干したとき、あ、そうだ、と声を掛けられた。顔を向ける。扉の前にいた彼女はこちらを見つめ、相変わらずの柔和な微笑を浮かべながら、穏やかさの中にも真剣さを込めた声で言ってきた。寂しくなったらわたしの部屋に来てね。いつでもなぐさめてあげるから。そして最後にウインクをひとつして彼女は店から出て行った。
 僕は扉をしばらく見つめ、それからため息をついた。そういうことはとなりに座っているときに小声で言ってもらいたかった。決して大きな声ではなかったが、それでも彼女の声は小さな店内に確実に響いている。店にいるほんの少しの客たちが興味本位な視線をこちらに送ってきているのがその証拠だった。僕は照れ隠しのためにコップを呷った。いつのまにか心の中にある空虚にはなにかが埋まっていた。


 9.


 年が明けると、隊員の発狂、自殺はほとんどなくなっていた。そのかわりに脱走する数が増えた。いまの兵舎にはここにきたときの半分ほどしかいなくなっている。みんなこわくなって逃げ出したのだ。
 街の中もずいぶんと静かになった。もともとさわがしいところではなかったが、それでも人がいなくなるとすたれた感じがする。街の人はみんな、年明けと同時にシェルターに避難したのだ。誰もいない街の中を見ると、戦争がすぐそこまで迫ってきていることを痛感させられる。間違いなくこちら側が圧倒的に不利で、そしてまず確実に負けるであろう、ある意味、結果は火を見るよりあきらかな戦いが。
 そしてそのころになると僕は、ある種の悟りをひらいていた。
 つまりはこの戦争の無意味さに、である。なぜ戦うのか。<怪物>はなんなのか。そういった疑問を考えれば考えるほど、いやでも気付いてしまう。だから僕は思考を拒否し、死の覚悟を決め、確実にやってくるその日をぼんやりと思い浮かべながら生きていた。それは隊員のほか、隊長も同じで、みんなが同一の結果を予想し、そしてそれが当確であることを知っているため、口に出さずとも考えていることは一緒だった。つまりは、死、である。<怪物>の正体はこのさいどうでもいいことなのだろう。ただひとつだけわかっているのは、<怪物>は僕らの常識をはるかに凌ぐ能力の持ち主であり、そいつと戦うというのは無意味である、ということである。どんなに強いアリでもゾウからは勝てない。つまりはそういうことなのだ。僕らが戦っているのはそんな相手なのだ。<怪物>から狙われたときすでに、人間の敗北は決まっていた。いままでの戦いは文字どおり無駄な抵抗だった。だがそれもすぐに終わる。雪が解けこの街にやつらが攻め込んでくれば、それなりの抵抗をしたあと、僕らは敗れるだろう。どんなに戦力を整えても、どんな戦術を立てても、ただの時間稼ぎになるだけで、その結果だけは変化しない。つまり結果がわかっている戦いだからこそ、僕らは悟ったのだ。確実に死に向かっているということを。
 しんしんと降った雪が夕方ころにやんだその日、僕は外に出ていた。
 深夜である。外は暗闇につつまれ、街灯の輝きと、星の煌めきと、赤い月の光しか見えない。僕はそんな闇の中、街の中を歩いていた。軍服の上に厚手のジャケットを羽織っているのに当然ながら外は寒い。そして静かだった。静寂の中、響くのは雪を踏み歩く僕の足音だけである。はあと息を吐いた。白い吐息が霧散していった。なぜ街の中を歩いているか。それは脱走しているから、ではなく、最後になるであろう、僕が暮らしたこの街の光景を眼に焼き付けておきたかったからである。ここにきていろいろなことがあった。歩くたびにそれがまるで走馬灯のようによみがえってくる。自然と笑みがもれた。楽しいことや、いやなこと、つらいことも、いまではいい思い出として胸の中に残っている。一歩進むたびに、まるで雪に足跡が残るように、記憶の中にこの街での出来事が刻まれていく。もし僕が戦場で倒れ、朽ち果てても決して忘れないない最高の思い出が。
 二十分ほど歩いて、街のはずれにある酒場にたどりついた。坂道をのぼったゆるい丘の上にある店で、別れた彼女の家族で経営している酒場。この街に最初に来たときはみんなでここで飲んで、それからもよく行くようになった。隊の人間にとっては馴染みの店である。とくに僕の場合、彼女と付き合っていたので個人的にも思いれがある。別れてからは一度もきてなかったが、それでもこの店はなにも変わっていなかった。懐かしさに微笑みがもれる。扉に手を掛けるとひらかなかった。そうか。シェルターに避難するときに鍵を掛けたのだ。考えれば当然のことだった。
 仕方なく戻ろうときびすを返すと、坂道をあがってくる人影が見えた。
 灰色のコートを着て、ポケットに両手を入れて歩いてくるのは友人だった。首にはマフラーも巻いていた。僕は彼がくるのを待った。息を三度ほど吐いて、白い吐息が夜空に消えていったとき、彼は僕の目の前にいた。そういえばこうしてふたりきりになるのは久しぶりのことだ。あのとき以来、僕らの関係は希薄になり、ほとんど会話もしていなかったからだ。
 白い息を吐いて、彼のほうから声を掛けてきた。
「よう。やっと見つけたよ」
「探してたの?」
「まあな」彼は肩をすくめた。「こんな状況だから、いつ誰が脱走してもおかしくないしな」
「そういうきみのほうこそ、脱走しにきたんじゃないのかい?」
 僕がそう聞くと、なにか言い返そうとした彼はしかし、ため息をついて、真面目な表情で夜空を見上げた。
 お互いにさ、と言ってくる。
「やめようぜ、憎まれ口は。おれはただ、お前さんが兵舎から出て行ったのを見て、追いかけてきただけなんだ」
「そうか」と僕は言った。
「それで」と彼が聞いてくる。「こんなところでなにしてるんだ?」
「べつに。ただ、この街の風景を見て歩いていただけさ」僕は言った。「おそらく、雪が解けて春になれば、やつらがやってくる。だから戦争になる前に、この街のことをよく見ておきたかったんだ」
「ふうん」彼は言った。「やっぱり隊長の言ったとおりだな」
「なにが?」
「きみはセンチメンタルなところがある」彼は答えた。「隊長、なにかあるたびにお前のことそう言ってたよな」
「そうだっけ」
「そうさ」彼はうなずいて、くしゃみをした。
 僕らは冬空の下で会話をしているのだ。ときおり吹きかけてくる風がひどく冷たい。身体の芯をも凍えさせるような風だ。
 僕は言った。
「寒くなってきたし、そろそろ帰ろうかな」
「なんだ、もう戻るのかよ」
「ずっとここにいたら風邪引くよ」
「なら、身体をあたためるいい方法を知ってるぜ」
 にやりと笑みを浮かべ、彼は酒場のほうに走っていった。
 僕はその後ろ姿をただ見ていた。彼はいまでも、シェルターに避難した彼女と手紙でやり取りをしているらしい。詳しいことはわからないし、知ろうとも思わなかったが、ふたりが幸せならそれはそれでいいことなのかもしれない。この時勢の中で心を通わせる相手と出会えたというのは祝福すべきことなのだろうから。彼にたいする僕の複雑な心情は、いまはもう忘却の彼方に過ぎ去っていた。
 そんなことを思っていると、突然、ガラスが割れる音がした。酒場のほうからだ。それからなにか大きな物音。一体、彼はなにをしているのか。しばらくすると、両手にウイスキーの瓶を持って彼は戻ってきた。どうやら酒場から拝借してきたらしい。それならさきほどのガラスが割れる音は、侵入するときにでも窓を破裂させた音なのだろうか。鍵が掛かっているため扉はひらかず、だから窓を割って侵入し、そしてウイスキーを持ってきた。そこまでしてアルコールを摂取したいのだろうか。
 両手に持ったうちの一本をこちらに差し出して、彼は言った。
「ほら。これを飲めばあたたまるぜ」
「もしくは、酔ってなにも感じなくなるか」僕はウイスキー瓶を受け取った。「それにしても、軍人が泥棒みたいな真似するなよ。見つかったらどうするのさ」
「見つからないさ」彼は笑った。「それに、この代金と窓の弁償金はカウンターに置いてきたから問題ない。さ、飲もうぜ」
 僕らはウイスキー瓶のふたをあけた。すると彼はいきなり瓶を頭上にかかげた。
「乾杯」と言ってくる。
「なにに?」と僕は聞いた。
「われわれの勝利にさ」そう言って彼は笑った。
 僕は思わずため息をもらした。
 だがそれは落胆のものではなく、懐かしさからである。彼はどんなときでも前向きだった。つねに勝利を確信し、そしてそれを信じていればかならずそうなるであろうと思い込んでいるのである。残念ながらわれわれの敗北はほぼ決定済みだが、それでも未来のことなんて誰にもわからないだろう。絶対的な確率で負けるとわかっていて、死の覚悟さえもしていたのに、彼の無意味で根拠のない自信のおかげで、もしかしたら、という考えさえも浮かんでくる。そして自然と微笑がもれた。それは久しぶりの心からの微笑みだった。
 僕も瓶を頭上にかかげた。
 乾杯、といって、彼の瓶に軽くぶつける。静かな夜に澄んだ音が響いた。僕らは瓶に直接、口をつけてウイスキーを飲んだ。懐かしい記憶がフラッシュバックしてきた。あれは何年前だっただろうか。僕らがはじめて戦場に出たとき。勝利を確信し、総攻撃を仕掛ける前の日の夜に、まだ勝っていないのに塹壕に隠れて祝杯をあげたときのことを。あのときは<怪物派>の連中もまだ戦力が整っていなく、われわれの勝利はほぼ確信的なものだった。だがそれから数年で立場は完全に逆転され、いまはもう、反撃してもどうにもならないほどに追い詰められている。ふと思うと、あの日あの夜、塹壕に隠れて飲んだ祝杯は、いまはもう遠い過去の残像にかすんでしまいそうなほどだが、それでもその輪郭ははっきりと記憶している。懐かしいな、とつぶやいてくる彼に、そうだな、と僕はうなずいて答えた。僕らの頭の中には、あのころの記憶がいまもまだ、決して色褪せることなく残っているのだ。
 そんなふうに静かに飲んでいると、また坂道をあがってくる人影があった。
 だが今度の影は女である。夜の暗闇に映える長い金髪に、赤いベレー帽。軍服の上に紺色のロングコート。隊長だった。彼女はふたりで飲んでいる僕らを見つけると小走りで駆け寄ってきた。そしてため息をついた。白い吐息が夜空に消えていく。
 僕は聞いた。
「隊長。どうしたんですか、こんなところまできて」
「まさか脱走ですか」そう聞いたのは友人だ。
「そう」と彼女がうなずく。「ただ」と付け加えるその表情は微笑だった。「脱走したふたりの隊員のあとを追ってきた、というのが正解だけどね」
「ふたりの隊員?」彼は聞いた。「誰と誰ですか、それ」
「きみたちよ」彼女は僕らを順々に指差した。
 僕と友人はお互いに顔を見合わせる。どうやら彼が僕を尾行していたように、彼もまた隊長に尾行されていたのだ。
 勘違いですよ、と僕は答えた。
「脱走しようとしていたんじゃなくて、街の中を見て回ってたんです」
「そうですよ」と友人が同意する。「そもそもおれらみたいな、軍務に忠実な人間が脱走するとでも思ってます?」
「時と場合による、かな」彼女は言った。「こんな状況だから、誰がいつ脱走するかなんてわかんないし。ま、脱走したくなる気持ちもわかるけどね」
「ほとんど敗戦決定ですからね」僕はうなずいた。
 ふたりともなにも言ってこなかった。
 ウイスキーを呷る。それを見た隊長が少し驚いた表情になった。まるで動物園でめずらしい動物を見たときのような顔だった。
 彼女が聞いてくる。
「きみたち、そのウイスキーどうしたの?」
「持ってきたんですよ、酒場から」彼が答えて聞いた。「隊長のぶんも持ってきますか?」
 彼女は少し考えてから「いいや」と答えた。「飲んで、酔って潰れちゃったら、きみたちに迷惑かけるしね」
「隊長」と僕は言った。「ご自分の欠点、知ってますか?」
「さあ」と彼女が首をかしげる。
「隊員に気を遣いすぎるところです」僕は答えた。「少しは迷惑かけてもいいですよ。いつもこちらが迷惑かけてるんだから」
「そうですよ」と彼もうなずく。
「そっか」と彼女は微笑んで、それから言ってきた。「それなら、ウイスキー、いただこうかな」
「了解」彼は言って、酒場のほうに走っていった。積もった雪に足跡が残った。
「でも」と彼女が僕に言ってくる。「酔って潰れても、しらないからね」
「そのときはおんぶでもして兵舎に連れて帰りますよ」
「この街にはじめて来たときみたいに?」
「そう。この街にはじめて来たときみたいに」
 彼女がやわらかな微笑を見せた。
 そのとき彼が戻ってくる。手にはウイスキー瓶を持っていた。それを隊長に渡す。ありがとう、と言って彼女は瓶を受け取った。そういえば、と聞いてくる。このウイスキー、酒場から持ってきたといってたけど、酒場、鍵あいていたの。いや、しまってますよ。僕は答えた。じゃあどうやって中に。彼女が聞いてくる。窓ガラスを割ってですね、と彼が答えた。それで中に侵入して、棚から拝借してきたんです。あ、もちろん代金はカウンターに置いてきましたけどね。つまり、かぎりなく泥棒に近いことをして持ってきたってわけね。彼女は呆れたような声を出した。まあ、いいじゃないですか。彼が笑う。それじゃあ、あらためて乾杯しましょう。彼はそう言って瓶を掲げた。僕も隊長も同じように掲げ、乾杯、と瓶を触れさせる。静寂の中に澄んだ音が響いた。
 しばらく飲んでから、ぽつりと彼女が言ってくる。
「ねえ」
「なんですか?」と僕。
 彼女が言う。「このままさ、三人で、脱走しようか」
 驚いて僕らは彼女の顔を見た。
 ウイスキーを飲んでいるせいかほほが赤らんでいる。浮かべている表情は微笑だが、そこには儚さがある。硝子のように繊細で、触れれば壊れてしまうようなもろい微笑みだ。隊長職のせいでいつもクールに決めているが、内心ではやはりこわいのだろう。いや、彼女だけではなく、僕らも心の中に恐怖がある。それこそすぐにでも脱走したいほどの押しつぶされそうなほどの死の重圧が。
 彼も寂しそうな微笑を浮かべ言った。
「そうですね。三人で脱走ってのもいいですね」
「でもどこへ?」僕は聞いた。
「そうね」彼女が答える。「とりあえずは、戦争のないところ、かな」
 乾いた声で彼は笑った。僕はウイスキーを呷った。
 いまここで話しているのは、本当の気持ちである。いつもは取り繕って、そして強固な理性で無理矢理、押さえつけている本心、弱い感情が、この雰囲気のせいか、それともアルコールのせいか、出てしまっている。だが真情を吐露しても、僕らは脱走することはないだろう。どんなに劣勢でもそこから逃げ出すことはない。なぜだろうか。ウイスキーを飲んで考えてみた。なぜ戦うのか。その理由はなんなのか。考えてみる。命令だから。国家のために。敵がいるから。大切な人のために。仲間のために。まだ死にたくないから。まだ生きていたいから。家族のために。友のために。
 理由はたくさんあるだろう。だが結局ひとつだけの真実は、なにかを守るために、だと思う。それは大切な人たち、家族や仲間を守るためでもあるし、僕らのあとに続く新たな生命、その彼ら彼女らの未来を守るためでもある。
 つまり、僕らはなにかを守るために、なにかと戦い続けているのだ。
 酒が好きな友人も、クールな隊長も、そして兵舎にいる仲間たち、シェルターに避難した街の人々、そのすべてを守るために。彼らが平和で暮らし、未来永劫、つねに笑いあって生きていけるように。そこに正義とか悪とか、正しいとか間違っているとかの、単純な二元論は存在しない。そこにある意志はただひとつ、敵から守るということ。そのために戦うということだけだ。結局、僕らはいつまでも戦い続けるのだ。略奪や制圧のためではなく、大切ななにかを守りつづめために。
 ウイスキーの瓶をかたむけると、一滴だけ雫が落ちてきた。どうやらいつのまにかすべて飲み干していたらしい。彼が、もう飲んだのか、と言ってくる。新しいの持ってこようか、と聞いてきたので、そうだな、と答えようとしたとき、白いなにかがふわりと落ちてきた。
 それは僕の鼻に当たると冷たい感触を残して解けていった。雪だった。夜空を見上げるとしんしんと雪が降ってきている。夜の闇に降る雪は、黒と白のコントラストによってより幻想的に見える。
 手のひらに解けた雪の結晶をのせながら隊長が言ってきた。
「雪も降ってきたし、そろそろ帰ろうか」
「そうですね」と友人が同意する。
「隊長、歩けますか?」僕は聞いた。
「なんとかね」ほほを赤くした彼女はそう微笑んだ。
 三人でならんで歩き出した。
 静かな街にしんしんと雪が降り続ける。まるでピアノの旋律のような静謐さだ。その中で街灯の光が降る雪を彩る。静かに、ただ静かに降り続ける雪は、心の中に響いてくる哀しい旋律をともなって、澄んだ色をあざやかに映しだしてくる。まるで純粋なそれは、ひどく透明な純真さの静寂を心情にもたらしてくる。僕は歩きながら、ふと足を止めて、夜空を見上げた。相変わらず妖しい光を発している赤い月は、今宵は雲にかすんで、いつもよりおぼろげに見える。そのまま色褪せて、そして消えてなくなればいいのにと、そのまま戦争さえも終結してくれればいいのになと、雪が降る夜空を見上げながらそう思った。先に行っていたふたりが足を止めた僕のことに気付き、立ち止まって振り返り、どうしたの、と隊長のほうが聞いてくる。なんでもありませんよ、と僕は答えて白い息をひとつ吐いてから歩きだした。
 積もった雪に足跡を残しても、降る雪がそれを見えなくしてしまう。だがこの静寂の街に僕らは確かに存在していて、そしてここで暮らして、過ごしていたんだという事実はどんなに雪が降っても消えず、戦争でここがやつらに占拠、支配されても変わらない。しんしんと静謐な音色を響かせて降る雪の街を、たとえやつらに破壊されたとしても、その面影だけは、ここで過ごした大切な思い出とともに胸にいだいて、刻む込むように雪を踏んで歩いた。
 時代が流れ、誰にもわからない未来はしかし、誰かの手によって決められているのだとしたら、おそらく僕らはその流れの中にはもう、存在していないだろう。これからやってくる未来は無限の可能性、選択肢をもっていたとしても、それを自分の意思で選べる存在がいるのだとしたら、その彼は僕らを選ばない。彼は降り続ける雨がすべてを流し尽くすように、積もる雪がすべてを埋めて見えなくしてしまうように、僕らを排除し、新しいなにかをそこに芽生えさせる。そこに僕らの存在が介入できる余地はない。だが、だがいまならまだ、消え去る前に思い出だけは刻み込める。人々の記憶はこの大地の奥深くにまで根付いているから、僕らが消えたあとも、例えどんな大雨がきてもそれを洗い流すことはできない。いや、雨が大地につまった思い出を涙に濡らすために降るのだとしたら、それは永遠に明けない夜に悲しんでいるのだろう。彼はなにもわかっていない。なにもわかろうとしない。愛とか友情とか、そんな誰かを想う気持ち、守る心が、僕らにはあり、彼にはないことを。新たな種はそんな彼が創造したものなのだ。そこにはなにもない。なにもなければ夜は明けない。朝はやってこない。そして光は途切れ、未来は漆黒の暗闇につつまれる。そして彼は気付くだろう。僕らを排除したその選択肢こそが、いかに愚かな行為だったかを。たしかに僕らは裏切り、戦い、殺し合い、奪い合う。だがそれだけではないはずだ。誰を想い、守り、助け、そして愛することができる。それはとてもとても素敵なことだ。無償の愛は永遠の中で色褪せることなく、いつも誰しもの心の中に存在している。だからこそ僕らには光が射て、輝いて、どんな絶望からでも、しなやかに立ち上がり、歩き出すことができるのだ。希望に満ちた未来は絶対やってくるからと、そう信じて。
 兵舎についた僕らは、おやすみ、と挨拶をして自分の部屋に戻った。
 静寂の街ではまだ、ピアノの旋律のような静謐な響きで、夜の闇を銀色の結晶があざやかに彩るように、しんしんと雪が降り続けている。


 そうして雪が解け、さくらが咲き、春がやってくる。


http://www.juv-st.com/