サザエさんシンドローマーの抵抗
遠坂ちひろ
「しまった!」と声に出した時には、既に手遅れだった。
オレは、酒のつまみを、畳の上に落とし、右手で腹と、左手で頭を抱えた。傍から見れば猿のようで滑稽だが、実際、その痛みや苦しみは筆舌に尽くせない。壁の薄い六畳一間の、サラリーマン一人暮らしの俺は、部屋の壁の薄さを恨みながら、必死に、呻き声を抑えていた。そんなオレなど構いもせずに、テレビは陽気なエンティングを垂れ流している――そう、日曜日夜七時、あのアニメのエンティングを。
思い返せば、コンビニなんかで夕飯と酒を買ってきてしまったのが、運の尽きだったんだろう。こんな事態も想定して、毎週日曜日は、ファミレスか居酒屋で腹を満たしているのだが、今日は会社の同僚誰もが、オレの誘いに応じず、爽やかな笑顔を残してタイムカードを押しやがったものだから、腹いせにカップ酒でヤケになろうと思ったのだ。おいそこ、一人でファミレスにも居酒屋にも入れない臆病者だと笑っていいぞ。正直自分でもそう思ってる。
一人で、たらこスパゲティと、普段買わないカップ酒を買い、普段買わない――しかし大好物である――カルパッサを買って、一人で鼻歌なんかを唄いながら、普段の癖で、テレビを付けっぱなしにしながら、一人晩酌をはじめてしまったのだ。しかもばっちりフジテレビで。
たらこスパゲティを食べているときも、オレの目の前で、磯野一家は喜怒哀楽を繰り広げていたのに、何でオレは、エンティングまでを見てしまったのだろう――日曜日が終るのだと、こうなるだろうと分かっていたのに。
オレは、歌声に連動して軋む頭と腹を擦った。
「いてぇな畜生……ッ」
宇野ゆう子さんの澄んだ歌声も終盤で、テレビの中で磯野一家は、一列に並んで高床式のハウスへ収納されていく。オレの苦しみは、その家がこう、ぐにゃーと変形して、バイーンと戻るあたりで最高潮に達した。
このままではいられない。なんとかしなければ。
染みるような腹と頭からの痛みに、逃れるためにオレは、壁にかけられているそれを、必死にひきよせた。――月ごとに一枚ずつ剥がしていくタイプのカレンダーである。それと、アルミのペン立てに刺さっていたボールペンも手にとった。
おいそこ、オレが今からどんな行動に出るかなど、想像もつかないだろう。見てろ、オレが、ほとんどの人類が望んでいることを今してやる。
オレはできるだけ格好良く見えるようににボールペンを構え、そして、カレンダーにある月曜日の欄をすべて塗りつぶし始めた。畳の痕がついてしまうが、それは仕方ないだろう。ぐりぐりと、青色の"月"の文字から、その下の日付へ、また下の日付へ――少し丸まった数字を塗りつぶすうちに、潮が引いていくように、腹と頭の痛みが収まっていくのが分かった。
冷や汗で、髪も背もぐっしょりとなってしまったが、完全に月曜日が消え去った。これでオレは、あんな窮屈な場所に行く事もない。月曜日が無いのなら、もうずっと休日だ。脂ぎったブタにへりくだったり、何度も何度も取引先に頭を下げたり、心臓が飛び出るほどの緊張を強いられるプレゼンテーションをしなくたっていいんだ。誰しも望んでいた事だ。誰だって月曜日は憂鬱だろう。これでいい――これでいい――これでいいんだ――。
酒で熱くなった思考は、そのまま溶けて、オレは畳の上に寝転んだ。
***
「しまった!」と声に出した時には、既に手遅れだった。
この着信音は職場関係だ――おそらく上司からだ。ヤバイ。急がないと。
オレは、三分の一ほど残ったカップ酒やら、食べかけのカルパッサやら、スパゲティの容器やらを片付けようと立ち上がると、何かに滑って、それはそれは大仰にこけた。あーあ。焦るとろくなことがないと、ゆっくりと、原因を摘み上げれば、それは昨日のカレンダー――月曜日だけが、なくなっているカレンダーだった。
――オレは、何処に行こうとしていたんだ。
もう一度オレは畳に突っ伏した。行かないぞ。今日は月曜日なんかじゃないんだと、自分に言い聞かせながら。穏やかで静かな休日は、誰にも邪魔はさせやしない。だから、テーブルの上で振動しつづけている携帯電話は騒音極まりない。通話ボタンを押したのはそれだけ。それだけなんだ。
「オレは、行かないぞ!」
「お、おい、何だ、どうした。風邪でも引いたか」
聞こえてきたのは、オレを心配する、酷く優しい同僚の声だった。
「いや――」
思ってもいなかった返答に、言葉を見失った。しばらく迷ったが、塗りつぶされた筈の日付がうっすらと見えた。
だから、オレは言ってやったんだ。それだけ。それだけなんだ。
「いやぁ、二日酔いでね。行きたくねぇけど、大丈夫、すぐ行くよ」
オレは電話を切ると、カレンダーを壁にかけなおして、シャワーを浴びに風呂に向かった。
携帯電話のサブディスプレイには、確かに「MON」と、表示されていた。