リンコ
遠坂ちひろ





***


「あー兄、りぃ兄。聞いて。いいもの見つけたの」

 木枯らしの吹く中、家に戻って来て早々、リンコは自信満々にそう告げた。
 僕達は、大袈裟なため息と共に、呆れと苦笑いを吐き出した。末っ子のリンコはいつもこうなのだ。
村の"外"に飛び出していったかと思うと、すぐに何かしら厄介ごとを携えて戻ってくる。この前だって、「砂丘の怪物に飲まれそうになった」と体を砂まみれにして話していたというのに、コイツは。
 説教の一つでもかましてやらなければと、僕が口を開くより先に、兄さんが話の続きを促した。

 「今度はなんだい?」悪戯っぽく笑い、「"あの国"の奴らにでも追い立てられたか」

 リンコは顔を真っ赤にして否定するが、語尾の歯切れの悪さを見る限り、少なくともそういう節があったと言うことだろう。

「でもでも、見付けたの」リンコは息をつくのも億劫になるほど急いている。

「だから何を」

 僕は、ぶっきらぼうに聞くと、リンコは待ってましたとばかりに声を張り上げた。

「"お菓子の家"よ」

「お菓子の家ぇ?」

 思わず声が裏返る。予想外の答えだ。僕は小さく咳払いをしてから、もう一度確認した。

「"お菓子の家"って、あのお菓子の家?」

「うんっ」

「"あの国"のおとぎ話にもある――」

「そうそう」

「嘘つけ」

「酷い!嘘じゃないよ!」

「落ち着け二人とも。で、リンコ。その家は何処にあったんだい?」

 口論を始めそうになった僕らを諌めた兄さんは、できるだけ優しく尋ねた。

 「――"外"。少し遠いけど」すこしきまりが悪そうにリンコは呟く。「キャンディーにチョコレート。いろんな色のグミにさくさくのクッキー――ね、見てみたいと思わない?あー兄」

「でも、"外"はとても危険だよ。何が起こるかわからないし」

 兄さんの声に、僕らの雰囲気は一気に底冷えした。つい先日、鋭い刃物を持った女に、追い立てられたばかりなのだ。兄さんは、今の時期は皆気が立っているだけだといっていたけれど、僕にはそう思えない。彼らは――"外"にいるすべてに対し、僕らは絶対的に弱者でしかない。
 そんな僕の思いを察してか、はたまた、砂丘の怪物の事を思い出したのかは知らないが、リンコは一瞬身震いをした。しかし、ここで食い下がるわけにはいかないと、おずおずと兄に進言する。

「だけど食べ物を手に入れる時は」

「あれはしょうがないさ。そうしなければ生きていけないから」

 兄さんがニコリと笑う。

 "生きていけない"

 そりゃそうだ。村の"外"はいつだって危険と隣り合わせでで、いつ命を落としたって可笑しくない。何より、"あの国"の脅威もある。
 しかし、"外"には明るくて、面白いものが溢れている。それこそリンコがいうような"キャンディーにチョコレート。いろんな色のグミにさくさくのクッキー――"

「やだやだ、やだっ。行くったら、行くのっ」

 嫌々と暴れるリンコに、兄さんは困ったように笑った。僕もこうなった末っ子をなだめられた試しは一度もない。

「リンコ、駄々こねるなよ。もう子どもじゃあるまいし」

「――子どもだよ」

 ほとんど突き放すように告げた僕に、リンコは真剣な目を向けた。

「母さんの子どもだもん」

 兄さんの目が、すっと細められる。僕はそっと、目を背ける。

「母さんに食べさせてあげたいの。お願い。リンコだけじゃここに運びきれないの。お願い、兄ちゃん達」

 すがるように、情けなく実の兄に懇願するリンコ。
 半ば泣きそうな顔をしたコイツのせいで、僕と兄さんは、本日二回目のため息をつくことになったのだった。


***


 リンコを先頭に、僕らは這いつく張るように移動していた。
 リンコに道案内させるのは、少し気が引けたが、「大丈夫。印は残しておいたから」と胸反らす態度に気圧されて、リンコの後を行く兄さんの背を見つめる羽目となってしまった。と、言うわけで、僕らはリンコ、あー兄さん、僕の順で歩いているのだ。
 木枯らしが吹きすさぶ。舞い上がった木の葉は、ちょうどよい具合いに、僕らの姿を隠してくれた。これなら、"あの国"の奴らに見付かる心配もないだろう。
 黄色い落ち葉の上を歩いていると、ふと、母さんの顔が浮かんだ。色黒で艶やかな肌、美しい曲線を描いた顎。母さは、僕らの他にも沢山の子を生んでいたらしい。あった事のない兄弟のことを思う日もあるけれど、なんとなく、彼らのことは分かる気がする。きっと、母さんに似て、強く聡明で優しい奴らなのだろう。
 母さんとは、訳あって一緒には暮らせないけれど、それでも僕は――

「見えてきたっ」

 びくりと体が弾んだ。目の前に、垂直に切り立ったクリーム色の絶壁が見えた。

「ここは――」

 兄さんが渋い顔をした。リンコがつけた印は、絶壁に負けず劣らずの巨木にあり、それは頂上へと続いている。高い。
 早く早くと、リンコは待ちきれないように足踏みをしている。

「こんなところまで一人で来たのか。たいしたもんだ」

 にやにや笑いながら、兄さんはリンコの頭を撫でた。しかし、どこかその微笑みはぎこちない。



「"あの国"の領土だ」

 高揚感に耐えきれず走り出したリンコを尻目に、僕だけに聴こえる声量で兄さんが囁く。
 "あの国"。
 その名を聞いたときに、よぎった、背も凍るような不安を伝えておけば、あんな事にはならなかったのかもしれない。

「兄さん」

 何かにせかされるようにして、僕は兄さんに進言した。その一言で、僕の言いたい事は伝わった筈だ。
 しかし、兄さんは、やっぱりにやにや笑いながら告げるのだ。

「なぁに。心配はいらないさ。今は冬だし、警備も薄い。これまでだって、一度も見付かったことなかったじゃないか。」

「でも」

「それに」悪戯っぽく囁きながら、笑った。「リンコにあんな笑顔されたら、駄目だと言えるか?お前」



***



 細い通路を通ると、辺りは赤い草原だった。

 「もうちょっと、もうちょっとなのっ」

 せき立てられているように、リンコは、兄さんの背丈ほどあるも草をかき分けて進んでいく。確かに、辺りに甘い匂いが充満しているし、さっき、クッキーやキャンディーの欠片を見付けた。夢の家は近い。

 「気をつけろよ」兄さんが僕だけに聞こえる音量で言った。「いつどこから攻撃してくるか分からない」

 「わかってる」

 そう呟きながら、様々な方向に目を走らせる。あの後すぐに兄さんと相談して、リンコの前を兄さんが、後ろを僕が守ることになった。兄さん、リンコ、ボクの順だ。とは言っても、視界は三六〇度、全て赤の草に奪われている。高台から狙われれば一貫の終りだ。湧き出る恐怖は中々収まらなかった。もし、ここで”あの国”の兵士が飛び出てきたとしたら、僕は二人を守りきれるだろうか。
 不安に駆られながら、僕は兄さんを垣間見た。僕達二人に「何か起こったら、何が何でも逃げること」と、腰抜万歳な約束させた兄さんの顔が、何故か頼もしく見えた。だが、兄さんも不安で一杯なのだろう。張りつめられた緊張の糸を切らぬよう、慎重に足を動かした。

 「見てっ」

 突然張り上げられたその声に、びくりと心臓が跳ねる。慌てて振り向くと、何かを指差すリンコがいた。

「なんとまぁ」

「ね、すごいでしょう」

 兄さんが感嘆し、リンコは満面の笑みを浮かべた。僕はというと――文字通り言葉を失っていた。
 赤い草原の切目に広がるのは、まさしく憧れの家だった。大きな山の裾に立てられたそれは、天井の高い豪邸だ。クッキーの壁。チョコレートの屋根。キャンディーの窓。きっと中には、グミの柔らかいソファがあるはずだ。

 「母さん――喜んでくれるかな」

 珍しく、不安そうな口ぶりで、僕と兄さんに通りを求めているリンコ。
 そんなの当たり前じゃないか。
 兄さんが、またリンコの頭を撫でて、柔らかく笑った。

「喜ぶに決まってるさ」

 僕ら三人は、暖かな気持ちが流れ込んでくるのを感じながら、暫くその家に魅入っていた。
 母さんの笑顔――生まれた瞬間しか、彼女の声も、身体も、感じたことは無いけれど、その暖かみだけは覚えてる。
 "ありがとう、生まれてきてくれて、ありがとう"
 その暖かみをしっかりと噛み締め、僕はたった一度の母さんの微笑を、脳にしっかりと刻みつけていた。




 だから、気付けなかったんだ。



 轟音は突然だった。赤い草原がざわめいている。

「しまったっ」

 一番早く状況を判断したのは兄さんだった。リンコを抱えて、一直線に、あの細い通路目指して草を踏み潰していく。
 しかし、草の高い背丈が邪魔をして、中々前へ進めない。

「くそっ」

「あー兄ちゃんっ、何あれ?」

 悪態をつく兄さんの脇で、リンコが目を見開いた。つられて僕も振り向く。
 漏れたのは小さな悲鳴だった。
 地響きと風を起こしながら迫ってくるのは、謎の銀色の物体だった。長い円柱を、縦半分に切断して、切断面を下にした形。それは、耳を塞ぎたくなるほどの音を巻き散らしている。

「見てっ」

 リンコの指先を追うと、"アレ"が次々と、お菓子の欠片を消していくのが見えた。

「消えた――」

 リンコが呆然と呟く。なぜ?どうして?さっきまであそこにあったのに。

「兵、器?」

 無意識に自らの口から出た一言に恐怖した。恐れから顎ががくがくする。先ほどまでの暖かみも、僕達の思いも、このまま、”アレ”によって消されてしまうのだろうか。

「違う」兄さんが息を切らせながら続ける。「”アレ”の下の方をみてみろ。"飲み込んでる"んだ」

「なんだって?」

 背伸びし、耳を澄ます。本当だ。轟音に掻き消されかけているけど、何かを嚥下する音がする。
 「まさか……生物?」そんなまさか。一笑にふそうとする僕がいる一方で、ここなら有り得るという変な確信もあった。文明の異常発達を有している"あの国"は、力をもって他国を次々と手中に納めていると聞く。生物兵器の一つや二つ、あっても不思議ではない。

「うわっ」

「リンコっ」

「足が、ひっかかって」

 悲痛な声に振り返る。僕が見たものは、赤い草がまるで蔦のように絡みついているリンコの姿だった。
 まるで、それは、拷問を受けようと待ち構える囚人のようで、僕は息を呑んだ。

「リンコ!」

「くそっ」

 兄さんがなんとか解放しようと手を出すが、草に触れる度に彼までもが拘束されていく。

「兄さんっ、――ヤバいよ!」

 不安と恐怖に耐え切れず、僕は悲鳴に近い呼び声をあげた。
 "アレ"は唸り声をあげながら、僕らを確実狙っている。あと数十秒もしないうちに、皆――。
 嫌だ嫌だ嫌だ!僕はまだ生きたいよ。どうしてこんな事になったんだ?
 "あー兄、りぃ兄。聞いて。いいもの見つけたの"
 そうか、リンコがあんな事を言ったから。お菓子の家を見つけたいといったから。何故僕は賛同したんだ。
 "なぁに。心配はいらないさ。今は冬だし、警備も薄い。これまでだって、一度も見付かったことなかったじゃないか"
 そうだ思い出した。兄さんが言ったから。あー兄さんが言ったから。僕は渋々、承諾したんだ。僕のせいなんかじゃない。リンコが悪い。兄さんが悪い。何で、僕が彼らを守らなければならない。悪いのは奴らだ。

 僕は悪くない、僕は悪くない――僕は悪くない!



「―――」

 轟音迫る中、一人混乱の中にいた僕に、ある声が届いた。

「何、兄さん?」

 震える声で問い掛ける。あぁ、そうだ、僕は何をしていた?何を責任転嫁していたんだ。
 落ち着かなければ。此処からの脱出を。皆で家に――。

「――ろ」

 兄さんは、下を向いて何かに耐えるようだった。その姿にイライラしている自分がいたが気にしない。兄さんは、僕等のの頼れるあー兄さんだ。何か知恵をくれる筈なんだ。此処からの脱出への道を!

「煩くて聞こえないんだ。何?早く逃げないと――」


 そこまで言ってから、僕は口をつぐんだ。


「―――」


 轟音がやんだ。現実世界で響きつづける音が、僕の頭の中では止んでいた。
 顔を上げた兄さんが笑っていたからだ。
 だだをこねたリンコをなだめる時にする、困ったような笑顔を僕に向けていたからだ。

 ――わかってしまったからだ。

 聴覚を犯すような音の渦は変わらないけれど、兄さんの言わんとしていることは、何と無く分かってしまったのだ。

 ――それでいいじゃないか。

 先ほどまでの僕が呟く。

 ――"リンコが悪い。兄さんが悪い。何で、僕が彼らを守らなければならない。悪いのは奴ら"なのだろう?

 ねとねとしたトリモチのような声が、僕の一番黒い部分から発せられる。そうだ。僕は渋々来ただけなんだ。なのにどうして彼らを?

 ――"僕は悪くない、僕は悪くない――僕は悪くない!"



 僕は、その言葉をゆっくりと口にした。
 地響きが、現実が、帰ってきた。



「嫌だ」



 そんな真似出来るか。兄妹を、たった二人の家族を、置いてけぼりなどりできるか。
 体は正直に、がたがたと震え続けている。そんなの関係ない。


「嫌だっ」

「ごめんね、こんなのに付き合わせちゃって」

 リンコも笑っている。怖さにも悲しみにも全て蓋をした、今にも泣き出しそうな顔で、兄さんと同じような笑顔を僕に向けている。
 どうして?
 幼いお前まで、こんな僕にそんな笑顔を向けるんだ?

「嫌だっ!」

 二人にとりついて、必死で草をむしりとる。怒りと悲しみとやるせなさと恐さで、頭がおかしくなりそうだ。だけど、こんなところで失えない。失ってたまるか。

「諦めるなよ。――諦めるんじゃねぇよ!皆で逃げるんだ!」

 地響きが強くなる。もうそこまで"アレ"は来ている。何か手はないか。僕は、滅多と使わない頭を限界まで稼働させている。どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい?

「馬鹿っ!お前だけでもっ」

「黙ってて兄さん!」

 草を噛み切るか?いや、草に纏わり疲れている箇所が多すぎる。とても間に合わない。
 何か刈る物は無いか。草を切り裂き、僕らの日常を取り戻す何か。あるはずだ。二人を連れて遠くに逃げる方法が。何処かに、何か、何か。

「早くっ」

「煩い。今考えてるんだ」

「考えるも何もあるか。現状を見ろ。俺とリンコは動けない」

「それでも、まだ生きてる!」

「死にたいのかよっ」

 冷たく刺さるその一言が重く、喉が詰まる。
 ふいに溢れ出しそうになる何かを、僕は必死に留めた。

「死にたく、ねぇよ」

 搾りかすのような声に、一番驚いているのは僕自身だ。
 頭が割れそうだ。芯が熱くなり、もう何も考えられない。目の前が見えなくなる。一体、どうすればいいんだ。どうすればいいんだ。

「りぃ兄」

 リンコの声に顔をあげた。

「これ」

 そういって、リンコは自分の手を示した。大切なものを守るように、柔らかく握りこんである。

「手を出して」

 促されるままに、そうすると、ころりと何かが僕の手の中に転がりこんだ。

「母さんに、食べさせてあげたいの」

 小さな小さな、キャンディーの欠片。日に翳せばきっと、キラキラと光る、虹色の欠片。

「リンコ――」

 弱々しく名を呼ぶ僕を励ますように、リンコは満面の笑みを見せた。

「お願い、りぃ兄」

「だけどリンコ」

 言葉に詰まった僕が聞いたのは、兄さんの最後の言葉だった。




 「リンコにそんな笑顔されて、駄目だって言えるか?お前」



***




 轟音は収まっていた。
 "アレ"は――"あの国"の生物兵器と思われる物は、ゆっくりと地面から浮き上がり、そのまま凄い勢いで何処かへ消えて行った。
 僕は、絶壁の縁に立ちながら、無表情にその行方を見つめていた。

 僕にはまだやることがある。いつまでもこんなところにいられない。

 気を引き締め、巨木を伝い、下に向かう。木枯らしの冷たさが、やけに身に染みたが、気付かないふりをした。舞い落ちる落ち葉、どうか僕をうまく隠してくれ――リンコのつけた印を、たった一人で辿りながら、僕は祈る。

 僕にはまだやることがある。

 村に帰って母さんに逢うんだ。最後のリンコの笑顔を、彼女に伝えなければならない。握り締めた手を開いた。リンコの、いや僕らの夢の欠片が太陽の光に煌めく。透き通る虹色。きっと、どんな菓子よりも甘いことだろう。

 僕にはまだやることがある。

 灰色の地面が消え去り、クリームグリーンに変わる。気付いたときには遅かった。
 足が動かない。 

 僕にはまだやることがある。

 もがけばもがくほど、僕はねばねばとした緑に引きずり込まれていく。腹が、頭が、手が、足が。
 ふと、空を見上げると、太陽はなかった。
 真っ暗だった。

 「僕にはまだやることがある!」

 何かが潰れる音がした。



***



 「あ、凛子」

 しまった。母に聴こえないようにそっと舌打ちをし、手に持った革靴を無意識に隠す。
 母に見付からないように、細く開いた大窓から、そろりそろりと入ってきた苦労が水の泡。銀色をした新品の掃除機を置き、鼻歌を唄いながら戻ってきた彼女と、思い切り鉢合わせてしまった。

「まだお昼じゃない。学校は?まさかまた」

 あー、うるさいうるさいうるさい。
 右から左に小言を聞き流しながら、玄関に革靴を置きに行く。ふと靴の裏を見ると、誰かが吐き出した緑色のガムに、絡め取られた蟻がへばりついていた。うわ、気持悪い。顔を顰めて、ティッシュでそぎ落とす。鼻先に使い古した革の匂いと、やけに甘い匂いが漂ってくる。
 居間に戻り、毛の長い赤い絨毯を踏みしめながら、こたつに潜り込む。赤外線の気持よさに頬を緩めながら、抜け出してきた学校を思い浮かべる。小テストのあるリーディングをサボるつもりは無かったのだが、馬鹿みたいにつまらない生物が時間的に先立ったため、ついでにふけてしまった。明日、誰かにノート写させてもらおう。頭の片隅でぼんやりと考えながら、体を横にすると、変わったものが目に入った。
 クッキーの壁、チョコレートの屋根。キャンディーの窓。

 掌サイズのそれは、まさしく"お菓子"の家だった。

「母さん、これ」

 不思議に思って問うと、兄が勉強の息抜きに作ったらしい。ったく浪人生め、何て面白いことをしてくれるんだ。
 ヘンゼルとグレーテルの話が浮かんだ。"キャンディーにチョコレート。いろんな色のグミにさくさくのクッキー――"
 あの頃憧れていた"家"は、埃にまみれ、掌に収まるほど小さくて、夢を壊されたようで、私は憂鬱になった。

 母さんが目をキラキラさせていった。

「それ、食べていい?」

「汚いでしょ馬鹿」

「あ、凛子!」

「ありんこじゃあるまいし」

 そう私は言い放つと、淡々とそれをゴミ箱に放り込んだ。



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