引越し
八島奏
「では、3時に伺いますので」
私は、その言葉を聴いて安心して受話器を置いた。
腕時計を見る。あと30分もすれば業者がやってくることになる。
テレビもパソコンも、愛用していたものはすでにダンボールに梱包済みで、手元には一番愛読していた本だけを残しておいたのだが、何となく落ち着かなくて結局読む気になれない。長かったここでの暮らしも、たった30分でもう終わりなのかと思うと急に惜別の念が沸いてくるようだ。
私は、積みあがったダンボールの上に本を置き、慣れ親しんだこの部屋を見回した。
良い部屋だったと思う。
狭いし汚いし、風呂トイレ別だし、彼女を連れ込んだことも、友人を誘い入れたことも全くなかったけれど、私が作り出した私の城はこれ以上ないくらい素晴らしい居心地を提供してくれた。そこかしこにある傷や染みの思い出を、私は一つ余さず語ることが出来るだろう。
ああそうだ。
私は唐突に思いつき、ゴミ袋を漁って髭剃りを取り出した。
こういうのは、はじめが肝心なのだと思う。新しい生活をこれから始めるのだという気持ちを新たにすることが出来るし、何より世話になるであろう業者の方々に髭面で会う訳にも行くまい。
私は洗面所へ向かい、しばらく伸ばしっぱなしにしていた髭を剃り落とした。そして、びしゃびしゃと顔をすすぎ、ハンカチで水を拭いながら鏡を見つめる。こいつは久々に会う面だ。鏡の自分と目を合わせながらつい笑ってしまう。
「お前とももうお別れなんだな。今までありがとうな」
と、腕時計がアラームで2時50分を教えてくれた。
私は、急いで洗面所を出ると、髭剃りとハンカチをゴミ袋に突っ込んだ。
スーツの汚れをチェックし、ネクタイを締めなおす。
ここまですることはないと思うが、それは髭剃りと同じことだ。
最後に部屋をもう一度見渡し、これでよし。
本当にもうすることがなくなった。
私は、ポケットから一錠薬を取り出して飲み、ダンボールの上に置いておいた本を手にとって窓際へ向かう。
今日でもうお別れだというのに、なんていい天気。
*
「ちはーっす。○×引越しセンターでーす」
定刻どおりに彼らはやってきた。彼らはてきぱきと物を運び出していく。
「テレビは○○さんのところ、パソコンは△×さんのところにお送りすればいいですね。で、これはゴミとして処分、と」
彼らの仕事は見事なもので、5分もしないうちにこの部屋から一切のモノを運び出した。
「では、我々も参りましょう。大丈夫ですよ、ちゃんとキンキンに冷やした車で参りましたから」
*
作業服を着た男が2人、一際大きな箱を抱えて階段を下りてくる。
すると突然、静かな街に怒号が響いた。
「止まれ、警察だ!」
車の中で待機していたらしい警官が一斉に二人の下に駆け寄り、包囲したのだ。
リーダー格らしい私服の男が警察手帳を取り出し、彼らに箱を下ろすように命じる。
作業着の男たちは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、観念したのかすぐに箱を下ろした。背後で銃を構えていた部下たちが2人を拘束する。
「中を改めさせてもらう。場合によっては・・・分かってるな」
私服が、作業着たちを睨みつけながらゆっくりと箱を開ける。
中では、スーツを着た小奇麗な男が眠るように死んでいた。
*
ゴースト・バンク。
それは、20年ほど前に確立した技術である。脳内の全データをスキャニングし、その人間と同様の行動原理で動く仮想の人間を作り出して保存し、彼らのためのコミュニティーをコンピュータ上に構築するというものだ。ただし、それには脳を取り出す作業が必要であり、法律的に死が認定された人間にしか対応できないという欠点があった。
開発・普及に当たった彼らは純粋に、末期の病人や、突然愛する人を失ってしまった人のためになると信じて活動したのだと、彼らの名誉のために予め断っておく。
しかし、現実はそうは行かなかった。
世界は彼らの想像以上に現実に飽き、疲弊し、または絶望していたのだ。
新しい世界に生きたい。
自殺は最早ブームであり、彼らのそれを助けるのは商売であった。
合法・非合法のものを含めてゴーストバンクは拡大し続け、いつの間にか巨大産業になった。
法も慌てて整備されていくことになるが、出来たのはせいぜい斡旋業者に厳罰を設けることくらいで、自殺者をゴーストバンクに入れないという処置は未だに世論の賛成を得られずにいるのである。
*
警官たちに囲まれ、作業服の男たちは不敵に笑い、言った。
「死んだもん勝ちなのさ」